バンドマンに憧れて 第15話 キャンパスライフと私の居場所
根がクソ真面目な私は将来の夢がロックンローラーであったのにも関わらず、学力を判定する毎度のテストでも変に力んで一生懸命になってしまう傾向があり、その為高校の担当教師から、君は今の成績なら法学部も希望できると言われていた。中大の法科というのはかなり有名な学部らしいことを私はその時知ったのだが、まさか法律の勉強なんて微塵も興味が湧かなかった。そもそも先にも触れた通り中途半端な反抗心で大学行きたくない、と親を泣かせた経緯もあり、私は何学部を志望するのが妥当なのか全く分からなかった。
結局、私が選んだのは文学部の英米文学科だった。どちらかといえば国文学が好きで英米文学には何の興味もなかったのだが、とりあえず英語を勉強しておけば将来何かの役に立つかもしれない、とどこかで海の向こう側への興味がくすぶってたのだろうか。
中大の文学部は八王子の山の中にあり、通学はなかなか大変で、しかし長閑な、自然を抱く丘の中腹にあり、のんびりするには悪くない場所であり、東京を距離を置いて眺めるのにも最適な場所でもあった。
大学に入るといろんな地方から上京してきた面白い輩と沢山知り合える、と少しく期待していたが、入学して私が入ったクラスにいた連中は何ともつまらない人間の集まりにしか見えなかった。地方から来た学生は服装もダサいし、みんな周りの人間といかに仲良くなるかで必死になっているようにしか見えず、エスカレーターで上がった呑気な附属校生である私はそんな周囲をバカにして見ていた。高校でパンクやインディーズ、アングラといった価値観の洗礼を受けた私は相当に捻くれ、簡単に、また軽率に他人を蔑むような癖がついてしまっていたのだ。
生意気ざかりの私はガリ勉高校に入った時と同様か、それ以上の失望感を大学でも味わったが、せめて面白いサークルでも見つければ面白い人達がいるに違いない、と片端からリサーチしてみた。テニスサークルなど、集団合コンしたいだけだろ、みたいなチャラチャラした不愉快なサークルばかりが目について、結局、私を興奮させるようなサークルは見当たらなかったが、唯一美術研究会というサークルは異様なオーラを放っているように見えた。サークル勧誘の担当であるらしい方の風貌が明らかに異彩を放っていて、まるで世捨て人の気配すら感じさせ、熱心に勧誘してこない感じも私の注意を引いた。もちろん美術に興味はあるが自分のやりたいのはバンドだし、とも思ったが面白い人を探すのはここがいいかもしれない、と思い飛び込んでみた。
美術研究会、通称美研は、中大でも一応の歴史があるのだろう、キャンパスの端っこにあったサークル棟にサークル室を持っていた。そのサークル棟自体がいかにも学生闘争を想起させるような雰囲気を醸し出していたのだが、その中でも特に怪しいオーラが美研のサークル室には漂っている気がした。そこに出入りしてる人は実際怪しい人が多くて私は少し嬉しくなった。そして、怪しい人が多いのは美研だけでなく、隣の部屋にサークル室を構えていたフリーバードという全学連系のサークルも同様に怪しく、美研とフリーバードは所属メンバーがごっちゃになっていることが段々分かった。
そこで出会う人は明らかにアウトローな雰囲気をみんな持っていて、現役大学生ではないだろう老けた人もいれば明治の文豪のような風貌の人もいたし、ベルサイユの薔薇に出て来そうな中性的でガタイのいい人がめちゃくちゃ小さいランドセルをしょっていたり、とにかく理解不能な人達がいっぱいいて面白かった。
そのサークル棟で明らかに寝泊まりしてるらしい人もいて、私はここでボヘミアンとか、ヒッピーとか、左翼とかマルクスとか、普通の教育ではあんまり積極的に教えてもらわないキーワードをいろいろ知ることができた。
彼らは決して人当たりが良いわけではなく、これでは新入生が居つく訳ないよね、というちょっとした排他性があったので美研に入り浸るのは私の他に数名いたかいなかったか。それでも私はその中にいればいろいろ面白いことが起こるのではないかと思いそれなりに居座ってみたりしていた。そして、美研の人がやっていた「おしばな」というバンドにベーシストとして加わったり、それなりの交流をしていたのだが、それでも私はどこかで疎外感に似た何か、どうしてもそこが自分の居場所ではないような気持ちをずっと引きずっていた。
