アクセルの意気地記 第1話
ピーがこと子を産んだのは、山形県内病院である。彼女の実家にはご両親と妹夫妻が住んでおり、その義妹夫妻には娘が2人いる。ピーは初めての出産だったので子育て慣れしている義母と義妹に頼って里帰り出産をすることになっていた。
私は子どもが生まれてくることで興奮していたので、里帰りする、と言われて寂しく思ったが、かといって私に力になれる経験もなければ自信もないので首肯せざるを得なかった。
里帰り出産というのも珍しいものでもないらしく、実際里帰りして、実家にかなり助けられた、という体験談や後日談などを私もいくらか耳にしていたので、逆に産後生活の面倒を見てもらえることを考えると、反対意見を差し挟む余地もなさそうであったし、私も実際助かるのだ。
しかし、ちょっとした長尾家内の衝突があってピーの里帰りが2ヶ月ほど繰り上がり、里帰り期間が4月の頭から8月の中旬まで、およそ4ヶ月半にまで伸びてしまって私は少々狼狽していた。狼狽していたが、里帰りを早めたことは英断だったと思うし、今では過ぎた話しであって、こと子が生まれてからは長尾家の平和もすっかり元通りになったのではないか、と思っている。
ピーの長い里帰り期間、私は東京から妻の実家の川西まで何度も足を運んだ。根っからの貧乏性、というか貧乏のせいで、今まで遠出の時は幾度も世話になっていた深夜高速バスを、川西に行く時も初めは利用したのだが、終着の米沢に早朝に着いたり、東京に戻るために米沢を深夜に出たりするのは向こうのご両親に気を遣わせたり迷惑をかけることがハッキリしてきたので、2回目からは新幹線で往復するようになった。
ピーがこと子と東京に戻ってくるまで、片道1万円弱の新幹線での往復を5、6回は繰り返したのではないかと思うが、そんなことが可能になったのはひとえに私が正社員になってからようやくのことである。長いバイト時代にはほとんどお金が余分に残ることがなかったからだが、かといってその新幹線の切符を買うのも、正社員とはいえ世間的にはかなりの安月給なので、節制による工面の結晶には変わりがないのだ。
しかしながら新幹線での移動は私に少なからぬオトナの気分を味合わせた。深夜バスに乗り慣れてるとはいえ、新幹線の乗り心地たるや別格である。二等だろうが上等、上等。米沢まで2時間ちょっとで着いてしまうのがあっけなく、寂しいくらいであった。
新幹線の乗り心地は最高だが、何度も、それこそ通い妻ならぬ通い旦那のようにピーの実家にお邪魔し、お世話になるのはいささか気まずかった。義母も義父も私にとことん優しく、送り迎えなども、私が気を遣って遠慮しようとしても、そんな遠慮が逆に失礼になるようなところもあり、すっかりいろいろと、何から何まで尽くしてもらって私は小さくならざるを得なかった。
こと子が生まれてきたことは別途書いた通りであるが、出産後数日山形で過ごした後は、また私だけ東京に戻り、妻子が戻ってくるはずの木造アパートで寂しく独りで大人しく暮らした。子が生まれる前の1人暮らしはまだ何となく気楽なものであったが、生まれてからはこと子のことで頭がいっぱいになってしまい、2人が帰るのを首を長くして待機するしかなかった。
その間私は我がアパートの住空間を出来うる限り住みやすいようにデザインしたり細工したりはしていたのだが、どうにもこうにもこと子のことが気になるので、ピーにお願いして毎日こと子の写メを1枚ずつ送ってもらうことにした。写メがLINEに届くと私はプレゼントを開けるような気持ちで丁寧にそれを眺めては頰を緩ませた。初めてこと子が笑顔を見せるようになった時は動画が送られてきたが、私は何とも言われない愛おしい気持ちに召されて、その動画をことあるごとに見た。まるで脳に焼き付けるような勢いでアイフォンを握っていた。
そしてまた生まれてから上京してくるまでの1ヶ月半の間にも私は2度ほどあちらに通った。おかげで山形は遠くない、という感覚さえ掴み、米沢の駅前も見慣れた風景になっていった。
