扁桃炎闘病記2〜点滴による急回復
耳鼻咽喉科の医師による紹介状を受け取った私は、そのままの足で500mほど離れたN総合病院へ向かった。ここは私が幼い時に何度も通った病院で、建物は古ぼけていて、私の母がある時期ここの医師に不信を抱き、それ以来市内にもう1つあるS総合病院を利用するようになったため、私自身もN総合病院はあまり対応がよくないイメージだった。
しかし、もはやあれから20年ほど私は田無の総合病院の世話になっておらず、特にその病院に対する不信感なんかも忘却してしまっている。病院の気質も変わったかもしれない。今はもうこの喉の苦しみを解放してくれるならどんな病院でもいい。
入口を潜ると、見覚えのある景色が広がる。自動ドアが開くと、左手前を受付にして真っ直ぐに廊下が50mほど伸びてその左右に内科、外科、耳鼻咽喉科、小児科、消化器科、整形外科など外来が並んでおり、廊下中央と脇にズラーッと並べられた椅子にはむせ返る程の病人が座っている。こんな風に混み合った外来の様子自体が数十年前の光景と全く同じで、私はいささか困惑した。あまりにも不慣れなところに来た気がした。
受付に紹介状を見せる。チラっと隣の受付で慌ただしく接客を行なっているぽっちゃりした女子に目を奪われる。この顔、何処かで見たことがある、っつうか、絶対中学時代の同級生だ。そこまでは分かるのに名前すら出てこない。ただその澄んだような瞳が印象的で容貌を覚えているものの名前が分からない。
私は恥ずかしいので彼女に気づかれないように紹介状を受諾してもらい、そして耳鼻科の前で待つように言われた。入院患者枠は特別なのだろうか、大して待たされることなく私の名が呼ばれ、新たにN総合病院の担当医師となるT医師が、先ほどの耳鼻咽喉科の医師を更に上回るほどの爽やかな表情で私を迎え、先ほどと同じように鼻カメラチェックと、直接口を開かせて私の喉を検査した。
既に注射器による膿の吸い出しを終えた後だったので、
「とりあえず今日は点滴で様子を見ましょう。それで、もしまた明日以降必要であれば吸い出し、酷い時はちょっと切って膿を出しましょう。今日はもう嫌ですよね。注射、痛いですからね、アレ」
と爽やかにT医師が言ってのけた。私の苦しみを気遣ってくれるのは有難いが、最悪切開が必要なのか。私はやや暗澹たる気持ちになった。
診療はそれだけで終わり、私は入院患者として必要なレントゲン撮影、心電図、血液検査などもろもろの検査を受けて回り、昼を過ぎてようやく病棟に案内された。
病棟も病室も想像以上にボロく、また、私が入院した3階フロアにはほとんど末期を匂わせるご老人しかいない。何だか情けない気持ちになったが、入院病棟なんていうのはこんなもんだろう、とも思えたし、これまでの数えるばかりの入院体験でも似たような環境に置かれた気がしてきた。とはいえ、廊下を歩く度に、周囲の部屋の入口から自然と眼に入ってくる、干物のように痩せてしまい、苦渋の表情を浮かべて寝たきりになっている婆さんの姿などを眺めて、何だか凄いとこに来てしまったな、という感慨を払拭できないでいた。
すぐに、点滴が始まった。まだ8度代の熱があり、昨晩からろくにモノを口にしてないので点滴が有難い。しかし、これでもか、と生理食塩水やら抗生剤やらを含む何本もの液体を点滴投与され、少し不安になる。一体私の喉は治るのだろうか。
まだ頭がボーっとして横になると直ぐに寝てしまう。気がつくと連絡しておいたピーの声がしてこと子を抱えて姿を現した。着替えやら必要なものをたくさん持って来てくれている。インフルエンザが流行っているので乳幼児の面会はNGと聞いていたが、あっさり通過して入って来ている。私は念のため乳幼児はNGらしいんだけど、と伝えたがナースステーションの人にオーケーをもらったらしくもうよく分からない。
ピーにこれまでの治療の経緯や、大体5日目安の入院になりそうなこと、などを話す。さっきまで話すのもシンドかったのに話せるようになってる自分にも驚く。程なくして連絡しておいた父もやってくる。いきなり私のベッドが賑やかになった。
