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バンドマンに憧れて 第20話 アジア貧乏旅行と新バンド結成

大学を卒業した2000年の4月に私は2ヶ月間のアジア貧乏旅行に出た。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を陸路で回った。この旅には裏テーマがあり、それはベトナムのサンドイッチとして有名なバインミーの研究をするというものだった。

というのも前回ベトナムを訪れた時にそのバインミーの美味しさに感動し、屋台でやっているバインミー屋さんの姿を見て、コレだ、これを日本でやったらウケるに違いない、と思い込み、将来の生業にできれば、と軽く考えていたからなのだ。そうなのだが、そういうテーマを決めておけば旅に出る説得力が演出されるんじゃないか、と思っていたのも事実で、私はその旅でバインミー屋台の実態を調査したのだが、その後実際に日本でバインミー屋台をやることはなかった。結局そこまでの情熱を注げなかったのだ。

しかし、2ヶ月間のアジア放浪は本当に楽しいものだった。自由な長期旅行に出ている間の、あのハイな気分というものは物凄い。あんなに刺激的な2ヶ月を私はそれ以降持っただろうか。一泊数百円の安宿を転々とし、長距離バスで国境を越える。いろんな国のバックパッカー達と触れ合い、地元の人たちとも密に触れ合ったりすることもできた。騙されたり、スリにあったり、お腹を壊し続けたり。またウィードカルチャーを知ったのもこの時で、私はこのカルチャーにも大きな影響を受けてしまった。

旅の間、当時ハマっていたウェディング・プレゼントというイギリスのバンドの疾走感溢れるナンバーを旅のBGMにして、これからやってくる私の第2の人生のことをワクワク想像しながらいろんなことを考えていた。世界はとてつもなく広くて、自分の存在は何てちっぽけなんだろう、と陳腐な感慨に満たされながらも、前向きに生きてけば必ず明るい未来が待っている、という妙な全能感にも襲われたりしていた。お前はそのままでいいんだよ、というスタンスをウィードに教わったのも私の心を癒してくれた。そして存分に旅を楽しみながらも、早く日本に帰って本気のバンドを始めてやるんだ、というある種の焦燥感にも駆られていたのだ。

さて、2ヶ月のアジア放浪旅行から戻ると、私は早速実家を出る手筈を整えた。実は大学在学中、相棒の松ちゃんより密に親睦を深めていたシマケンという同級生がいて、私は彼と一緒に共同生活をすることにしたのだ。私とシマケンは、ハードコアパンクスの先輩がたむろし、私が最もお世話になっていた街、西荻窪に2間のアパートを借りることになった。

私はベトナムサンドイッチ屋さんのことは金ができた未来にお預けとし、とりあえずはアルバイト生活に突入。学生時代からバイト経験のあった飲食業界で仕事を探した。飲食業界に的を絞っていたのは料理が好きだったから、という理由の他に、美味いモノを作って目の前のお客さんに食べてもらってお金をもらう、というシンプル極まりない商売の仕組みに正義を見出していたからである。

バンドマンがバイトを探すにあたり重要なのは、スタジオに入る時間とライブに出演するための時間の確保ができるかどうかである。つまるところ平日の夜と土日が休みであることが理想で、そうなってくると一般的なサラリーマンの労働形態とさして変わらない。ここで問題なのが、飲食業界では夜と土日が掻き入れ時であるということだ。

私はフロムAやら求人誌とにらめっこをしながら、平日夜と土日が休みの特殊な労働形態の飲食バイトがないか探した。すると、この条件に敵うものが一応あるのである。会社や工場の社食や、土日休みのオフィス街にある飲食店のランチバイトなどだ。私は洒落た料理を覚えたかったこともありオフィス街の料理屋に的を絞った。すぐに青山二丁目にある創作料理屋のランチバイトが決まった。