最初の滞在時はピーの産後入院中に帰京せねばならなかったが、その後2回目に訪れた時、当たり前だがこと子はピーの実家の一員となって皆から可愛がられていた。小1と幼稚園児の2人の姪が、抱っこしたい、と言って並んで足を前に延べて座り、両手を膝の上に差し出し、こと子を受け取るのを待つ姿はたまらなく愛おしかった。まだ首が座らない幼児の抱っこが注意を要することだけは知っているらしかった。
私はその最初の滞在時にこと子を抱っこして、散歩に行ってくると言って、何となく家の周囲の、川沿いの小道やらを検討なしに歩き出した。こと子はそのうちに眠ってしまい、少し重くなったような気がしたが、こと子と今私は2人きりになったのだ、という感覚が私の身体を駆け巡り抱いたことのない心のゾワゾワを感じた。この子を守ってやらなきゃならない、という大いなる使命が漲るような感じであった。
私はこのままこと子を持って帰りたい、このまま歩き回っていようか、などと非現実的なことを考えながらも、心配されてもつまらぬので、特に心の高揚を悟られないように何食わぬ顔で戻った。
それから1ヶ月ほど過ぎてピーとこと子の帰京時期を云々する感じになったが、ピーの実家はお盆に親族が集まるので、お披露目の意味も込めて、それまでは居残る方がいいだろう、となった。私はそれは仕方がない、と思っていたが、早くピーとこと子と3人の暮らしを味わいたかった。
そしてお盆明けの何日に戻ってくるか決める段になると、今度は8月いっぱいはこっちに居ればいいじゃない、と義母が言い出したという。私の休みのスケジュールと義父母の休みのスケジュールが合わせづらかったこともあるが、孫のこと子がすっかり可愛くなってしまっていたのかもしれない。
私はもう待ちきれない、という気持ちだったので、泣き落としじゃないけれど、「玄ちゃん(私のことだが)が可哀想だから」とピーから義母に再交渉してもらうよう懇願した。情に訴えれば何とかなるのではないかと思っていたし、ピー本人も東京の友人に早く会いたいとかいうことで早めに帰りたい気持ちは募っていたのだ。
義母への交渉は、とはいえ難なく成立し、結局8/16に私と父が車で川西までピーとこと子を迎えに行き、翌8/17に帰京という段取りになった。しかし、日程が決まった後で、そういえば8/17は平日だから義父母も仕事が始まっているはず、義父母不在のところから、今まで散々世話になった妻と娘を連れて帰るのはあまりにも心象が悪いだろう、と心配になってきた。かといって8月中に休みを振り返られそうな余裕もないし、と頭を悩ませてそのことをピーに打ち明けたら、なんのことはない、義母はわざわざ仕事を休みにしてくれたようだった。
先にサラッと書いたがピーが長期にわたり里帰りしたのには私と父の喧嘩が起因していたので、こと子を引き取りに行く際の父はかなり畏まった雰囲気だった。そして私がネットで調べた限りでは、里帰りでお世話になった妻の実家には金銭的な謝礼を包むのが習わし、とのことだったので、私が5万、そして父が、ワタシも出す、と強く申し出たので父から5万、それを重ねて包んで義母に受け取ってもらった。
チャイルドシートは義妹ファミリーから譲ってもらい、我々は高速を飛ばして帰京した。田無に戻ってくる頃には夕飯時を逸していたので、外食しよう、赤ちゃんいるからファミレスがいいかもね、とすき焼きのどん亭に入った。私もピーも疲れていたが、ファミレスとはいえ普段気軽に手を出せないすき焼きということでテンションが高まった。しかし食べ始めて間もなくこと子が泣き出し、ピーも私も抱いてあやしたが泣き止まない。そのうち激しく泣き出したので私とピーで代わる代わる外に連れ出し、食べかけのすき焼きを大雑把に胃に詰め込んで、半ばは食べ残してどん亭を後にした。
父は見慣れない孫のむずかりにやや困惑し、ピーは、コッピも疲れてたんだよね、それなのに賑やかなとこ来てごめんねぇ、と言って一緒に泣いている。生まれてから今日まで、こんなに激しく泣いたことはなかったらしかった。私も泣き止ますことができるわけでもなく、子守りの洗礼を一気に浴びるような思いだった。
翌朝眼が覚めると、和室に敷かれた私とピーの布団の間で人形が眠っていた。もちろん人形ではなくまぎれもない私の娘なのだが、人間未満というか、非常に可愛いのだが、まだ不慣れな私には何か不思議な生物が横たわっている、というような感覚で、しかしこれからの長い道のりを想像してワクワクせずにはいられなかった。
