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バンドマンに憧れて 第18話 ハードコア信仰と就職放棄

レスザンTVを追っかけてるウチに私はハードコアパンクの虜になった。ハードコア、略してHC。音楽的には早めな2ビートに、歪んだ、しかし簡素なパワーコードの進行を反復させながら、ボーカルが主に不条理なことに対する怒りをシャウトする。もちろん叫ぶ内容は限定されないが、こういったパンクの一形態は、矛盾や綺麗事をあちこちに抱えた現代社会に対する個のアティチュードとしては崇高で男らしいものに感じられ、HCに魅せられた多くの若者と同様に私はHC信者になりつつあった。

権力や世間や常識などに抗い、常に弱者の視点に立ち、音楽活動面においてはメジャーを退け、誰の指図も受けずインディーで行動し、DIYを体現していく。社会に対しても自分に対しても、常に問いかけをやめぬストイックな姿勢。でありながら集団行動や世間が苦手なアウトローな輩でも馴染みやすいオープンな土壌がパンクやHCには存在していた。

一見強面のHCシーンだが、我々のような都会育ち文化系のボンボンが軟弱な音とルックスでHCをやっても文句など言われない。レスザンTVのようなユニークなハードコアのあり方を知って、私は自分でもハードコアパンクを演奏できるはずだと思っていた。HCの懐は深く優しかった。

私が松ちゃんと結成したGUTSPOSEというバンドは、そういった本来はエッジのきいた音楽であるHCを自分達流に解釈しながらヘッポコなパンクサウンドを作り続け、レスザンTV界隈の西荻HCシーンの先輩達によくしてもらいながら、オリジナルのカセットテープとCDRを自主製作して発表するまでにいたった。

私がやっていたサークル、インディーズ研究会のメンバーはしょっちゅうライブに顔を出してくれていたが、皆、GUTSPOSEのライブを「見ているこっちがハラハラする」と評し、私達の演奏の拙さにいつも注目していたが、一部ではその我々の演奏のショボさを本気で評価してくれる人もいた。忘れもしない、あのロマンポルシェの掟ポルシェさんにも、西荻のWATTSで「お前達、絶対上達しちゃダメだぞ」などと絶賛されるほどだったが、私は上達したくないわけではなかったので嬉しいやら悲しいやら。

また、この時期はバックパッカーくずれの海外旅行をしたり、鉄割アルバトロスケットという前衛パフォーマンス集団の周りをウロウロしたり、要するに有り余る時間があったので、私はGUTSPOSEにとどまらず他のバンドでドラムを叩いたり、先述の掟ポルシェ氏の相方であるロマン優光(プンクボイ)氏のバンドでベースを弾いたりもしていた。それは崇拝していたレスザン谷口さんが、3つも4つもバンドを掛け持ちでやってるのを見て、その自由さに影響を受けたからだった。バンドを1つに絞る必要などない、という考え方は私にはかなり新鮮で、いろいろやればやるほど楽しいじゃん、と思い込むようになっていた。

高校の時MTRの宅録からスタートした、私の弾き語りであるねろもこの時期に再開していた。なにしろGUTSPOSEのようなショボいHCバンドでこの先それを生業にしようとは、バカの私でも流石にそれは無理だろうと踏んでいた。だから弾き語りならもっとポップなだけの売れ筋の曲が作れるだろう、と軽率に信じ込んでいたのだ。それでまた10数曲入りのMD(MDが一瞬出回った時期に)をねろで作った。なかなかの自信作だったので早速プロモートしようと果敢にキャンパスの野外で演奏活動をしてみたのだが、これがてんでまともに演奏できない、歌えない。

宅録作品では何度も何度もやり直しながら作るし、多重録音で伴奏も重ねてるから曲としてましなカタチになっていたかもしれないが、実際ギターと歌だけで人前でやってみたらこれがまあ全くお粗末な仕上がりで、自分の、それまで疑問視していた歌唱力に対しても自信を失ったし、それ以降弾き語りはあまり積極的にやらなくなってしまった。