そんな中、大学1年の終わり頃であったか、私が高校から続けていたハイパーニトロのベースを弾いていたナリ君が新しいサークルを作ろうよ、と私に仕向けてきた。その頃私は美研に出入りしながらもバンドメンバーを含む、附属校上がりでチャラチャラしたサークル活動に馴染めずにいた数人と、キャンパス内で緩やかなコミュニティを形成しつつあった。ナリ君はそのメンバーでサークルを作ろうと言い出したのだったが、自分が会長になるのは億劫でその役を私に押しつけてきたのだ。
押しつけてきた、と言っても、丁度私も自分の居場所を作りたいと思ってたところだったので、面白そうだ、やろうやろう、ということになって私が代表になった。そこに集まっていた連中の興味対象がアングラな音楽、映画、漫画などのサブカルチャー全般だったので、私は「インディーズ研究会」にしようと思いついた。先に触れた通り当時はまだ「インディーズ」というワードにヒップなニュアンスが漂っていたのだ。
そういう訳で「インディーズ研究会」なるサークルが発足し、翌大学2年時の新入生歓迎期間から早速我々はチラシを作って会員を増やすべく奮闘した。しかし内弁慶なメンバーばかりで年下の学生を引き抜くのは容易ではなく、また興味を示す若者も少なかった。しかし、それでも数名の後輩が何となくいつくようになり、気がつくと段々サークルらしい雰囲気になっていった。
美研のような老舗のサークルでもないので部室があるわけでもなく、我々はいつもキャンパスの中央ステージ(略して中ステ)の一角を陣取り、つまらない授業の合間に、または授業を抜け出しては集まって屯し、ダベったりボール遊びしたりするような無邪気な活動が続いた。
メンバーも元附属校上がりの連中だけではなくなって、地方からやってきた輩や少ない人数ではあったものの女子も加わり、私はつまらない同級生、つまらない授業、つまらない学歴社会を回避するようなつもりでただただ集まっては時間を浪費するようになった。同時に何となくフィットしなかった美研には行かなくなってしまった。
イン研が私のバンド人生とどう関係があるのかと思うかもしれない。しかし私が後年始動させることになった赤い疑惑は、この「イン研」での無駄な戯れとそのメンバーの存在が初期の起動力の一部となっていたのは間違いないし、「あの時僕らは」という曲はズバリその頃のことを歌った曲である。私はまだまだ先の、大学卒業後の身の振り方を、いつも彼らと過ごしながら何となく妄想して過ごし、漠然とした不安を解消させるために彼らと無駄な時間を潰していたのではなかっただろうか。
つづく
結局、私が選んだのは文学部の英米文学科だった。どちらかといえば国文学が好きで英米文学には何の興味もなかったのだが、とりあえず英語を勉強しておけば将来何かの役に立つかもしれない、とどこかで海の向こう側への興味がくすぶってたのだろうか。
中大の文学部は八王子の山の中にあり、通学はなかなか大変で、しかし長閑な、自然を抱く丘の中腹にあり、のんびりするには悪くない場所であり、東京を距離を置いて眺めるのにも最適な場所でもあった。
大学に入るといろんな地方から上京してきた面白い輩と沢山知り合える、と少しく期待していたが、入学して私が入ったクラスにいた連中は何ともつまらない人間の集まりにしか見えなかった。地方から来た学生は服装もダサいし、みんな周りの人間といかに仲良くなるかで必死になっているようにしか見えず、エスカレーターで上がった呑気な附属校生である私はそんな周囲をバカにして見ていた。高校でパンクやインディーズ、アングラといった価値観の洗礼を受けた私は相当に捻くれ、簡単に、また軽率に他人を蔑むような癖がついてしまっていたのだ。
生意気ざかりの私はガリ勉高校に入った時と同様か、それ以上の失望感を大学でも味わったが、せめて面白いサークルでも見つければ面白い人達がいるに違いない、と片端からリサーチしてみた。テニスサークルなど、集団合コンしたいだけだろ、みたいなチャラチャラした不愉快なサークルばかりが目について、結局、私を興奮させるようなサークルは見当たらなかったが、唯一美術研究会というサークルは異様なオーラを放っているように見えた。サークル勧誘の担当であるらしい方の風貌が明らかに異彩を放っていて、まるで世捨て人の気配すら感じさせ、熱心に勧誘してこない感じも私の注意を引いた。もちろん美術に興味はあるが自分のやりたいのはバンドだし、とも思ったが面白い人を探すのはここがいいかもしれない、と思い飛び込んでみた。
