バンドマンに憧れて 第17話 海外旅行とカルチャーショック
私が大学生だったのはもう20年も前の話で、現在の大学生という生物がどのように変化しているのか私には見当もつかないが、それでも、勉学に勤しむというよりは、有り余る時間をどのように過ごすか、ということの方が大きなテーマであることは、今も20年前も、そのもっと前だってさほど変わらないのではないか。バイトで金を貯めるか、サークルに打ち込むか、恋愛に夢中になるか、遊びまくるか…。
私はというとバンドのことばかり考えていて、ライブに行ったり、CDを買うためのお金を稼ぐため、キャンパスでイン研のヤツらとダラダラ過ごす以外はイタ飯屋やらピザ屋やらでバイトをして過ごした。そして大学1年の暮れに、友人に誘われるままにタイとベトナムに、つまり生まれて初めて海外旅行というものに出かけることになったんだ。
海外旅行に気軽に行けるのも大学生ならではだ。私も人並みに海の向こうにどんな世界が広がっているのか、という好奇心を持っていたのである。たまたま友人がチョイスしたのがタイとベトナムという東南アジアの国であったことが幸いだったのか、私はこの初めての海外旅行にすっかり衝撃を受け、想像以上の興奮を味わってしまうのだった。
日本人にとって、日本より経済発展が遅れている国々、というイメージ。「発展途上国」という侮蔑的な呼称もあるが、そんな東南アジアの国々で私が触れ合った人々のエネルギッシュな姿や、とことん親切で優しくて素朴な人々は、私に強い感動を与えた。例えば、ベトナムで誰かに道を尋ねる。すると、尋ねた相手が丁寧に教えてくれるのだが、それを聞いてるうちに尋ねてない周りの人達がワラワラと集まってきて、あーでもないこーでもない、と収拾がつかなくなってしまう。おせっかいといえばそれまでだけど何かホロっとくるものがある。日本人はカネを落とすカモだと思われてるので、商人のオッチャンとか物売りのジャリに囲まれることも日常茶飯事だったけど、ごまかして逆に何かを聞いたりすると途端に親切にしてくれたりすることもあって、人の良さが透けてみえるというかなんというか。最終的にはうちに来いよ、みたいな展開まであったりする。
また例えば、オンボロの高速バス、バスといっても10人乗りのマイクロバスとか7、8人乗りののワゴン車なのだが、ボロいせいでしょっちゅう故障しちゃう。すると運転手が車の下に潜って直し始める。おお、自分で直しちゃうんだ、ってところでまず感動なんだけど、場合によっては客も直すのを手伝ったりしてて、そういう感じも新鮮で。日本みたいにクレームで怒り狂う客もいない。
また例えば、舗装されてない道が殆どで、下手打った車がぬかるみにハンドルを取られたりする。その車を道に戻すために関係ないそこら中の人がいつの間にか集まってきて、みんなで力合わせて車を押し上げてる。困った時はお互い様、という精神なのだろうが、東京育ちのひねくれ者だった私には、そんな一幕も印象的な光景だった。
屋台文化やら、町ごとに点在するやっちゃ場的市場やら、用事があるのかないのか道に人々がウロウロしていて賑やかなストリート感覚やら、いずれも、もしかしたら戦後日本はこんな感じだったんじゃないかな、と思わせるような、私の直接知らない経済発展前の日本の光景を何となく想起させる景色に私は興奮しっぱなしだった。
それから、、、そうそう、そういった異国情緒の感動に加えて、旅先で出会った「バックパッカー」達の姿も私を魅了した。当時「進め!電波少年」というTV番組で猿岩石という芸人が世界をヒッチハイクして回るスタミナ企画が人気を博していたが、私もそういう無謀な冒険にどこか心を惹かれていたのだろうか。私は少ない資金とバックパック1つで世界を放浪している欧米や日本人のバックパッカー達の姿を生で目にして、私もこういうボヘミアンになりたい、と強く思うようになった。世界中を旅して回るタフガイ達がやたらとカッコよくみえた。そしてそのバックパッカーという文化の存在が60.70年代のヒッピーカルチャーから受け継がれてきたものであることなんかもその時初めて知ったのであった。
私はすっかり海外旅行の虜になってしまった。こんな体験ができるなら、とそれからはバイト代をコツコツ貯めて何度か東南アジアやヨーロッパの国々を見て歩いた。自分もバックパッカーの端くれであるぞ、とばかりに如何に金をかけない旅に仕上げるかに情熱を注ぎ、服は手で洗濯、安いドミトリーに泊まり、矢鱈と歩く。ご飯は地元の人に混じって屋台で食し、スリにあったり、強盗にあったり、胃腸が弱いので旅の間中ずっと下痢していたり。ボッタクられるのも日常茶飯事だったが、何故かそんなスリリングな体験と優しい人々との出会いが私を興奮させ続けた。
