手拭い
私はほぼ毎日欠かさず手拭いを首に巻いている。これは家を出る際に何かの拍子で忘れたりしなければ必ず携帯することになっている。
それはお洒落で巻いているのか、実用的だから巻くのか、と父に聞かれたことがあったが、どちらの目的にも適っているのでどちらとも言い難い。手拭いが実用的だからというのに反対する人はいないと思うが、それがお洒落かどうかとなると賛同してくれる人を探す方が骨が折れそうだ。
私が手拭いといって思い出せる古い記憶は剣道である。両親のススメで幼稚園から小学生に入る頃にかけて私は地元の剣道教室に通わされた。実家が神社であった父が小さい頃に習わされていたことが起因していたようだが、戦闘意欲の逞しくない私には至極迷惑な習い事だったように思う。
剣道の稽古では面、胴、小手と三ヶ所に防具をつけるのであるが、夏場は不快なほど群れるので、面を頭に直に被る前に手拭いを巻くのが基本である。私が手拭いを意識した古い記憶はこの時巻いていた手拭いの記憶からのようだ。
その時は数種の手拭いを母から渡されていたと思うが、中に父の実家の神社である「長尾八幡宮」のオリジナル手拭いがあったのをハッキリ覚えているし、カッコイイと思い気に入って使っていた。私は父の実家が神社である、ということが何か誇らしいことであるかのような錯覚を抱いていたため、その手拭いを巻くこともまた誇らしい気持ちにさせてくれたのだと思う。
しかし私は既に述べた通り戦闘意欲の逞しくない貧弱な性質だったので小手で受ける刺激に耐えかね、剣道をやめさせてくれるよう母に懇願し、小学校1年か2年でリタイヤしたので、それ以降、手拭いの記憶といえば運動会やらお祭りやらで巻いたか巻いてないかの豆絞りのことくらいしかないのである。
一通り西洋かぶれする思春期をやり過ごした後、日本のレトロなモノに興味を持ったり、惹かれたりするようになり、私はまた何のはずみでだか思い出せぬのだが、手拭いに心を奪われるようになった。そのもめんの汗を拭う時の肌心地や、首にあてた時の触れ心地や、濡れてからの乾燥の早さに注目しているウチに、自分と同世代の人間にも、同じように手拭いを好んで使うような友人を見つけたことで、手拭いいいよね、いいよね、と意気投合し、手拭い同好会を作ろう、などと言ってふざけていたのが20代中ごろだったかと思う。
結局手拭い同好会なるものはその場の口先だけで終わったが、その頃から「かまわぬ」という、手拭いをオシャレにプロデュースするブランドなども現れたり、手拭いをリバイバル的にもてはやす兆候も世間にないわけでないことを知った。何しろ高い品物ではないので、私は徐々に手拭いを集めるようになり、新しいものと古い日本のデザインのものと、いろいろ集めるようになった。
手拭いはその乾きの早さと触り心地の優しさから、汗を拭くのには最適のもののように思われ、私は手拭いを持ち歩くようになった。私はこれでもお洒落を意識する人間なので、初めは手拭いをズボンのポッケからだらりと垂らすようにして持ち歩いていた。そうすると何となくファッショナブルな腰周りが演出されるように感じたからだったが、そのスタイルで何度も手拭いを落としたりして紛失することを繰り返してしまった。
それで今度はポッケ案をよして、首にひっかけて垂らすスタイルに挑んだ。これも柄がオシャレであればお洒落で押し通せるだろうと考えたからだが、それでも結局ひらりと、何かの拍子で落としたりして結局なくしてしまうのだった。
大好きな手拭いを無くすのは悲しいので、最終的に私は手拭いを首に巻きつけて結わくようになった。さすがにこれじゃあ百姓みたいでスタイリッシュには見えないだろうと二の足を踏んでいたが、無くさないこと、また誰にも突っ込まれなくなったことが相まって以来そのスタイルを変えない。
もはやお洒落としてではないでしょう、と思われるかどうかは分からないが、私がお洒落で手拭いを首に巻いている根拠には、頂き物の手拭いなどで自分の趣味でないものは首に巻かず食器を拭いたり雑巾にしたりして、首に巻くものとは分別して使っているのである。