父は、自分も幼い頃扁桃腺をよく痛めて何度も病院に通ったこと、そして最終的に扁桃腺を切除し、それから以降は何ともなくなった、という昔話を披露した。私はそんな事は初耳だったので驚いた。昔は扁桃腺を切るのが普通で、今はそんな乱暴なことは容易にしない、という話しは何となく聞いたことがあったが、まさか父が扁桃腺を切っていたなんてことは露も知らなかった。
ピーと父が帰ってまた1人になったが抗生剤が効いているのか、喉の痛みがほとんどなくなってしまい、熱も下がってしまった。私は病院の治験に驚き、これならもう明日退院でもいいじゃないか、くらいに思った。
晩の病院食が何の苦痛もなく食べられて私は神に感謝した。思わず完食した膳に向かって手を合わせた。何でもないようなことが、幸せだったと思う〜、ザ・虎舞竜の曲が脳内で再生されるようだった。
その夜私は、やはりまだ身体が疲れ切っていたのだろう、消灯と同時に直ぐに眠りについたが、老人ばかりの病棟であるせいか、病室内がやたら暑苦しく感じられ、眠るたびに大量の汗をかいて頻繁に目を覚ました。ピーが沢山持って来てくれた着替えも底をつき、このままだと風邪を引いてしまうので、仕方なく汗だくのシャツを、洗面所に併設されたランドリーの乾燥機にかけて乾かしては着替え、また底をついては乾燥機にかけて、と夜中に病棟内をウロウロした。
翌日も体調はよく、病院食も問題なく食べられるし、思ったよりも楽勝なんじゃないか、と思わせた。T医師も、うん、経過良好ですね、このまま順調に行くんじゃないですか、と楽観的なことを言ってくれる。
「ただ、昨日から点滴してるステロイド剤はかなり強力なクスリなので明日の夕方くらいまで慎重に経過を見ましょう。ステロイドが切れてぶり返すことがありますから」
楽観的な一言の後にそう釘を刺した。
2日目もいろいろの点滴をしたが、本を読んだりスマホをいじったり、特段退屈しない。
午後、ピーがこと子を連れて面会に来た。しばらくお喋りしてたらこと子が泣き出して、何だか気まずいのでピーが帰り支度を始めてたら看護師がやってきて、乳幼児の面会はNGなんです、と怒られてしまった。昨日はスルーされてたはずなのに、うーむ、この問題はグレーゾーンなのだな、と思った。
表面的には院内でインフルエンザの感染が激しいので乳幼児の出入りを禁じているのだが、もしかしたら子どもの泣き声問題なんかも絡んでるのではないか。余計な詮索をしても仕方ない。明日からはまた別の対策を考えよう。
夕飯時に今度は父が慌ただしくやってきて、秩父に行ってきたのだか何だかで土産を乱暴に置いて帰った。ビニール袋の中にカブの千枚漬けとプリンが3つ入っていたが、そのうちの1つはカラメルが溢れ出していて大変なことになっていた。私のベッドには冷蔵庫など無いことにも気づかなかったらしく、仕方ないので窓の外にそっと土産袋をしまった。
その日の夜は21時の消灯後も全く眠れず、音楽を聴いたり、手元灯で内田百間の「第1阿房列車」を読んだりしたが眼が冴えてしまう。消灯前から隣のオジさんのベッドから漏れるテレビ音が気になっていたが、消灯後もずっと漏れている。どうやらイヤホンの音が爆音で漏れているような感じである。
私はテレビが嫌いで5年ほど前に捨ててしまって以来見てないので、恐らくテレビ音の不快については人一倍敏感である。特にバラエティ番組の騒音がイヤホン越しにシャリシャリ伝わってくるような事態はことさら質が悪いではないか。眠れない私は追い詰められた。
24時頃になってもまだ漏れている。その癖イビキも漏れてくるのを確認した私は、彼がもはやテレビなど見ていないのに、電源を落とし忘れて寝落ちしてしまってることを確信し、遂にナースステーションに泣きついた。看護師の姉さんは、ありがとうございます、と私に礼を言い、すぐに私の病室まで駆けつけてくれ、隣の男性に、これ消しますよ〜、と声がけしてさっさと消してくれた。もっと早く、消灯直後に申し出ればよかったな、などと思いながら、ネットで調べた安眠のツボを3つ試したら、バカみたいにあっさり眠ってしまった。つづく