海外を貧乏旅行しているうちに、私はバンドマンになりたいのか旅人になりたいのか、そんな馬鹿みたいな二者択一に真剣に悩み始めた。私が知り合ったり話したりしたバックパッカー達は国に帰っては期間労働をして金を貯めてまた旅に出る、というのが定番のようだった。欧米のパッカー達は、日本のように新卒で就職しないと将来が保証されない、という概念がないらしかった。それを知って私は日本の学歴社会や新卒主義がとことんバカらしいことなんだと確信を持つようになった。
異国を自由気ままに旅していると、私がそれまで東京で見ていた、スーツをまとい草臥れた表情で通勤する所謂サラリーマンの姿がいかに珍妙なものであるかをヒシヒシと感じられるようになっていた。元々、バンドマンに憧れた中学生の頃から私はサラリーマンになるのだけは御免被りたい、と思うようになっていたので、旅先で確信したその感覚は私の人生観に強く訴えた。
当時、東南アジアで私が見た多くの人達は確かに日本人のような金銭的余裕はなさそうだった。だから学生で海外旅行をしている私はしょっちゅう不思議そうに見つめられた。そんな時私は妙な罪悪感すら感じたものだったが、財産という財産を所有できない東南アジアの市井の人達が、簡単に海外旅行に出かけられる日本人に比べて不幸だろうか。いや、そんなことはなくむしろ反対で、東南アジアで目の当たりにした素朴で親切な人達は、忙しい日本社会でストレスにまみれ、汲々と暮らす日本人より余程幸せそうに見えた。
海外をフラフラ旅をしている間は、学生なりに日常的に感じていたしがらみや将来への不安というものから解放され、「自由」という概念を身近に感じることができるようだった。同時に自分のちっぽけさと世界の広さをも知ることができ、それまで日本で生きてきて染み付いていたり教え込まれたりした常識がいろいろとひっくり返る感じがした。
やりたいようにやればいい。私は海外旅行を繰り返すうちにその想いを改めて確信した。結果的にその後フリーターになってからは海外旅行に行くだけの貯金ができず、バンドマンを続けるので精一杯になってしまい、海外旅行が実現したのは20代後半にインドに行ったのと、新婚旅行でタイとラオスに行ったきりになってしまったのだが、それでも学生の時に、特に東南アジアを放浪した経験は、バンドを続けていくことにも、自分の価値観を形成していくことにも決定的な出来事だった。
つづく
私はというとバンドのことばかり考えていて、ライブに行ったり、CDを買うためのお金を稼ぐため、キャンパスでイン研のヤツらとダラダラ過ごす以外はイタ飯屋やらピザ屋やらでバイトをして過ごした。そして大学1年の暮れに、友人に誘われるままにタイとベトナムに、つまり生まれて初めて海外旅行というものに出かけることになったんだ。
海外旅行に気軽に行けるのも大学生ならではだ。私も人並みに海の向こうにどんな世界が広がっているのか、という好奇心を持っていたのである。たまたま友人がチョイスしたのがタイとベトナムという東南アジアの国であったことが幸いだったのか、私はこの初めての海外旅行にすっかり衝撃を受け、想像以上の興奮を味わってしまうのだった。
日本人にとって、日本より経済発展が遅れている国々、というイメージ。「発展途上国」という侮蔑的な呼称もあるが、そんな東南アジアの国々で私が触れ合った人々のエネルギッシュな姿や、とことん親切で優しくて素朴な人々は、私に強い感動を与えた。例えば、ベトナムで誰かに道を尋ねる。すると、尋ねた相手が丁寧に教えてくれるのだが、それを聞いてるうちに尋ねてない周りの人達がワラワラと集まってきて、あーでもないこーでもない、と収拾がつかなくなってしまう。おせっかいといえばそれまでだけど何かホロっとくるものがある。日本人はカネを落とすカモだと思われてるので、商人のオッチャンとか物売りのジャリに囲まれることも日常茶飯事だったけど、ごまかして逆に何かを聞いたりすると途端に親切にしてくれたりすることもあって、人の良さが透けてみえるというかなんというか。最終的にはうちに来いよ、みたいな展開まであったりする。
また例えば、オンボロの高速バス、バスといっても10人乗りのマイクロバスとか7、8人乗りののワゴン車なのだが、ボロいせいでしょっちゅう故障しちゃう。すると運転手が車の下に潜って直し始める。おお、自分で直しちゃうんだ、ってところでまず感動なんだけど、場合によっては客も直すのを手伝ったりしてて、そういう感じも新鮮で。日本みたいにクレームで怒り狂う客もいない。