この洒落た飲食店で私の後から鳴り物入りで料理長として入ってきたYくん、という人物が凄かった。彼はいわゆる横浜のお洒落な不良だった。ヤンキーというよりはギャングスタという感じで、クラブ遊びに喧嘩に女。サッカーが大好きらしく胸にプーマと5枚葉の墨が入っていた。私がそれまで付き合ったり仲良くしてきた文化系の連中とは全く違う世界の住人、という感じだったので初めは戸惑ったが、Y君も私のキャラを面白がってくれて、すぐに仲良くなってしまった。

私は彼に連れられて慣れない合コンや、所謂ナンパクラブである桜木町のガスパニックなんかにも行った。Y君やその仲間たちのクラブでの立ち居振る舞い、そしてナンパの仕方は見事だった。クラブ内、通りすがりのねえちゃんのオッパイやお尻を触りながら冗談を言って歩く。私はアウトサイダーに憧れていた時期だったので自分もナンパの1つくらい、と思っていたのだが、彼らのフランク極まりないやり方に衝撃を受け尻込みしてしまい、ほぼ誰にも声をかけられないまま時間を持て余すしかなかった。ガスパニックに集うセクシーなチャンネエ達の本命は米軍のプレイボーイで、そこに地元の日本人の不良どもが紛れ込んでアメ公に負けじとナンパを仕掛けてるように見えた。だから私のような文化系もやしっ子が勇気を出して声かけてみても一瞥もされなかった。私はすっかり消沈してしまった。

結局Y君のクラブ遊びについていったのは2回ほどで身の程を知って、それからはたまにオフの時に遊んだ程度なのだが、彼はギャングスタだったからウィードが好きで、それで私は日本にもウィードカルチャーが歴然と存在してることを知ってどっぷり浸かるようになってしまった。

西荻の共同生活は楽しく、極めて楽観的なバイブスの持ち主だったシマケンと楽しく暮らしていた。gutsposeを解散させた私は松ちゃんと始めるバンドのドラムに、この楽器素人のシマケンを抜擢することにした。なにしろ私の好きで聞いてる音楽をそっくり真似して聞いていたし、何しろ仲がよかったのだから自然の成り行きである。初心者でなんぼ、音痴でなんぼのパンク精神を共に肯定していた松ちゃんも異論は挟まなかった。

しかし問題は松ちゃんがもうボーカルは懲りた、と言い出し、オレはベースやりたい、とダダを捏ね始めたことだ。松ちゃんは声がいいのでボーカル向きだと思っていたが、個人の意志を尊重してベースを握ってもらい、私はギターを。すると当然ボーカルは誰がやる?ということになり、仕方なく私がやることにした。いや、正直に言えば私はボーカルをやりたかったのかもしれないが、自分は音痴だし声もシケてるし、という劣等感が私の中で大きかったのだ。そんな風に思っていたのだが、心の奥底の欲求が、この状況を理由にボーカルにトライするのを後押ししたのかもしれない。

どうせ自分が歌うなら日本語で誰も歌わないような歌を歌おう、と思った。当時のインディーパンクシーンでスタンダードになっていた英詞ブームに対する反発もあって日本語で勝負すべき、と強く思っていた。そしてみんながビックリするような、そんな歌を作ろう。

私のそうした熱意とは裏腹に新たに結成したその3ピースバンドは、学生時代にある程度カタチを残したgutspose以上に無残な演奏だった。何しろ、松ちゃんは初めてベースを握り、シマケンは初めてスティックを握ったのだ。そしてその2人ともがリズム感を持っていなかったのだ。それでも私は自分が優れた演奏者でない事も自覚していたし、何より初心者が思いつきでバンドを始めちゃう、というパンクマインドをやはり重視したくて、また、演奏技術よりもフィーリングの合う仲間とバンドをやることが重要だと考えていたので、無茶苦茶な演奏のスタジオ練習をただただ積み重ね、繰り返していた。ベースのフレーズもドラムのフレーズも私が考えてそれをコピーしてもらった。あの時の我々にはまだそんなバカバカしいことに費やす時間が溢れていたのだ。

つづく
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