バンドマンに憧れて 第13話 レスザンTVとアンダーグラウンド
私と松ちゃんはレスザンTVからリリースされた「サンタVA」の不可解な魅力を突き止めるべく、fruityも出演予定になっていた、そのオムニバスのレコ発を目撃するために新宿ロフトに向かった。このライブハウスは今はもうないが、私が中学時代に大ファンだったニューロティカが活躍していたハコであったはずで、他にもミスチルやスピッツなどの国民的バンドがデビュー前に度々ライブをしていた老舗のハコだったようで、インディーシーンでは相応のネームバリューを持っていた。
馴染みのない新宿の西口を、小滝橋通り沿いに歩いてしばらくすると右手にロフトがあった。我々がドキドキしながら階段を降りていくと、白黒の市松模様が床張りされていて、途中で一段か二段段差があり、縦に細長いライブハウスだった。いかにも変わった音楽趣味のお客さんが集まっているように見えて私達はワクワクしていた。
ライブスタート前のステージには、幕があったかなかったか、とにかくプロジェクターで映像が映し出されていて、それが我々がアニメで知っていた「ドカベン」の実写版だった。その、いつ放映されたのかも分からない、毒々しくB級な実写版「ドカベン」の映像は、訳のわからないモノに惹かれる性分に傾いていた私のハートをガシっと掴み、同じく松ちゃんのハートをも掴み、我々は、ヤバいね、とライブが始まる前から興奮が止まらない。CDのオマケに、モールで作られたサンタの人形を同封する遊び心に共通するハズしのセンスがライブ前から溢れていた。
記憶が曖昧だが、その日は前半にfruityが出演し、その他U.G.MAN、HARD CORE DUDE、D.M.B.Qなどが出ていたはずだが、fruity以外はやはりどれも想像を絶する破茶滅茶具合で我々はとにかく呆気にとられていたと思う。しかし、U.G.MANのライブは中でも特にインパクトがあり、私も松ちゃんもそのズッコケルようでいて、パワフルなステージングに感銘を受けていた。
あの謎のCDの、音源では分からなかった魅力が視覚と、鳴らされる磁場と、そこで暴れるお客さん達の勇姿とで説得力をもって迫ってきた。幼少の頃より人と違ったことをしたがり、人と違ったことを好む私の性分にガチっとハマる異物感をU.G.MANおよびレスザンTV界隈に見出してしまったのだった。
ライブ終演後のロフトの周囲、小滝橋通りの歩道沿いに出演者、関係者、そして名残惜しむお客さん達がたむろしていた。私はU.G.MANで、最も異様な存在感を放っていたギターの方の風貌に釘付けになっていた。少しいびつなようなウルフカットに柄の壊れた眼鏡をかけて、お腹がポコリ。まさに実写版「ドカベン」から飛び出してきたようなそのインパクトある風貌は、私がイメージしていたパンクスや不良のそれとは全然かけ離れていて完全に独自の、とことん自由でオシャレなアウトサイダー、という印象だった。私も松ちゃんもまさに釘付けになった。そして彼こそがレスザンTVの総帥である谷口順氏(以下谷さん)であった。
その日以来、私の新たなロックスターは谷さんになった。私はfruityを追いかけながらも、レスザンTV関連のライブを隈なくチェックするようになり、小遣いが許す限りはそういうライブに通いまくるようになった。
高校3年生になる頃だったと思うが、私はその後の趣味趣向形成に大きな影響を受けることとなるいくつかの雑誌に出会うこととなる。それまで私の趣味に起因する雑誌といえば、音楽ではロッキンオン、ファッションではメンズノンノ、スマートなどであった。私はファッション狂いだった姉の影響でファッション誌を見るのが好きだったりした。
ところがこの時期に出会った「クイックジャパン」「インディーズマガジン」「テレビブロス」の三誌はいずれもサブカルチャー的視点が濃厚なものだった。サブカルという言葉自体もこの頃に知り、インディーズというキーワードと共に私がのめり込むべきめくるめく世界だと認識するようになっていった。
特にクイックジャパンの誌面から迸るマニア臭は私を魅了した。表紙からして妖しげなその分厚い雑誌をガリ勉が集うインテリ高校に持っていき、これ見よがしに、そして得意気に休み時間などに読むことを是としてすましていた。