また例えば、舗装されてない道が殆どで、下手打った車がぬかるみにハンドルを取られたりする。その車を道に戻すために関係ないそこら中の人がいつの間にか集まってきて、みんなで力合わせて車を押し上げてる。困った時はお互い様、という精神なのだろうが、東京育ちのひねくれ者だった私には、そんな一幕も印象的な光景だった。
屋台文化やら、町ごとに点在するやっちゃ場的市場やら、用事があるのかないのか道に人々がウロウロしていて賑やかなストリート感覚やら、いずれも、もしかしたら戦後日本はこんな感じだったんじゃないかな、と思わせるような、私の直接知らない経済発展前の日本の光景を何となく想起させる景色に私は興奮しっぱなしだった。
それから、、、そうそう、そういった異国情緒の感動に加えて、旅先で出会った「バックパッカー」達の姿も私を魅了した。当時「進め!電波少年」というTV番組で猿岩石という芸人が世界をヒッチハイクして回るスタミナ企画が人気を博していたが、私もそういう無謀な冒険にどこか心を惹かれていたのだろうか。私は少ない資金とバックパック1つで世界を放浪している欧米や日本人のバックパッカー達の姿を生で目にして、私もこういうボヘミアンになりたい、と強く思うようになった。世界中を旅して回るタフガイ達がやたらとカッコよくみえた。そしてそのバックパッカーという文化の存在が60.70年代のヒッピーカルチャーから受け継がれてきたものであることなんかもその時初めて知ったのであった。
私はすっかり海外旅行の虜になってしまった。こんな体験ができるなら、とそれからはバイト代をコツコツ貯めて何度か東南アジアやヨーロッパの国々を見て歩いた。自分もバックパッカーの端くれであるぞ、とばかりに如何に金をかけない旅に仕上げるかに情熱を注ぎ、服は手で洗濯、安いドミトリーに泊まり、矢鱈と歩く。ご飯は地元の人に混じって屋台で食し、スリにあったり、強盗にあったり、胃腸が弱いので旅の間中ずっと下痢していたり。ボッタクられるのも日常茶飯事だったが、何故かそんなスリリングな体験と優しい人々との出会いが私を興奮させ続けた。
海外を貧乏旅行しているうちに、私はバンドマンになりたいのか旅人になりたいのか、そんな馬鹿みたいな二者択一に真剣に悩み始めた。私が知り合ったり話したりしたバックパッカー達は国に帰っては期間労働をして金を貯めてまた旅に出る、というのが定番のようだった。欧米のパッカー達は、日本のように新卒で就職しないと将来が保証されない、という概念がないらしかった。それを知って私は日本の学歴社会や新卒主義がとことんバカらしいことなんだと確信を持つようになった。
異国を自由気ままに旅していると、私がそれまで東京で見ていた、スーツをまとい草臥れた表情で通勤する所謂サラリーマンの姿がいかに珍妙なものであるかをヒシヒシと感じられるようになっていた。元々、バンドマンに憧れた中学生の頃から私はサラリーマンになるのだけは御免被りたい、と思うようになっていたので、旅先で確信したその感覚は私の人生観に強く訴えた。
当時、東南アジアで私が見た多くの人達は確かに日本人のような金銭的余裕はなさそうだった。だから学生で海外旅行をしている私はしょっちゅう不思議そうに見つめられた。そんな時私は妙な罪悪感すら感じたものだったが、財産という財産を所有できない東南アジアの市井の人達が、簡単に海外旅行に出かけられる日本人に比べて不幸だろうか。いや、そんなことはなくむしろ反対で、東南アジアで目の当たりにした素朴で親切な人達は、忙しい日本社会でストレスにまみれ、汲々と暮らす日本人より余程幸せそうに見えた。
海外をフラフラ旅をしている間は、学生なりに日常的に感じていたしがらみや将来への不安というものから解放され、「自由」という概念を身近に感じることができるようだった。同時に自分のちっぽけさと世界の広さをも知ることができ、それまで日本で生きてきて染み付いていたり教え込まれたりした常識がいろいろとひっくり返る感じがした。
やりたいようにやればいい。私は海外旅行を繰り返すうちにその想いを改めて確信した。結果的にその後フリーターになってからは海外旅行に行くだけの貯金ができず、バンドマンを続けるので精一杯になってしまい、海外旅行が実現したのは20代後半にインドに行ったのと、新婚旅行でタイとラオスに行ったきりになってしまったのだが、それでも学生の時に、特に東南アジアを放浪した経験は、バンドを続けていくことにも、自分の価値観を形成していくことにも決定的な出来事だった。
つづく
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