しかし、もはやあれから20年ほど私は田無の総合病院の世話になっておらず、特にその病院に対する不信感なんかも忘却してしまっている。病院の気質も変わったかもしれない。今はもうこの喉の苦しみを解放してくれるならどんな病院でもいい。
入口を潜ると、見覚えのある景色が広がる。自動ドアが開くと、左手前を受付にして真っ直ぐに廊下が50mほど伸びてその左右に内科、外科、耳鼻咽喉科、小児科、消化器科、整形外科など外来が並んでおり、廊下中央と脇にズラーッと並べられた椅子にはむせ返る程の病人が座っている。こんな風に混み合った外来の様子自体が数十年前の光景と全く同じで、私はいささか困惑した。あまりにも不慣れなところに来た気がした。
受付に紹介状を見せる。チラっと隣の受付で慌ただしく接客を行なっているぽっちゃりした女子に目を奪われる。この顔、何処かで見たことがある、っつうか、絶対中学時代の同級生だ。そこまでは分かるのに名前すら出てこない。ただその澄んだような瞳が印象的で容貌を覚えているものの名前が分からない。
私は恥ずかしいので彼女に気づかれないように紹介状を受諾してもらい、そして耳鼻科の前で待つように言われた。入院患者枠は特別なのだろうか、大して待たされることなく私の名が呼ばれ、新たにN総合病院の担当医師となるT医師が、先ほどの耳鼻咽喉科の医師を更に上回るほどの爽やかな表情で私を迎え、先ほどと同じように鼻カメラチェックと、直接口を開かせて私の喉を検査した。
既に注射器による膿の吸い出しを終えた後だったので、
「とりあえず今日は点滴で様子を見ましょう。それで、もしまた明日以降必要であれば吸い出し、酷い時はちょっと切って膿を出しましょう。今日はもう嫌ですよね。注射、痛いですからね、アレ」
と爽やかにT医師が言ってのけた。私の苦しみを気遣ってくれるのは有難いが、最悪切開が必要なのか。私はやや暗澹たる気持ちになった。
診療はそれだけで終わり、私は入院患者として必要なレントゲン撮影、心電図、血液検査などもろもろの検査を受けて回り、昼を過ぎてようやく病棟に案内された。
病棟も病室も想像以上にボロく、また、私が入院した3階フロアにはほとんど末期を匂わせるご老人しかいない。何だか情けない気持ちになったが、入院病棟なんていうのはこんなもんだろう、とも思えたし、これまでの数えるばかりの入院体験でも似たような環境に置かれた気がしてきた。とはいえ、廊下を歩く度に、周囲の部屋の入口から自然と眼に入ってくる、干物のように痩せてしまい、苦渋の表情を浮かべて寝たきりになっている婆さんの姿などを眺めて、何だか凄いとこに来てしまったな、という感慨を払拭できないでいた。
すぐに、点滴が始まった。まだ8度代の熱があり、昨晩からろくにモノを口にしてないので点滴が有難い。しかし、これでもか、と生理食塩水やら抗生剤やらを含む何本もの液体を点滴投与され、少し不安になる。一体私の喉は治るのだろうか。
まだ頭がボーっとして横になると直ぐに寝てしまう。気がつくと連絡しておいたピーの声がしてこと子を抱えて姿を現した。着替えやら必要なものをたくさん持って来てくれている。インフルエンザが流行っているので乳幼児の面会はNGと聞いていたが、あっさり通過して入って来ている。私は念のため乳幼児はNGらしいんだけど、と伝えたがナースステーションの人にオーケーをもらったらしくもうよく分からない。
ピーにこれまでの治療の経緯や、大体5日目安の入院になりそうなこと、などを話す。さっきまで話すのもシンドかったのに話せるようになってる自分にも驚く。程なくして連絡しておいた父もやってくる。いきなり私のベッドが賑やかになった。
