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バンドマンに憧れて 第19話 大学卒業を目前に控えて

My gutspose!
Oh your gutspose!
Your gutspose!
Oh my gutspose!
Everybody wanna do it once a day!
Everybody wanna do it once again!

これは私が学生時代に全力を注いだバンド、GUTSPOSEのテーマソングである。オレのガッツポーズ、お前のガッツポーズ! 1日1回ガッツポーズ! いつかまたガッツポーズな! という極めて下らない詩を、ショボい稚拙なバンドサウンドに乗っけて私とクラッチが叫んでいる。

私はギターとコーラス担当で、ピンボーカルは松ちゃん。松ちゃんはいい声の持ち主で、ハードコアパンクへの熱情は私と同程度に持っていたが、私が作った曲にメロディを乗せるという段階ではなかなか音痴であった。また、ハードコアボーカルとして最も大切な、客を威嚇する度胸に欠けており、まず正面を向いて歌う、ということすら満足にできなかった。だから松ちゃんはいつもドラマーであるヤギの方に身体を捻ったり、または天井をエモーショナルに見つめて歌うという情けない有様であったが、私は「ショボいパンク」ということに誇りを抱いていたので大して文句を言った記憶もない。

私が所有していたMTRを使って録音して作ったCDRは「a cup of H/C...」と題した。これは一杯のコーヒーと一杯のハードコアをかけたジョークだ。音楽媒体ではハードコアを略してH/Cと表記することがあり、それをパロった訳である。内容は、私が当時入れ込んでいたSSTという米インディーレーベルの代表バンドであったBLACK FLAGやMINUTEMENの要素にその他オルタナティブロックやエモーショナルパンク、そして憧れていた日本のレーベル、レスザンTVの要素などをごちゃ混ぜにしたような楽曲が並んでいる。オリジナリティはあるが自分で聞きかえしてみてもなかなか酷い代物である。

その頃、西荻窪界隈にレスザンTVやfruityに憧れた同世代の小さなハードコアシーンが形成されつつあり、GUTSPOSEもその末席に加わっていた。私はそこでカクバリズムで大成功を収める(カクバリ)ワタル君や、絵描きとして活躍し、後年赤い疑惑のアー写撮影などをしてくれることとなる箕浦健太郎や、赤い疑惑のアートワークを手掛けてくれるようになる2x、カメマンなどとの出会いがあった。その界隈でGUTSPOSEは一定の評価を受けていたのだが、私はその時既にGUTSPOSEを解散させることを決意していた。

GUTSPOSEのメンバーで、ベーシストであったナリ君は固い企業に就職を決めており、ドラマーのヤギもまた就職を決めていた。ヤギは私のように、音楽でどうこうしようとか、バンドマンとしてこのまま活動する自信がない、ときっぱり言った。一方ナリ君は就職しながらでも続けたそうであったが冷酷な私は、ナリ君の希望を排し、就職を選ばなかった松ちゃんと新たにバンドを結成することを考えていた。そして記憶がはっきりしないがGUTSPOSEは私が大学を卒業する前に正式に解散した。前に進みたい私にバンド解散への未練は一切なかった。

大学生活も終盤を迎え、周囲が就活で大騒ぎしてるのをよそ目に、私は就職せずにフリーターになって本格的にバンド活動に専念する日々をワクワクしながら過ごした。そして就職しないで社会に出る、という他の連中と違う道を選択したことを華々しく自分に印象づけるために卒業直後の2000年4月から2ヶ月間東南アジア放浪の旅に出る計画を立てた。「好きにしろ」と言った両親はいよいよ私のバカな計画に呆れていたが、もう何も言わなかった。

この頃の私は自分の価値観以外のモノは認めない、というとんでもなく利己的で愚かなポリシーを持っていた。もともと天邪鬼で、王道なものやメジャーなものに対する反感の姿勢は高校の頃から培われており、家庭でも母や姉が見ているテレビ番組や音楽番組をけなしてみせたり、フリッパーズギターやオザケンを好む同年代の女子をバカにしてみせたり、ちょっとバックパッカーの真似事をしたからといって、当時流行っていた旅恋愛番組「あいのり」をこきおろし、こんなのはホントに旅じゃない、などと揶揄したりしていた。

そのように世間をディスる傾向は些細な事柄にも及び、私が追いかけていたインディーシーンのバンドに対しても善し悪しをハッキリさせなければ気が済まなかった。また就活している学生全員をバカにしてみせたり、ひねくれ方がこじれ始めていた。しかし、私がそのような過度な批判やディスを繰り返していたのは自分のやっていこうとしている、フリーターでバンドを頑張るという選択や、今現在やっているバンド、GUTSPOSEの不甲斐なさへの裏返しでしかなかったような気がする。私はその後も、もちろん今でもそのようなひねくれ気質を多少なり持っていると自覚しているが、社会に出る手前のこの時期が最も拗れていたように思う。

元々ジュンスカイウォーカーズに憧れて、ロックスターを夢見て始めたバンド人生であったが、気がつけばパンク、ハードコア、アンダーグラウンドなどとかなり偏った世界にハマってしまっていた。しかし、ハードコアに心酔しながらも私の中で小さな変化がこの頃から生じ始めてもいた。それは信頼しているレーベル買いなどでハズレを買う回数が増えたり、大好きなレスザンTVからのリリースでも全然ピンと来ないものがあったり、そのように盲目的に信奉し、ほとんど信仰していた価値観に懐疑を抱くような機会が増えてきたのである。

一旦、疑念が起き上がってくるとその傾向は止まらなくなる。私はパンクやハードコア、または広く全般的なロックのファンでありオタクであったのだが、それらの音楽のリズムのベースになっている8ビート、4ビート、2ビートという縦に刻めるリズムに飽き始めたのである。と同時に私が牽引したイン研のメンバーの影響でレゲエに興味を持ち始めるようになったのだ。レゲエといえばヒップホップと同じくらい自分とは違う人種のやってる音楽で全く良さが分からない、とそれまでの私は判断していたのであるが…

また、この頃の衝撃の出来事としてたまとの再会がある。何気なくチケットぴあをパラパラと見ていたら、私の音楽熱を小6の時に覚醒させた「さよなら人類」のあのたまが、地元の近隣である吉祥寺の曼荼羅という小さいライブハウスでライブをやっていることが分かって、メジャーからインディーに移って以降まったく追いかけてなかったたまというバンドに再度、私は急激に興味をそそられ、早速聴きに行ってみたのだ。

たまはインディーに移ってからもその音楽的魅力を変質させることなく、極めてマイペースに自分たちの音楽を続けていて、デビュー当時過度にクローズアップされていた外見的異様さも落ち着いた分、より歌のよさが前面に出ている印象を受けた。結果的に私はそこで観たたまのライブに大号泣してしまい、日本語で歌う歌の素晴らしさを再度認識することになる。

ずっと憧れて追いかけていたfruityは既に解散しschool jackets、your song is goodと名前を変え、スカパンクから変則ファストコア、エモコア、最終的にダンスバンドへと変貌を遂げていた。パンクに飽き始めていた私はそのような非パンク系音楽やポストロックなどに対する注意をより高めていくことになっていったが、それでも自分の核はハードコアパンクなのだ、という拘りを捨てきれずにいるのだった。
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