第1話にも書いたが、私はひねくれながらも、夢や希望、個性というキーワードをいつも重視していた。これからの時代は若者は個性的であるべき、という緩やかな青年向けスローガンが世間に蔓延していたのは確かだった。小学生の頃から、あえて変な行動をとったり写真に後ろ向きに映ったりなど、個性、個性と言われる前からそういう逸脱したがる節を持っていたのは確かだが、そういう青年向けスローガンをテレビやメディアから擦り付けられていた私は、それなら大手を振って個性的に生きて行こう、と妙な意気込みを持っていた。
そしてこの時代に出会った日本のアングラなロックやパンク、クイックジャパンに端を発するサブカル趣向は個性的であるのに最良に思えて私は躊躇なく飛び込んで行った。その前傾姿勢は親友の松ちゃんをさしおいてあからさまになり、1人でライブに行くようになったり、1人で単館上映のインディーズフィルムを観に行ったりするまでになっていった。そしてどんどんどんどん周囲の友人たち見下すような悪い癖がつき始めた。
私は明らかにトンガリ始めた。大衆的な音楽を見下し、テレビ的なものを下らない、と思うようになり、時に毒づいた。ガリ勉の通う学校がホントに下らない、と思い込み、つまらねーヤツらばっかりだナ、と思いながらいつも過ごしていた。
その癖、私が始めたハイパーニトロというバンドはまったくロクな演奏もできないままであった。高校3年性の時に軽音楽部とは関係のないバンドが集まってジョィントライブをやろう、という発案が誰からともなく持ち上がり、我々ハイパーニトロもエントリーすることになった。
場所は今も健在の吉祥寺クレッシェンドというライブハウスで、いわゆるチケットノルマ制のライブだったのでエントリーしたバンドは30枚くらいのチケットがノルマだった。言い出しっぺで同学年の目立つ連中で組まれたバンドは何と100人くらいの友達を連れてきたのに対し、比べるとポップさに欠け、押しの弱い性質のキャラが集まった我々ハイパーニトロは数人のお客さんしか呼べなかった。それは、その後十数年続いていくこととなるバンド活動でもいつまでも解消されていない集客不得手問題の幕開けでもあった。そして、インディーズパンクの下手くそなカバーくらいしかできなかった我々のライブは冴えないもので、当時かなり流行ってたレッチリを中心レパートリーに据えた目立つ連中バンドのライブが華やかに盛り上がっているのを、畜生と思いながら眺めるしかなかった。
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馴染みのない新宿の西口を、小滝橋通り沿いに歩いてしばらくすると右手にロフトがあった。我々がドキドキしながら階段を降りていくと、白黒の市松模様が床張りされていて、途中で一段か二段段差があり、縦に細長いライブハウスだった。いかにも変わった音楽趣味のお客さんが集まっているように見えて私達はワクワクしていた。
ライブスタート前のステージには、幕があったかなかったか、とにかくプロジェクターで映像が映し出されていて、それが我々がアニメで知っていた「ドカベン」の実写版だった。その、いつ放映されたのかも分からない、毒々しくB級な実写版「ドカベン」の映像は、訳のわからないモノに惹かれる性分に傾いていた私のハートをガシっと掴み、同じく松ちゃんのハートをも掴み、我々は、ヤバいね、とライブが始まる前から興奮が止まらない。CDのオマケに、モールで作られたサンタの人形を同封する遊び心に共通するハズしのセンスがライブ前から溢れていた。
記憶が曖昧だが、その日は前半にfruityが出演し、その他U.G.MAN、HARD CORE DUDE、D.M.B.Qなどが出ていたはずだが、fruity以外はやはりどれも想像を絶する破茶滅茶具合で我々はとにかく呆気にとられていたと思う。しかし、U.G.MANのライブは中でも特にインパクトがあり、私も松ちゃんもそのズッコケルようでいて、パワフルなステージングに感銘を受けていた。
あの謎のCDの、音源では分からなかった魅力が視覚と、鳴らされる磁場と、そこで暴れるお客さん達の勇姿とで説得力をもって迫ってきた。幼少の頃より人と違ったことをしたがり、人と違ったことを好む私の性分にガチっとハマる異物感をU.G.MANおよびレスザンTV界隈に見出してしまったのだった。
