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初産奮闘記

6/28

 こと子(私とピーの第一子)の予定日6/27から1日経つがまだ置賜からの連絡はない。仕事帰りにオヤジからメシでも食いに来ないかと電話。時期が時期で特に予定を入れてなかったので気軽に応じ実家でオヤジと晩餐。オレはいつでも車で動ける様酒は飲まない。

 出産はまだなのか、などと四方山話をしてるところに置賜の父タカシから、瞳の陣痛が始まったのでこちらに向かってください、とLINEが入る。話題を無理やり遮ってオヤジにその旨を伝え、今から出ると。オヤジには勿論その経緯は事前に伝えてたのでそのまま車を借りて山形に向かう。22時頃出て深夜2:45くらいに米沢の病院に着いた。

6/29

 病院に着くと山形の母ヒロコが入院したピーに付き添ってくれていた。ピーはまだ余裕がありそうな表情だったが、実際10分置きくらいで陣痛がくるので私は心配でいたたまれない。陣痛が始まってどの位で生まれるのかという認識がボンヤリしていた私に、母ヒロコは大体明日(厳密には今日)の昼くらいだろうと予測を発してくれたのでそんなもんなんだろうと、またボンヤリ思った。

 陣痛を何度も繰り返すうちに何もしてないのはアレなので、ピーの臀部を(厳密には肛門周辺を)ボールで押す作業に乗り出す。これは先に出産立会いを経験した友人からのアドバイスだったのだが、実際ピーも痛みの軽減になるらしく続けてくれるよう頼むので、間断なくやってくる陣痛の度に私は一生懸命お尻を押した。腰をさするのもいいらしく、それをひたすら続けた。その役割を母ヒロコも時々交代してくれて手伝ってくれたがなかなか力のいる作業なので私がむしろ率先した。

 本来なら陣痛が始まって12~16時間くらいでいよいよ分娩に入るのが平均的だそうで、母ヒロコもそんな検討で昼頃、と予測したのだろう。しかし、通常陣痛と陣痛の間がどんどん短くなる経過であるはずが、ピーの陣痛の間隔はなかなか縮まらなかった。

 予測した昼を過ぎても様子は変わらない。主治医や助産師さんは陣痛の間隔が2分くらいになり、子宮口がしっかり開かなければ分娩には入れないという。ピーの子宮口はまだあまり開いてないのだという。なんだか不安な緊張感が我々を包み始めた。安産整体なども積極的にやったりしたのに、あんまり効果なかったのかな、と不安が不安を倍増させる。加えて昨晩から寝てない私と母ヒロコは付き添いだけで朦朧とし始めた。しかし1番不安で痛くて苦しいのはピーであるので付き添いもとにかく必死に言葉少なく、ひたすら陣痛が来るたびの尻押しやマッサージにあたるのみである。

 間隔はなかなか短くならなかったが痛みはどんどん強くなっていくようで、ピーの痛みに対する悲鳴もどんどん加速していき、陣痛が始まって24時間経過したあたりから、いよいよ我々は不安に包まれていった。24時間を越えたら難産、というくらいの認識はあったのでこれからどうなるのかハラハラした。主治医も助産師さん達も、まだまだですねえ、と言ったり、でもお腹の子は元気ですから、と数値を見ながら言ったりしたが、具体的なことはなかなか言わないので私は不安だけでなく医院に対する不満すらも巣食い始めてしまった。何しろ子を産まねばならぬピー自身が長引く陣痛の恐怖と痛みで戦意を喪失しかけていくのが明らかにかんじられ、ジリジリした空気が病室を満たし始めていたからだ。

6/30

 通例では子宮口が10cmくらいは開かないと分娩には入れないという。しかし6/30になって陣痛の痛み方が激しくなってきているのにピーの子宮口は3.5cmくらいまでしか開いてないらしく、それを知らされたピーはどんどん追い込まれた。私はもう眠気に苛まれて、意識は朦朧とするしピーの苦しみを見ているのも辛く、先が見えない不安の中で、キタ、というピーの陣痛の報せの度にハッと目を覚まして相変わらず尻を押したり腰をさすったりしていた。母ヒロコは時々ピーを言葉で励ますが最早疲労と眠気で疲れきっているのが分かる。それでも陣痛の間隔を測る携帯アプリで必死に記録を続けてくれた。