美術研究会、通称美研は、中大でも一応の歴史があるのだろう、キャンパスの端っこにあったサークル棟にサークル室を持っていた。そのサークル棟自体がいかにも学生闘争を想起させるような雰囲気を醸し出していたのだが、その中でも特に怪しいオーラが美研のサークル室には漂っている気がした。そこに出入りしてる人は実際怪しい人が多くて私は少し嬉しくなった。そして、怪しい人が多いのは美研だけでなく、隣の部屋にサークル室を構えていたフリーバードという全学連系のサークルも同様に怪しく、美研とフリーバードは所属メンバーがごっちゃになっていることが段々分かった。
そこで出会う人は明らかにアウトローな雰囲気をみんな持っていて、現役大学生ではないだろう老けた人もいれば明治の文豪のような風貌の人もいたし、ベルサイユの薔薇に出て来そうな中性的でガタイのいい人がめちゃくちゃ小さいランドセルをしょっていたり、とにかく理解不能な人達がいっぱいいて面白かった。
そのサークル棟で明らかに寝泊まりしてるらしい人もいて、私はここでボヘミアンとか、ヒッピーとか、左翼とかマルクスとか、普通の教育ではあんまり積極的に教えてもらわないキーワードをいろいろ知ることができた。
彼らは決して人当たりが良いわけではなく、これでは新入生が居つく訳ないよね、というちょっとした排他性があったので美研に入り浸るのは私の他に数名いたかいなかったか。それでも私はその中にいればいろいろ面白いことが起こるのではないかと思いそれなりに居座ってみたりしていた。そして、美研の人がやっていた「おしばな」というバンドにベーシストとして加わったり、それなりの交流をしていたのだが、それでも私はどこかで疎外感に似た何か、どうしてもそこが自分の居場所ではないような気持ちをずっと引きずっていた。
そんな中、大学1年の終わり頃であったか、私が高校から続けていたハイパーニトロのベースを弾いていたナリ君が新しいサークルを作ろうよ、と私に仕向けてきた。その頃私は美研に出入りしながらもバンドメンバーを含む、附属校上がりでチャラチャラしたサークル活動に馴染めずにいた数人と、キャンパス内で緩やかなコミュニティを形成しつつあった。ナリ君はそのメンバーでサークルを作ろうと言い出したのだったが、自分が会長になるのは億劫でその役を私に押しつけてきたのだ。
押しつけてきた、と言っても、丁度私も自分の居場所を作りたいと思ってたところだったので、面白そうだ、やろうやろう、ということになって私が代表になった。そこに集まっていた連中の興味対象がアングラな音楽、映画、漫画などのサブカルチャー全般だったので、私は「インディーズ研究会」にしようと思いついた。先に触れた通り当時はまだ「インディーズ」というワードにヒップなニュアンスが漂っていたのだ。
そういう訳で「インディーズ研究会」なるサークルが発足し、翌大学2年時の新入生歓迎期間から早速我々はチラシを作って会員を増やすべく奮闘した。しかし内弁慶なメンバーばかりで年下の学生を引き抜くのは容易ではなく、また興味を示す若者も少なかった。しかし、それでも数名の後輩が何となくいつくようになり、気がつくと段々サークルらしい雰囲気になっていった。
美研のような老舗のサークルでもないので部室があるわけでもなく、我々はいつもキャンパスの中央ステージ(略して中ステ)の一角を陣取り、つまらない授業の合間に、または授業を抜け出しては集まって屯し、ダベったりボール遊びしたりするような無邪気な活動が続いた。
メンバーも元附属校上がりの連中だけではなくなって、地方からやってきた輩や少ない人数ではあったものの女子も加わり、私はつまらない同級生、つまらない授業、つまらない学歴社会を回避するようなつもりでただただ集まっては時間を浪費するようになった。同時に何となくフィットしなかった美研には行かなくなってしまった。
イン研が私のバンド人生とどう関係があるのかと思うかもしれない。しかし私が後年始動させることになった赤い疑惑は、この「イン研」での無駄な戯れとそのメンバーの存在が初期の起動力の一部となっていたのは間違いないし、「あの時僕らは」という曲はズバリその頃のことを歌った曲である。私はまだまだ先の、大学卒業後の身の振り方を、いつも彼らと過ごしながら何となく妄想して過ごし、漠然とした不安を解消させるために彼らと無駄な時間を潰していたのではなかっただろうか。
つづく
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