私は子どもが生まれてくることで興奮していたので、里帰りする、と言われて寂しく思ったが、かといって私に力になれる経験もなければ自信もないので首肯せざるを得なかった。
里帰り出産というのも珍しいものでもないらしく、実際里帰りして、実家にかなり助けられた、という体験談や後日談などを私もいくらか耳にしていたので、逆に産後生活の面倒を見てもらえることを考えると、反対意見を差し挟む余地もなさそうであったし、私も実際助かるのだ。
しかし、ちょっとした長尾家内の衝突があってピーの里帰りが2ヶ月ほど繰り上がり、里帰り期間が4月の頭から8月の中旬まで、およそ4ヶ月半にまで伸びてしまって私は少々狼狽していた。狼狽していたが、里帰りを早めたことは英断だったと思うし、今では過ぎた話しであって、こと子が生まれてからは長尾家の平和もすっかり元通りになったのではないか、と思っている。
ピーの長い里帰り期間、私は東京から妻の実家の川西まで何度も足を運んだ。根っからの貧乏性、というか貧乏のせいで、今まで遠出の時は幾度も世話になっていた深夜高速バスを、川西に行く時も初めは利用したのだが、終着の米沢に早朝に着いたり、東京に戻るために米沢を深夜に出たりするのは向こうのご両親に気を遣わせたり迷惑をかけることがハッキリしてきたので、2回目からは新幹線で往復するようになった。
ピーがこと子と東京に戻ってくるまで、片道1万円弱の新幹線での往復を5、6回は繰り返したのではないかと思うが、そんなことが可能になったのはひとえに私が正社員になってからようやくのことである。長いバイト時代にはほとんどお金が余分に残ることがなかったからだが、かといってその新幹線の切符を買うのも、正社員とはいえ世間的にはかなりの安月給なので、節制による工面の結晶には変わりがないのだ。
しかしながら新幹線での移動は私に少なからぬオトナの気分を味合わせた。深夜バスに乗り慣れてるとはいえ、新幹線の乗り心地たるや別格である。二等だろうが上等、上等。米沢まで2時間ちょっとで着いてしまうのがあっけなく、寂しいくらいであった。
新幹線の乗り心地は最高だが、何度も、それこそ通い妻ならぬ通い旦那のようにピーの実家にお邪魔し、お世話になるのはいささか気まずかった。義母も義父も私にとことん優しく、送り迎えなども、私が気を遣って遠慮しようとしても、そんな遠慮が逆に失礼になるようなところもあり、すっかりいろいろと、何から何まで尽くしてもらって私は小さくならざるを得なかった。
こと子が生まれてきたことは別途書いた通りであるが、出産後数日山形で過ごした後は、また私だけ東京に戻り、妻子が戻ってくるはずの木造アパートで寂しく独りで大人しく暮らした。子が生まれる前の1人暮らしはまだ何となく気楽なものであったが、生まれてからはこと子のことで頭がいっぱいになってしまい、2人が帰るのを首を長くして待機するしかなかった。
その間私は我がアパートの住空間を出来うる限り住みやすいようにデザインしたり細工したりはしていたのだが、どうにもこうにもこと子のことが気になるので、ピーにお願いして毎日こと子の写メを1枚ずつ送ってもらうことにした。写メがLINEに届くと私はプレゼントを開けるような気持ちで丁寧にそれを眺めては頰を緩ませた。初めてこと子が笑顔を見せるようになった時は動画が送られてきたが、私は何とも言われない愛おしい気持ちに召されて、その動画をことあるごとに見た。まるで脳に焼き付けるような勢いでアイフォンを握っていた。
そしてまた生まれてから上京してくるまでの1ヶ月半の間にも私は2度ほどあちらに通った。おかげで山形は遠くない、という感覚さえ掴み、米沢の駅前も見慣れた風景になっていった。
最初の滞在時はピーの産後入院中に帰京せねばならなかったが、その後2回目に訪れた時、当たり前だがこと子はピーの実家の一員となって皆から可愛がられていた。小1と幼稚園児の2人の姪が、抱っこしたい、と言って並んで足を前に延べて座り、両手を膝の上に差し出し、こと子を受け取るのを待つ姿はたまらなく愛おしかった。まだ首が座らない幼児の抱っこが注意を要することだけは知っているらしかった。