ライブ終演後のロフトの周囲、小滝橋通りの歩道沿いに出演者、関係者、そして名残惜しむお客さん達がたむろしていた。私はU.G.MANで、最も異様な存在感を放っていたギターの方の風貌に釘付けになっていた。少しいびつなようなウルフカットに柄の壊れた眼鏡をかけて、お腹がポコリ。まさに実写版「ドカベン」から飛び出してきたようなそのインパクトある風貌は、私がイメージしていたパンクスや不良のそれとは全然かけ離れていて完全に独自の、とことん自由でオシャレなアウトサイダー、という印象だった。私も松ちゃんもまさに釘付けになった。そして彼こそがレスザンTVの総帥である谷口順氏(以下谷さん)であった。
その日以来、私の新たなロックスターは谷さんになった。私はfruityを追いかけながらも、レスザンTV関連のライブを隈なくチェックするようになり、小遣いが許す限りはそういうライブに通いまくるようになった。
高校3年生になる頃だったと思うが、私はその後の趣味趣向形成に大きな影響を受けることとなるいくつかの雑誌に出会うこととなる。それまで私の趣味に起因する雑誌といえば、音楽ではロッキンオン、ファッションではメンズノンノ、スマートなどであった。私はファッション狂いだった姉の影響でファッション誌を見るのが好きだったりした。
ところがこの時期に出会った「クイックジャパン」「インディーズマガジン」「テレビブロス」の三誌はいずれもサブカルチャー的視点が濃厚なものだった。サブカルという言葉自体もこの頃に知り、インディーズというキーワードと共に私がのめり込むべきめくるめく世界だと認識するようになっていった。
特にクイックジャパンの誌面から迸るマニア臭は私を魅了した。表紙からして妖しげなその分厚い雑誌をガリ勉が集うインテリ高校に持っていき、これ見よがしに、そして得意気に休み時間などに読むことを是としてすましていた。
第1話にも書いたが、私はひねくれながらも、夢や希望、個性というキーワードをいつも重視していた。これからの時代は若者は個性的であるべき、という緩やかな青年向けスローガンが世間に蔓延していたのは確かだった。小学生の頃から、あえて変な行動をとったり写真に後ろ向きに映ったりなど、個性、個性と言われる前からそういう逸脱したがる節を持っていたのは確かだが、そういう青年向けスローガンをテレビやメディアから擦り付けられていた私は、それなら大手を振って個性的に生きて行こう、と妙な意気込みを持っていた。
そしてこの時代に出会った日本のアングラなロックやパンク、クイックジャパンに端を発するサブカル趣向は個性的であるのに最良に思えて私は躊躇なく飛び込んで行った。その前傾姿勢は親友の松ちゃんをさしおいてあからさまになり、1人でライブに行くようになったり、1人で単館上映のインディーズフィルムを観に行ったりするまでになっていった。そしてどんどんどんどん周囲の友人たち見下すような悪い癖がつき始めた。
私は明らかにトンガリ始めた。大衆的な音楽を見下し、テレビ的なものを下らない、と思うようになり、時に毒づいた。ガリ勉の通う学校がホントに下らない、と思い込み、つまらねーヤツらばっかりだナ、と思いながらいつも過ごしていた。
その癖、私が始めたハイパーニトロというバンドはまったくロクな演奏もできないままであった。高校3年性の時に軽音楽部とは関係のないバンドが集まってジョィントライブをやろう、という発案が誰からともなく持ち上がり、我々ハイパーニトロもエントリーすることになった。
場所は今も健在の吉祥寺クレッシェンドというライブハウスで、いわゆるチケットノルマ制のライブだったのでエントリーしたバンドは30枚くらいのチケットがノルマだった。言い出しっぺで同学年の目立つ連中で組まれたバンドは何と100人くらいの友達を連れてきたのに対し、比べるとポップさに欠け、押しの弱い性質のキャラが集まった我々ハイパーニトロは数人のお客さんしか呼べなかった。それは、その後十数年続いていくこととなるバンド活動でもいつまでも解消されていない集客不得手問題の幕開けでもあった。そして、インディーズパンクの下手くそなカバーくらいしかできなかった我々のライブは冴えないもので、当時かなり流行ってたレッチリを中心レパートリーに据えた目立つ連中バンドのライブが華やかに盛り上がっているのを、畜生と思いながら眺めるしかなかった。
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