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アクセルの意気地記 第2話

ピーとこと子と3人の新たな生活が始まり、畳の和室二間の私のアパートは一気に賑やかになった。こと子の身体はまだ小さくても、ひとたび泣き出せば我が家全体に響き渡る。

ウチのアパートは木造で隣のウチの話し声や、上の部屋のオジさんのオナラなんかも聞こえることがあるくらいなので、逆にこと子の泣き声でクレームを入れられないか心配になる。子供の騒ぐ声や泣き声が不快だからと、保育園が建てられないというニュースが流れる時代である。油断はできないが、かといってこれはどうしようもない問題で、もし今後クレームが入ったらその時はその時であるが、この狭い東京で生息するのなら子供の騒ぐ声や泣き声くらい我慢するのが人情である。

こと子は子供といってもまだ赤ん坊で、里帰りから戻ってきた最初の1、2ヶ月はひっきりなしに泣いた。赤ん坊が泣くのは当たり前である。腹がへっているか、排泄をして下半身が不快であるか、今の体勢が不快であるか、眠いのに眠れないか、大体そんなところの不満によるものだという。しかし、マニュアル通りに考えていても、泣き止ませるのは思ったほど簡単なことではなく、泣いて嫌がること子を上手にあやすことが自分にはほとんどできないことが分かってかなりショックだった。

私は仕事以外の時間はなるべく子守か家事など、ピーのバックアップに捧げようと力んでいたが、家事はまだしも赤ん坊を静かにあやすことの困難さに直面して戸惑った。もっとうまくやれるのではないか、と思っていたから苦笑の連続でもあった。上手くいかないのは人生と同じである。

確か2ヶ月目くらいの頃であったと思うが、私が抱っこした途端に毎回物凄い拒絶反応を示してこと子が泣きじゃくることが続いた。泣かれ、失望しても割合根気のある私であったが、これはどうしようもない、と驚くほどの嫌がり方で、しかし見兼ねたピーがやってきて私の手からこと子を抱き上げると、今までの拒絶は何だったの、と首を傾げたくなるほどにほぼ毎度ピタリと泣き止むので、呆れると同時にこれは何かしらの父親アレルギーなのではないかと疑った。

ピーは、諦めないで触れ合えば改善するから頑張って、と私の尻を叩いたが、こと子の拒絶反応が明確になってくるとピーも拒絶され続ける私に同情し始めた。その後ネットでそういう事例を調べたら、赤ちゃんによっては「パパ見知り」と称する、父親を拒絶する時期があるということが書いてあり少し安心した。この時期が長引くと数ヶ月続くこともある、とも書いてあり怖気づいたが、幸い2週間もしないうちにこと子のパパ見知りは終わった。

2ヶ月、3ヶ月の頃までは授乳の回数も頻度も多く、1時間おきとか2時間おきに授乳しなければならない、ということを子育てをして初めて知って驚きを隠せなかったが、表情もまだ少なく、泣いてばかりの赤ちゃんとずっと向き合って世話しなければならない母親のシンドさは想像を遥かに超えていた。だから私はバンド活動もほぼ休止してひたすらにできる家事や抱っこやらをしたが、それでもピーは疲弊していた。しかし、そういうシンドさを吹き飛ばすような、家族が増えたことに対する喜びと、こと子の笑顔とがピーを支えただろうし、私を支えていた。

首が座らないウチは抱っこするのも、持ち上げ方やら、角度やら、なかなか難しくていろいろ試行錯誤を重ねた。腕の中で静かになって寝てくれたような時の充足感は体験したことのない幸福感を伴うものだった。また、あやし方がまるで分からない私はひたすらピーのあやし方を盗み、参考にした。そういうことに関しての能力は、さすが母性というものなのか、度々私を驚かせたものだ。ピーにこんな才覚があったのか、と度々私は驚嘆し、尊敬し直し、同時に彼女がやることをことごとく真似ていった。