私はその最初の滞在時にこと子を抱っこして、散歩に行ってくると言って、何となく家の周囲の、川沿いの小道やらを検討なしに歩き出した。こと子はそのうちに眠ってしまい、少し重くなったような気がしたが、こと子と今私は2人きりになったのだ、という感覚が私の身体を駆け巡り抱いたことのない心のゾワゾワを感じた。この子を守ってやらなきゃならない、という大いなる使命が漲るような感じであった。
私はこのままこと子を持って帰りたい、このまま歩き回っていようか、などと非現実的なことを考えながらも、心配されてもつまらぬので、特に心の高揚を悟られないように何食わぬ顔で戻った。
それから1ヶ月ほど過ぎてピーとこと子の帰京時期を云々する感じになったが、ピーの実家はお盆に親族が集まるので、お披露目の意味も込めて、それまでは居残る方がいいだろう、となった。私はそれは仕方がない、と思っていたが、早くピーとこと子と3人の暮らしを味わいたかった。
そしてお盆明けの何日に戻ってくるか決める段になると、今度は8月いっぱいはこっちに居ればいいじゃない、と義母が言い出したという。私の休みのスケジュールと義父母の休みのスケジュールが合わせづらかったこともあるが、孫のこと子がすっかり可愛くなってしまっていたのかもしれない。
私はもう待ちきれない、という気持ちだったので、泣き落としじゃないけれど、「玄ちゃん(私のことだが)が可哀想だから」とピーから義母に再交渉してもらうよう懇願した。情に訴えれば何とかなるのではないかと思っていたし、ピー本人も東京の友人に早く会いたいとかいうことで早めに帰りたい気持ちは募っていたのだ。
義母への交渉は、とはいえ難なく成立し、結局8/16に私と父が車で川西までピーとこと子を迎えに行き、翌8/17に帰京という段取りになった。しかし、日程が決まった後で、そういえば8/17は平日だから義父母も仕事が始まっているはず、義父母不在のところから、今まで散々世話になった妻と娘を連れて帰るのはあまりにも心象が悪いだろう、と心配になってきた。かといって8月中に休みを振り返られそうな余裕もないし、と頭を悩ませてそのことをピーに打ち明けたら、なんのことはない、義母はわざわざ仕事を休みにしてくれたようだった。
先にサラッと書いたがピーが長期にわたり里帰りしたのには私と父の喧嘩が起因していたので、こと子を引き取りに行く際の父はかなり畏まった雰囲気だった。そして私がネットで調べた限りでは、里帰りでお世話になった妻の実家には金銭的な謝礼を包むのが習わし、とのことだったので、私が5万、そして父が、ワタシも出す、と強く申し出たので父から5万、それを重ねて包んで義母に受け取ってもらった。
チャイルドシートは義妹ファミリーから譲ってもらい、我々は高速を飛ばして帰京した。田無に戻ってくる頃には夕飯時を逸していたので、外食しよう、赤ちゃんいるからファミレスがいいかもね、とすき焼きのどん亭に入った。私もピーも疲れていたが、ファミレスとはいえ普段気軽に手を出せないすき焼きということでテンションが高まった。しかし食べ始めて間もなくこと子が泣き出し、ピーも私も抱いてあやしたが泣き止まない。そのうち激しく泣き出したので私とピーで代わる代わる外に連れ出し、食べかけのすき焼きを大雑把に胃に詰め込んで、半ばは食べ残してどん亭を後にした。
父は見慣れない孫のむずかりにやや困惑し、ピーは、コッピも疲れてたんだよね、それなのに賑やかなとこ来てごめんねぇ、と言って一緒に泣いている。生まれてから今日まで、こんなに激しく泣いたことはなかったらしかった。私も泣き止ますことができるわけでもなく、子守りの洗礼を一気に浴びるような思いだった。
翌朝眼が覚めると、和室に敷かれた私とピーの布団の間で人形が眠っていた。もちろん人形ではなくまぎれもない私の娘なのだが、人間未満というか、非常に可愛いのだが、まだ不慣れな私には何か不思議な生物が横たわっている、というような感覚で、しかしこれからの長い道のりを想像してワクワクせずにはいられなかった。
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