父は、自分も幼い頃扁桃腺をよく痛めて何度も病院に通ったこと、そして最終的に扁桃腺を切除し、それから以降は何ともなくなった、という昔話を披露した。私はそんな事は初耳だったので驚いた。昔は扁桃腺を切るのが普通で、今はそんな乱暴なことは容易にしない、という話しは何となく聞いたことがあったが、まさか父が扁桃腺を切っていたなんてことは露も知らなかった。
ピーと父が帰ってまた1人になったが抗生剤が効いているのか、喉の痛みがほとんどなくなってしまい、熱も下がってしまった。私は病院の治験に驚き、これならもう明日退院でもいいじゃないか、くらいに思った。
晩の病院食が何の苦痛もなく食べられて私は神に感謝した。思わず完食した膳に向かって手を合わせた。何でもないようなことが、幸せだったと思う〜、ザ・虎舞竜の曲が脳内で再生されるようだった。
その夜私は、やはりまだ身体が疲れ切っていたのだろう、消灯と同時に直ぐに眠りについたが、老人ばかりの病棟であるせいか、病室内がやたら暑苦しく感じられ、眠るたびに大量の汗をかいて頻繁に目を覚ました。ピーが沢山持って来てくれた着替えも底をつき、このままだと風邪を引いてしまうので、仕方なく汗だくのシャツを、洗面所に併設されたランドリーの乾燥機にかけて乾かしては着替え、また底をついては乾燥機にかけて、と夜中に病棟内をウロウロした。
翌日も体調はよく、病院食も問題なく食べられるし、思ったよりも楽勝なんじゃないか、と思わせた。T医師も、うん、経過良好ですね、このまま順調に行くんじゃないですか、と楽観的なことを言ってくれる。
「ただ、昨日から点滴してるステロイド剤はかなり強力なクスリなので明日の夕方くらいまで慎重に経過を見ましょう。ステロイドが切れてぶり返すことがありますから」
楽観的な一言の後にそう釘を刺した。
2日目もいろいろの点滴をしたが、本を読んだりスマホをいじったり、特段退屈しない。
午後、ピーがこと子を連れて面会に来た。しばらくお喋りしてたらこと子が泣き出して、何だか気まずいのでピーが帰り支度を始めてたら看護師がやってきて、乳幼児の面会はNGなんです、と怒られてしまった。昨日はスルーされてたはずなのに、うーむ、この問題はグレーゾーンなのだな、と思った。
表面的には院内でインフルエンザの感染が激しいので乳幼児の出入りを禁じているのだが、もしかしたら子どもの泣き声問題なんかも絡んでるのではないか。余計な詮索をしても仕方ない。明日からはまた別の対策を考えよう。
夕飯時に今度は父が慌ただしくやってきて、秩父に行ってきたのだか何だかで土産を乱暴に置いて帰った。ビニール袋の中にカブの千枚漬けとプリンが3つ入っていたが、そのうちの1つはカラメルが溢れ出していて大変なことになっていた。私のベッドには冷蔵庫など無いことにも気づかなかったらしく、仕方ないので窓の外にそっと土産袋をしまった。
その日の夜は21時の消灯後も全く眠れず、音楽を聴いたり、手元灯で内田百間の「第1阿房列車」を読んだりしたが眼が冴えてしまう。消灯前から隣のオジさんのベッドから漏れるテレビ音が気になっていたが、消灯後もずっと漏れている。どうやらイヤホンの音が爆音で漏れているような感じである。
私はテレビが嫌いで5年ほど前に捨ててしまって以来見てないので、恐らくテレビ音の不快については人一倍敏感である。特にバラエティ番組の騒音がイヤホン越しにシャリシャリ伝わってくるような事態はことさら質が悪いではないか。眠れない私は追い詰められた。
24時頃になってもまだ漏れている。その癖イビキも漏れてくるのを確認した私は、彼がもはやテレビなど見ていないのに、電源を落とし忘れて寝落ちしてしまってることを確信し、遂にナースステーションに泣きついた。看護師の姉さんは、ありがとうございます、と私に礼を言い、すぐに私の病室まで駆けつけてくれ、隣の男性に、これ消しますよ〜、と声がけしてさっさと消してくれた。もっと早く、消灯直後に申し出ればよかったな、などと思いながら、ネットで調べた安眠のツボを3つ試したら、バカみたいにあっさり眠ってしまった。つづく
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