大学も3年の終わりが近づくと、周囲の学生が俄かに「就活」にソワソワし始めた。私がその頃最も毛嫌いしていた現象の1つであり、同じサークルの、サブカル好きの仲間たちまで就活し始めるのを見て私は失望していた。漫画とか音楽とか映画とか、とことん好きなモノがあるのに将来を不安視して手堅い道を選ぶのか、つまらねえな、と私はそんなことばかり考えていた。パンク、HCや海外旅行を経て、私は造反有理というか、とにかく世間や社会にツバ吐いたり背を向けたりして生きていくアウトサイダーこそが男の道だろう、くらいに思い詰めていた。

実家では母に「あんた就職どうするのよ?」と迫られ、私は大学に行くか行かないかで揉めた時と変わらず、バンドをやるから就職しないよ、と答え、母をホントに失望させた。この時は、普段登場しないオヤジがいよいよ出てきて、お前どういうつもりなんだ、と睨んだ。頑固な私に手を焼いた母がオヤジに陳情したのだろう。私は、卒業したらフリーターになってバンドを続ける固い決意を表明し、バカ真面目に自分が進むであろうインディーズというカテゴリーのことや、インディーズとメジャーの違いなどを熱を入れて語った。勿論、母も父も理解できず呆れていた。

両親は結局、私が何を言っても頑としているので、ある時期から、もう好きにしろ、と諦めた。その代わり、自分で生計を立ててやってくんだぞ、と念を押したが生意気な私は、そのつもりだよ、と憮然と返答し、しかし胸がカッカッと燃えるように熱くなっているのを感じていた。今思えば、母のその「もう好きにしろ」という啖呵が、私の背中を後押ししてくれたのだと思える。ありがとう、母ちゃん。

両親には見栄を張ったものの、私は実は心の奥底で不安だった。周りのみんなが就活に勤しんでいるのを、表面的には飄然とバカにしていたが、自分がミュージシャンとしてやっていけるのか、ハッキリ言って未知数過ぎて幾度も不安に陥った。しかし、家族に張った見栄が自分の拠り所となり、きっとどうにかなる、と思い込むようにしていた。

この頃、あの幻覚作用のあるマジックマッシュルームというのが流行っていて(非合法になる前で)、ある日友人とマジックマッシュルームでトリップしていた時、ギターが超絶うまかった友人の弾くビートルズのブラックバードを聞いて、突然号泣してしまったことがあった。私は突然自分が号泣してしまったので狼狽えたが、その時感じた悲しみというのが、「僕の尊敬するレスザンの人達のライブはいつも何であんなに人が入らないのだろう」という何とも様にならないものだった。余程心の奥底にこれからの人生に対する不安を秘めていたに違いない。

自分が憧れるようなパンクやハードコアでは売れないかもしれない。あんなにかっこいいのに、それでは食っていけないかもしれない…。

以前触れた通り、当時はインディーズというジャンル自体が隆盛を極めた時代で、ハイスタンダードをはじめ、多くのメロコア、スカコアバンドがメジャーデビューしていた。ただ、それ以外のパンクバンドでも、大好きだったブラッド・サースティー・ブッチャーズがメジャーからCDを出したり、尊敬していたイースタンユースなどが自主レーベルで人気を爆発させていたり、新しい流れが多少あったので私の心の救いは、そういう現象に絞り込まれていた。

元はレスザンからリリースしていたが、ギターウルフやDMBQのようにメジャーに進出したヘンテコなバンドも意外にあった。これは我々が当時憧れていたアメリカのHCやオルタナティブシーンでも同じ状況だったので、自分のやりたいようにバンドをやってメジャーになるのも不可能ではない、と信じることは荒唐無稽な話でもなかった。

若さというものは恐ろしいもので、私はそんな風にバンドで食っていけるのか心の奥で不安を抱えていたのに関わらず、自分は絶対ロックで食うようになるのだ、という相反する根拠の無い自信をも常に持ち続けていた。大学生最後の年が迫り、そして1990年代が終わろうとしていた。

つづく
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