4ヶ月くらいになると首が安定してきて、笑顔や発声のバリエーションも増え、振り回す手足も元気いっぱいで、見ているだけで楽しく、私達はことあるごとにこと子が生まれてきてくれたことに感謝していた。彼女も私も、これまで生きてきて、何か何処かに満たされないわだかまりのようなものを抱いていた。少なくとも私はそうであったし、「私には音楽が」というような変なプライドがあり、そんな拘りから解放されずにいたようなところがあったのは確かで、そういうことにも気づかされたし、新たな目標ができた喜びは私を満たしてくれた。曲が生み出せなくなってもこの子をしっかり育てられれば、それはとても素晴らしい、代え難い人生の成果ではないか、と思えてきて肩の荷が軽くなったような気さえしていた。

こと子が生まれて間もない頃、私は誰かから、「娘さんですか、もう長尾さんもデレデレじゃないですか? 娘は永遠の恋人みたい、と言いますからね」と言われてビックリした。デレデレかどうかは知らないけど、娘が恋人? 私は、いやいや、冗談でしょう、まさか…、と答え実際に声を出して笑ったものだった。娘が可愛いのは分かるけど、恋人ってねえ、まさか…、と純粋に可笑しいと思えたし、物の例え、ただの誇張だろう、ぐらいに考えていた。

ところがである。そうやって数ヶ月世話をしていると、パパ見知りされた時、風呂に入れて泣かれた時、逆に私がふざけて上手く悦ばせられた時、私は相手が女子であり、この子には絶対に嫌われたくない、という感情が無意識に溢れてきて、そんな風にして、この子に嫌われたくないと思う瞬間は、まさに恋人に対する感情と瓜二つになってしまったことに気づいて急激に恥ずかしくなった。言われて、まさかね、とバカにしていたことが、言い得て妙であったことに後で気付いたというわけだ。恥ずかしくなったが、その嫌われたくない、という気持ちは大切なものだとも思ったし、恥ずかしがることでもない、当たり前のことにも思えた。

私はこれまでに愛とはなんぞや、ということを、一般的な青年男子並みに考えていた。女性を好きになったり、想いを告げたり、想いが通じて付き合うことになってみたり、そういうことを経験しても、それは恋という感覚、または情という感覚の範囲でしかなかなか捉えきれない。無償の愛、という言葉はよく聞くが、それが自分の内から感じられないと私はそんなものの存在を信じることができなかったのだ。しかし、いざ子供が生まれて育てている内に、それを愛と呼んで差し支えないだろう、と感じさせる、自分以外の人間に対する深い恋慕のような感覚をジワジワと抱くようになっていた。

それはこと子に対しては無論、こと子を生み、献身的に育ててくれているピーに対してもである。こんなことを表明するのは恥ずかしいが、いいんだ、いいんだ、恥ずかしがることなんかない。愛という感覚を偉そうに語りたい訳じゃなくて、その感覚の端っこの方だけかもしれないが自分の手で掴めたことが何だか嬉しいのだ。アクセルも子供ができたらいろんなことがいい方向に進むよ、と私に豪快に言ってのけた子持ちの友人があったが、彼の言葉が子育てをしているいろんな瞬間に思い出された。

私は日本型社会人としてうまく適応することができず、長らくフリーターとして凌ぎ、どうにかこうにかやってきたが、36歳の時にようやく自分でも苦痛を感じずに働ける職場を見つけて正社員となった。とはいえ世間的に言われる、いわゆる低所得労働者である。フリーター時代よりは多少稼ぎは増えたが余裕はない。今はこと子を預けることなく、ピーにずっと面倒見てもらっているので共稼ぎでもない。それでやっていけるのか全く心もとなかったが、良心的で親切な大家さんに出会うことができたり、周囲の人間から子供服やら何やら、自分達で購入しなくても事足りるレベルで譲ってもらったり、親からの祝賀的な援助があったり、今まで通りの質素な生活を続けてみたら以外にも私だけの給料で何とかやっていけるようだった。

養っている、と偉そうに言えるほどのものではないが、自分の労働で家族3人が何とか生きていることに驚きを感じつつ、私の第2の人生が幕を開けたのだな、という感動をことあるごとに覚えている。ピーと喧嘩をしたり、病気になったり、シンドい日々が続くことがあったり、躓いたりすることは今まで通りでも、喜んだり楽しんだり、満ち足りた気持ちに包まれたりすることは今まで以上にある。自分や自分の人生を肯定的に捉えることができるようになった。いや、肯定的にならないと家族を幸せになどできないのだ。そういうことがこと子を育ててみて何となく分かってきたことである。
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