バンドマンに憧れて 第25話 東京サバンナ
アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーの3人で、赤い疑惑として遂に初の音源を作ることになった。作品のタイトルは「東京サバンナ」。あなたのそばで~、あゝ暮らせるならば~、つらくはないわ~、この東京さばく~、は「東京砂漠」、こちとら「東京サバンナ」。大学を出て、バンドマンとして成功することを夢見、アルバイト生活を始めた私にとっての東京はまさに戦場だった。
そう感じていたのも東南アジアを放浪した経験があったからだろうか。あっちの世界と比べると東京シティーはあまりにも殺伐として写るのである。アルバイトの通勤時、スーツで身を固めた憂鬱気なサラリーマンで溢れ返る満員電車の中で、私は戦慄しなければならなかった。何てところで私は生活しているのだろう、と。何でみんなこんなに同じ格好をし、何て生気のない眼をしているのだろう。
当時の私の闘いは、そういう風に死んだような眼になりたくないし、みんなと同じになりたくないし、そうならないためには夢に向かって突き進み、東京での生活を楽しく勝ち取ることだと信じていた。そしてそのフィールドが東京であり、油断大敵、自己責任、弱肉強食のその都市の様相はまるでアフリカのサバンナのようではないか、と東京を喩えた。
熱くなってしまったが…、内容はかなりふざけていて、その表題曲「東京サバンナ」の他に、パンクが何で商業主義的になってるんだ、と怒っている曲や、バンドをやってるとバカにされることがあることを愚痴っている曲や、毎日仕事行って疲れて何もせず寝てしまう自分を叱咤する曲や、母校の大学にあったヒルトップという学食をモチーフにした単純に元気な曲などが、「東京サバンナ」という一つの作品にヤケクソに収められることになった。
音楽性は元々好きだったハードコアパンクに、レゲエ映画「ロッカーズ」に出てくるナイヤビンギの真似事や、丁度その頃から夢中になりつつあったアフリカ音楽のゴスペルの真似事や、ジャーマンプログレの真似事みたいなことを強引に一緒にしたような仕上がりで、混沌としている。その頃から私は雑多な要素をミクスチャーすることに意識的だったようである。
歌詞も私が随分とひねくれたモノの見方をしていたのがにじみ出ている。自分が大好きだった90年代後半の日本のインディーパンクシーンで、日本語で攻めてるバンドは驚くほど少なかった(英詩を無理してつけてるのが普通だった)ので手本がなく、腐心した記憶がある。歌詞をどんな風にのせればいいのかよく分からなかったが、その頃後追いで知った80年代のinuとかスターリンなどのハードコアパンクに衝撃を受けて、自分にしては過激な言葉を使っていたようである。ちなみに当時の日本語で歌っていた現役パンクバンドの中で、圧倒的な存在感を放ち私が影響を受けたのはfOULとブッチャーズであった。
さて、作品のファーストインプレッションとして重要なジャケットである。これは大学のサークル、イン研の友人で、出版社に就職し、まさに当時出版界のスタンダードになろうとしていたillustratorやphotoshopなどのデザインソフトを覚えたてだったホウヤにお願いすることになった。彼も私もクイックジャパンなどに代表されるサブカルチャーが大好きだったので、どれだけインパクトのあるヤバいジャケットを作るかという観点で盛り上がり、意見がまとまった。出来上がったのは私とクラッチ、ブレーキーのそれぞれ何の飾り毛もない、むしろアウトテイクっぽいヘボい写真を寄せ集め、同じく寄せ集めた画像素材でコンクリートジャングル風の町並みと対照的な青空を配し、タイトルを東京銘菓風の(実際は岩手銘菓かもめの玉子のフォントをパクった)ロゴで仕上げた。子供の頃から変な行動をとって注目を集めたり、周囲と違う行動をとることが本能的だった私にとって、如何に個性的なセンスのジャケットを世に送るか、ということにかなりの思い入れがあり、出来上がった時には非常に満足した。