 このままどこまでこの終わりの見えない闘いが続くのだろうとテンパっていると、ピーの様子が変わった。陣痛の痛みを、助産師さんのアドバイスに忠実に呼吸法で克服しようと懸命になり始めたのだ。それまではマイペースに自分のやり方でやり過ごそうとしていたのだが、その呼吸法を意識的に取り入れ始めて今までより大人しくなっているようだった。私は眠気のあまりその変化に甘えてうたた寝を沢山していたような気がしたが後でピーから聞いたらあの時はとにかく必死に痛みをただ我慢していたのだそうだ。

 そうこうしている内に世が明けていったが、呼吸法の効果があるのかないのか再び陣痛ごとにピーは激しい痛みを訴えるようになり、もうムリ、とか、もうヤダ、とか、絶望的な調子が絶叫とともに吐き出されるようになると、時々は頑張れ頑張れと励ましていた私も絶望的に引っ張られてしまった。これだけ痛がってるのになかなか陣痛の間隔ぎ狭まらないし、それで、ここへくるまでは陣痛促進剤とか帝王切開とかは絶対やりたくない、と気を張っていたピーも、それらを使って楽になれるなら、と弱気な発言まで飛び出した。私も同様に促進剤や切開など避けて出産できると過信していたのに、ピーの苦しみを見ていたらそれらを全否定する勇気もなくなってしまった。

 しかし、光は決して我々を見放さなかった。朝の検診の段階で子宮口が遂に7.5cmまで広がってきた、もうあと少しだ、きっと昼頃には生まれますよ、ようやく主治医が具体的なことを言ってくれたのだ。そのセリフは疲労と不安と不満と、半ば絶望に包まれていた我々を一気に覚醒させた。終わりが見えるということがどれだけ力を与えてくれることか、我々はそれを身にしみて感じ体に残された体力と気力を振り絞った。

 絶望に包まれかけていたピーもそこから一気に前向きになった。叫んで苦しみながらもフー、フーと呼吸法を死に物狂いで続け、お腹の子と会えるその瞬間のためにとにかく頑張り続けた。その姿は私を感動させずにはおかなかった。天真爛漫だけど打たれ弱く泣き虫のピーにここまでの気力と意地と健気さがあったとは。私はその辺りから半泣きでずっとサポートを続けた。

 昼が近づき遂に分娩台に上がれるまでに子宮口が開いてくれた。先生の予測した昼頃というのは少し過ぎそうだったがあと1~2時間できっと赤ちゃんに会えるのだ、というところまできた。分娩室には1人しか付き添えないため母ヒロコは隣の控え室に残り、私だけ手術衣装に着替えさせられ分娩室に入った。

 一昨日の夜から休むことなく痛みに襲われているピーは疲労しきっているが赤ちゃんにもうすぐ会える、という希望が最後の踏ん張りをかなりパワフルなものにさせていた。陣痛のタイミングでいきむ彼女は別次元の女性に見えた。私は涙を垂らしながら付き添ったが、不謹慎にもあまりの眠気で何度か落ちそうになった。旦那さん、ご気分悪いですか?と助産師さんに言われたが、気分がわるいのではなく眠いのであった。

 14時丁度、我々の子供が生まれた。こんなにヘビーな出産になるとは私もピーも母ヒロコも予想してなかったので、その感動と達成感は並大抵のものではなかった。ことピーに関しては一生に一度か二度かの大仕事を達成したのである。あまりの苦しみのため本人も涙すら出なかった、と後で漏らしていたが、それくらいの難行だったのだ。

 新生児室に連れて行かれる前に私は赤子を抱っこさせてもらい、ピーは寝たまま赤子に乳を飲ませる儀式をした。その時のピーの安らかな表情は忘れ得ぬほど美しいものだった。
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