いつだか飲み会の席で誰かがドリンクを零してその辺が汚れた時に私が首に巻いていた手拭いをサッと出して、零れた飲み物を拭き取った時、それを見た誰がしかが、かっこいい、と私の手拭い術を褒めそやしたが、それが例えばブドウ系のジュースだったり、手拭いが明らかに変な色で染まってしまいそうな液体だったら私は手拭いを差し出さなかっただろう。首に巻いてるのはお気に入りの柄だからである。
つい1、2年前に姉の誕生日に妻と父と姉でかなり背伸びをして青山の、土日ともなればなかなか予約の取れないという地中海料理屋に行く機会があった。そして私は事前に姉から「手拭いはNGね」と釘を刺されていた。私は半分はお洒落で手拭いを首に巻いているのだから、と反抗心が仄かに芽生えたのであったが大人気ないので黙って従った。お洒落の姉には、柄が何だろうと手拭いはお洒落と認められていないことが分かり残念であった。
ともあれ昨今のフェスブームやエコブーム、原点回帰ブームにより手拭いも大分市民権を得てきたように思う。気づけば私の友人の多くが手拭いを愛用しているし、お土産に頂いたりする。特に音楽仲間には理解者が多いようだ。
手拭いと題したからには手拭いの思わぬ利用法とか、便利な使い方を紹介してもいいのだが、それは私の役目でないような気がするし、よく考えてみれば汗を拭いたり、手を拭いたり、食器を拭いたり、最近だと娘のヨダレを拭いたり、おおよそベタな使い方でしか活用してない気もする。1つだけ主張させてもらうなら、始終首に手拭いを巻いていることで、首の冷えが軽減されている実感は大したものであるということ。夏の電車内の強烈な冷房の冷えからは特に効果絶大である。
この稿を上げるにあたり、手拭いについてあれこれと書き、考え、歩きスマホしている最中に、手拭いを首に結わえておかなかったことで私はまたお気に入りの手拭いを1枚無くしてしまった。
それはお洒落で巻いているのか、実用的だから巻くのか、と父に聞かれたことがあったが、どちらの目的にも適っているのでどちらとも言い難い。手拭いが実用的だからというのに反対する人はいないと思うが、それがお洒落かどうかとなると賛同してくれる人を探す方が骨が折れそうだ。
私が手拭いといって思い出せる古い記憶は剣道である。両親のススメで幼稚園から小学生に入る頃にかけて私は地元の剣道教室に通わされた。実家が神社であった父が小さい頃に習わされていたことが起因していたようだが、戦闘意欲の逞しくない私には至極迷惑な習い事だったように思う。
剣道の稽古では面、胴、小手と三ヶ所に防具をつけるのであるが、夏場は不快なほど群れるので、面を頭に直に被る前に手拭いを巻くのが基本である。私が手拭いを意識した古い記憶はこの時巻いていた手拭いの記憶からのようだ。
その時は数種の手拭いを母から渡されていたと思うが、中に父の実家の神社である「長尾八幡宮」のオリジナル手拭いがあったのをハッキリ覚えているし、カッコイイと思い気に入って使っていた。私は父の実家が神社である、ということが何か誇らしいことであるかのような錯覚を抱いていたため、その手拭いを巻くこともまた誇らしい気持ちにさせてくれたのだと思う。
しかし私は既に述べた通り戦闘意欲の逞しくない貧弱な性質だったので小手で受ける刺激に耐えかね、剣道をやめさせてくれるよう母に懇願し、小学校1年か2年でリタイヤしたので、それ以降、手拭いの記憶といえば運動会やらお祭りやらで巻いたか巻いてないかの豆絞りのことくらいしかないのである。
一通り西洋かぶれする思春期をやり過ごした後、日本のレトロなモノに興味を持ったり、惹かれたりするようになり、私はまた何のはずみでだか思い出せぬのだが、手拭いに心を奪われるようになった。そのもめんの汗を拭う時の肌心地や、首にあてた時の触れ心地や、濡れてからの乾燥の早さに注目しているウチに、自分と同世代の人間にも、同じように手拭いを好んで使うような友人を見つけたことで、手拭いいいよね、いいよね、と意気投合し、手拭い同好会を作ろう、などと言ってふざけていたのが20代中ごろだったかと思う。
