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バンドマンに憧れて 第23話 赤い疑惑の成り立ち

大学卒業後、天狗なる新たなバンドを結成し、空回りを始めて約1年が過ぎようとしていた頃事件が起きた。

その頃、私は大学からの友人だった女性に恋し始めていた。卒業後に急に仲良くなって、彼女は私とシマケンが住んでた家によく遊びに来るようになり、自然と3人で楽しく遊んでいた。ある日、私の不在時に彼女がウチに遊びに来ていたのに気づいた私はその時初めて異変を感じた。鈍感といえばそれまでだが、いつの間にか彼女とシマケンは出来ていたのだった…。

彼女に対する私の気持ちをシマケンには伝えていたはずなので、この展開は私には腑に落ちなかった。「手を出すな」なんてワイルドなことをシマケンに対して忠告した訳ではないし、そんな柄でもないので、2人が相思相愛になったからといって文句を言うのは筋違いというか、みっともないので、私は素早く諦めることにした。が、とはいえ、「実はそういう展開になっている」、または直接的に「オレ、彼女のこと好きになっちゃった」とかそういった類の挨拶がシマケンから事前になかったことだけがショックでショックでショックだった。

その問題が発覚してから私はシマケンに対して、絶交とは言わないまでも強い不信感を抱くようになってしまい、もう流石に一緒にバンドはやれない、という決断を下すにいたった。シマケンはシマケンで、クビにされたショックを隠しきれない様子だったが、私の意志伝達がきっぱりしていたから納得せざるを得なかった。

そしてシマケンとの同居生活はそれを機に破綻し、私は同じ西荻窪に風呂なしの6畳間を借りることとなり、シマケンは彼女を連れて沖縄に行ってしまった。余談になるが、後年シマケンと私は仲直りし、過ぎた過去を笑い、あの時は悪かった、とお互い反省して握手をした。そして彼女との付き合いが遊びではなく、遂には結婚して所帯を持つに至った時、彼の、彼女の人生のストーリーを素直に祝福することができた。彼は沖縄の陶芸工房で8年くらい修行して今では立派な職人になり、彼女の実家の群馬の田舎に登り窯を作った。

さて、6畳風呂なしのアパートで新たなバンド生活を始めた私だが、天狗のドラムが抜けてしまったので代わりの人間を見つけなければいけなかった。そこでイン研の後輩でドラムを覚え始めていたシュウちゃんにしばらく叩いてもらうことになった。

そんなある日、我が家でいつも通り松ちゃんとフワフワダラダラしていた時だ。ケーブルテレビにファミリー劇場という、古い昭和のバラエティーやドラマなどのみを専門に流すチャンネルがあるのだが、私は気に入ってそのチャンネルをしょっちゅう垂れ流しで見ていた。その時も同様にファミリー劇場を見るでもなくつけっぱなしにしていたのだが、その時画面に大きく「赤い疑惑」という文字が浮かび上がった。その言葉の語感のインパクトに私はび~んときて、コレだ、これをバンド名にしよう!と興奮して言った。松ちゃんも同様にピンときてたらしくお互いにニヤリと笑った。

天狗というバンド名にどこか違和感を抱いていたのだろう。その日から天狗は赤い疑惑と改名した。バンド名は日本語で、できればハードコア的なニュアンスを含むものにしたいと、常より思っていたのでこの名前はビンゴだった。そして私はシマケンとの気まずい一件を、何とか笑い話に昇華しようと思い、後付けで赤い疑惑というバンド名の由来にしたら面白いだろう、などと下らない妄想を楽しんでいた。

赤い疑惑という名前を掲げて我々は下手くそなりに出来上がっていった曲を自分のMTRで録音し、カセットテープの作品を作った。そしてもうオーディションなどという健気な努力をすることなどせず、gutspose時代に培ったパンク系のバンド人脈を頼ったりして地味にライブ活動を続けていたが、手伝ってくれていた後輩のシュウちゃんは就職するためにバンドを抜けることになってしまった。

振り出しに戻った私と松ちゃんはドラマー不在の穴をどうしたもんかと思いあぐねた。外部にメン募を出すという発想は、我々には違和感があった。飽くまでも「友達とバンドをやる」ということに拘っていたのだろう。そして1人の仲間に白羽の矢を立てた。