印刷屋からジャケットが届くとパソコンで焼いたCDRをセットする作業が始まる。3人で封入作業を始めるとブレーキーが俄かに「ちょっと待ってよ。手袋しないと。」と言って手袋を取り出した。私とクラッチは、感覚的に手袋なんかしないでいいだろう、と思ってたので衝撃を受けた。結局その手袋案は初日だけで、作業を進めるうちにブレーキーは妥協して素手で封入することに突っ込まなくなった。
出来上がったCDRを都内のインディー系レコードショップに持ち込み、委託販売を頼んだ。委託というのは、店側が売れた枚数分だけ販売手数料を引いて依頼主に売上げを支払う仕組みのことで、お店側は大した負担にならないので大抵は受け入れてもらえるのである。大体初めは試しに5枚で、というパターンが多く、売れそうだと思われれば10枚預かってもらえた。ただ、お店にもこだわりがあるので直感的にこれは違う、と店主が判断すれば断られることもある。私はパンク系を取り扱うCD屋をメインで狙ったので断られることはほとんどなかったが、当時インディー専門店として名を轟かせていた今は無き下北のハイラインレコーズには断られた。洒落た要素を微塵も感じさせない「東京サバンナ」のジャケットを見てドン引きしたのかもしれないが、私は憮然とした。何がインディー専門だ、笑わせるな、と愚痴った。その頃の私は卑近な、バンド界隈やインディー界隈のことばかりにしか関心がなく、何かにつけて文句を垂れたりしていたのだ。
さて、店舗での「東京サバンナ」の売れ行きはどうであったか…。大概作品を作ってお店に卸したら、あまたあるその他のインディー作品群の中に埋もれて1、2枚だけ売れて終わる、というパターンがほとんどである。その場合お店は取り扱い点数が多過ぎるのと、販売手数料も大して取れないのとで、わざわざ依頼主に売上げの報告などしてくれない。精算をしたかったらお店に連絡して売上げを聞き、もし売れてたら請求書と領収書を用意してまたお店に出向かなければならない。これがなかなか面倒くさい。「東京サバンナ」は500円で販売したので、お店で売れた場合は大抵7掛けで1枚350円の利益なので1枚、2枚の売上げを精算しに行くと電車代だけで消えてしまうようなものである。
私は「東京サバンナ」以降、プレスしたCDを作ってく過程でも自主製作を続けたので、東京に限らず地方のインディーショップにも発送して卸して、という作業を健気にやっていくことになるのだが、売上げを回収できることの方が少なかった。それでも、全く縁もゆかりもない地で自分たちの作品が他人に届くことは尊いことだと思って続けた。多くのインディーアーティスト達はそんな想いでプロモーションを兼ねて委託販売をお願いし続けていることだろう。
これも後年、自主系の音源やzineを取り扱うお店の店主に聞いた話しだが、委託で預かっている商品の売上げに関して全部依頼主から請求が来たら店が潰れるよ、とのことである。だから自主製作、自費出版系のグッズを取り扱うお店がある事自体有難いことのようにも思える。依頼主側の利益が微々たるものであるように販売側の利益も大きなものではないだろうから。
脱線したが、赤い疑惑の処女作である「東京サバンナ」であるが、実際は売れなかった訳ではなかった。というのもライブでの手売りというのがあって、これが堅調にジワジワと売れていた。500円という廉価であることもあったかもしれないが、我々のふざけたパンクセンスを面白がってくれる主に同世代の若者達がそれなりに反応してくれていた。
また、パンクのCD・レコードの専門販売で有名な高円寺のBASEという店では委託で預けた「東京サバンナ」が売れ続けたのである。委託品がスムーズに売り切れた場合はお店側から連絡がくるのである。「売り切れましたよ」という報告を初めて聞いた時の興奮は忘れ難いものだ。スタッフによる「四畳半のミニットメン」というキャッチコピーがハマったらしい。ミニットメンというのは当時私が最も好きだったアメリカのファンキーなパンクバンドである。その形容には感激したが、(実際は六畳の風呂なしなんだがなぁ)と思っていた。しかし四畳半という方が叙情的な感じがするのでそこは方便である。とにかく、それ以降BASEでは10枚単位で作品を卸すことができ、トータル10回以上のバックオーダーが入ったのだ。そんなこんなで、印刷屋に出した1000枚のジャケットがなんやかんやでなくなってしまった。