結局手拭い同好会なるものはその場の口先だけで終わったが、その頃から「かまわぬ」という、手拭いをオシャレにプロデュースするブランドなども現れたり、手拭いをリバイバル的にもてはやす兆候も世間にないわけでないことを知った。何しろ高い品物ではないので、私は徐々に手拭いを集めるようになり、新しいものと古い日本のデザインのものと、いろいろ集めるようになった。
手拭いはその乾きの早さと触り心地の優しさから、汗を拭くのには最適のもののように思われ、私は手拭いを持ち歩くようになった。私はこれでもお洒落を意識する人間なので、初めは手拭いをズボンのポッケからだらりと垂らすようにして持ち歩いていた。そうすると何となくファッショナブルな腰周りが演出されるように感じたからだったが、そのスタイルで何度も手拭いを落としたりして紛失することを繰り返してしまった。
それで今度はポッケ案をよして、首にひっかけて垂らすスタイルに挑んだ。これも柄がオシャレであればお洒落で押し通せるだろうと考えたからだが、それでも結局ひらりと、何かの拍子で落としたりして結局なくしてしまうのだった。
大好きな手拭いを無くすのは悲しいので、最終的に私は手拭いを首に巻きつけて結わくようになった。さすがにこれじゃあ百姓みたいでスタイリッシュには見えないだろうと二の足を踏んでいたが、無くさないこと、また誰にも突っ込まれなくなったことが相まって以来そのスタイルを変えない。
もはやお洒落としてではないでしょう、と思われるかどうかは分からないが、私がお洒落で手拭いを首に巻いている根拠には、頂き物の手拭いなどで自分の趣味でないものは首に巻かず食器を拭いたり雑巾にしたりして、首に巻くものとは分別して使っているのである。
いつだか飲み会の席で誰かがドリンクを零してその辺が汚れた時に私が首に巻いていた手拭いをサッと出して、零れた飲み物を拭き取った時、それを見た誰がしかが、かっこいい、と私の手拭い術を褒めそやしたが、それが例えばブドウ系のジュースだったり、手拭いが明らかに変な色で染まってしまいそうな液体だったら私は手拭いを差し出さなかっただろう。首に巻いてるのはお気に入りの柄だからである。
つい1、2年前に姉の誕生日に妻と父と姉でかなり背伸びをして青山の、土日ともなればなかなか予約の取れないという地中海料理屋に行く機会があった。そして私は事前に姉から「手拭いはNGね」と釘を刺されていた。私は半分はお洒落で手拭いを首に巻いているのだから、と反抗心が仄かに芽生えたのであったが大人気ないので黙って従った。お洒落の姉には、柄が何だろうと手拭いはお洒落と認められていないことが分かり残念であった。
ともあれ昨今のフェスブームやエコブーム、原点回帰ブームにより手拭いも大分市民権を得てきたように思う。気づけば私の友人の多くが手拭いを愛用しているし、お土産に頂いたりする。特に音楽仲間には理解者が多いようだ。
手拭いと題したからには手拭いの思わぬ利用法とか、便利な使い方を紹介してもいいのだが、それは私の役目でないような気がするし、よく考えてみれば汗を拭いたり、手を拭いたり、食器を拭いたり、最近だと娘のヨダレを拭いたり、おおよそベタな使い方でしか活用してない気もする。1つだけ主張させてもらうなら、始終首に手拭いを巻いていることで、首の冷えが軽減されている実感は大したものであるということ。夏の電車内の強烈な冷房の冷えからは特に効果絶大である。
この稿を上げるにあたり、手拭いについてあれこれと書き、考え、歩きスマホしている最中に、手拭いを首に結わえておかなかったことで私はまたお気に入りの手拭いを1枚無くしてしまった。
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