彼は沓沢といい、私と同い年で、イン研のメンバーだった。サークルに入る前から同じ英米文学科だったのでよく見かけていた。変わり者らしく髪の毛の一部を緑のメッシュで設えていたり、ジーパンにポップな柄の布を貼りつけて独創性をアッピールしていたり、目につく輩だった。その彼が私とは違う中大付属校の出身で、付属あがりの変わり者が集まっていたイン研に入ってきたのだった。

私もその頃は酒屋の前掛けでエキセントリックなバックを作ったりし、独創的なファッションに力を入れていたので彼のそういった部分に同情的だったが、学生のうちは特別に仲良く遊んだりしたという訳でもなかった。ただ彼も音楽が好きで、我々が足繁く通っていたインディーシーンのライブについてきたり、gutsposeのライブにしょっちゅう来てくれたり、とにかく近いところにずっと居た友人だった。

彼は当時、the boomおよび宮沢和史に心酔していて、それを聞いた時私はいつもの癖で、ダサい趣味をしているな、と軽くバカにしたりしていたし、彼はなおかつ私や松ちゃんのようにパンクに対して特別な思い入れを寄せていた訳ではないので、まさかその後一緒に音楽をやることになるとは思ってもいなかった。

彼はイン研の中でもその面倒くさがりな性格から、本人が望んでいたかは分からないが次第にダメキャラを定着させていき、メンバーからそのダメさを面白がられ確固たるダメポジションを築いていた。その最たるものが休学で、彼は自分探しをする、というような建前で大学を半年間休学したのだが、そんなことをしたって何も変わりはしないだろう、と周りは騒然と彼のその言動をなじったり、話しのネタにしたりしていた。私も当時作っていたフリーペーパーに休学する彼へのインタビューなんかをしてからかっていた。休学をした彼は特別重要な発見や進路開拓をした様子もなく大学に戻ってきてみんなを安心させ笑わせてくれた。

私が現役で大学を卒業し、松ちゃんは1年留年して卒業した。しかし沓沢はダメ大学生の本懐とばかりに2年目の留年に突入していた。そして2人目のドラマーが去り、困っていた私と松ちゃんは、溜まり場になっていた私の家に、留年学生の気楽さから毎度フラフラ遊びにきていた沓沢に白羽の矢を立てたのだった。その時点では彼のダメキャラに注目していたのだ。憧れのレスザンTVの先輩達がクズやカスがやるパンクというスタンスを標榜していたのに準じて、このダメな男をドラマーにしてしまおう、とその時は半ばいい加減に声をかけたのだ。

また、我々がレゲエにハマっていたのと呼応して、というよりむしろ私よりもかなり彼はレゲエに夢中になっているようだったので、その辺のセンスに期待したのかもしれない。ところが、当の本人は微妙な反応をしめした。バンドをやりたくない、という訳ではなく彼はどうせやるならベースがいい、と生意気にも拘りをみせてきた。レゲエのベースのかっこよさに心酔しているようだった。私は何度も、そんなこと言わねーでやってくれよ、と頼み続け、半ば嫌々スティックを握ってもらった。何しろ彼は暇だったから。

もちろん彼にバンド経験などなく、ドラムも正真正銘の初心者だったのだが、どういう才能なのか、最初にスタジオに入った時からなかなかキレのあるドラムを叩くのだった。シマケンやしゅうちゃんより明らかに筋がある。我々は、あのダメの沓沢がこんなドラミングを、と目を白黒させた。

我々が驚いて絶賛するのと、彼自身も意外とスムーズに叩けるのが分かったのとで沓沢は割りとすぐにドラマーとして加入する意志を固めていった。ドラムを叩く面白み、バンドでセッションする面白みにエキサイトしたに違いない。スタジオを重ねる毎に彼のドラミングは安定感を醸し、ローファイパンクを自認していた私や松ちゃんの演奏は、恥ずかしながら、むしろ初心者の彼に引っ張られるような感じになっていた。現在に至る赤い疑惑はこんな風にして産声をあげたのである。

つづく
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