まだCDの売上げが低迷する前の時代である。インディーで3000枚売れれば大したもんだ、とも言われていた時代である。作品がとにもかくにもそのように売れたことは私にジワジワと、自分はバンドマンとして歩み始めたんだ、という自信と希望を与えてくれたことは確かであった。
つづく
そう感じていたのも東南アジアを放浪した経験があったからだろうか。あっちの世界と比べると東京シティーはあまりにも殺伐として写るのである。アルバイトの通勤時、スーツで身を固めた憂鬱気なサラリーマンで溢れ返る満員電車の中で、私は戦慄しなければならなかった。何てところで私は生活しているのだろう、と。何でみんなこんなに同じ格好をし、何て生気のない眼をしているのだろう。
当時の私の闘いは、そういう風に死んだような眼になりたくないし、みんなと同じになりたくないし、そうならないためには夢に向かって突き進み、東京での生活を楽しく勝ち取ることだと信じていた。そしてそのフィールドが東京であり、油断大敵、自己責任、弱肉強食のその都市の様相はまるでアフリカのサバンナのようではないか、と東京を喩えた。
熱くなってしまったが…、内容はかなりふざけていて、その表題曲「東京サバンナ」の他に、パンクが何で商業主義的になってるんだ、と怒っている曲や、バンドをやってるとバカにされることがあることを愚痴っている曲や、毎日仕事行って疲れて何もせず寝てしまう自分を叱咤する曲や、母校の大学にあったヒルトップという学食をモチーフにした単純に元気な曲などが、「東京サバンナ」という一つの作品にヤケクソに収められることになった。
音楽性は元々好きだったハードコアパンクに、レゲエ映画「ロッカーズ」に出てくるナイヤビンギの真似事や、丁度その頃から夢中になりつつあったアフリカ音楽のゴスペルの真似事や、ジャーマンプログレの真似事みたいなことを強引に一緒にしたような仕上がりで、混沌としている。その頃から私は雑多な要素をミクスチャーすることに意識的だったようである。
歌詞も私が随分とひねくれたモノの見方をしていたのがにじみ出ている。自分が大好きだった90年代後半の日本のインディーパンクシーンで、日本語で攻めてるバンドは驚くほど少なかった(英詩を無理してつけてるのが普通だった)ので手本がなく、腐心した記憶がある。歌詞をどんな風にのせればいいのかよく分からなかったが、その頃後追いで知った80年代のinuとかスターリンなどのハードコアパンクに衝撃を受けて、自分にしては過激な言葉を使っていたようである。ちなみに当時の日本語で歌っていた現役パンクバンドの中で、圧倒的な存在感を放ち私が影響を受けたのはfOULとブッチャーズであった。
さて、作品のファーストインプレッションとして重要なジャケットである。これは大学のサークル、イン研の友人で、出版社に就職し、まさに当時出版界のスタンダードになろうとしていたillustratorやphotoshopなどのデザインソフトを覚えたてだったホウヤにお願いすることになった。彼も私もクイックジャパンなどに代表されるサブカルチャーが大好きだったので、どれだけインパクトのあるヤバいジャケットを作るかという観点で盛り上がり、意見がまとまった。出来上がったのは私とクラッチ、ブレーキーのそれぞれ何の飾り毛もない、むしろアウトテイクっぽいヘボい写真を寄せ集め、同じく寄せ集めた画像素材でコンクリートジャングル風の町並みと対照的な青空を配し、タイトルを東京銘菓風の(実際は岩手銘菓かもめの玉子のフォントをパクった)ロゴで仕上げた。子供の頃から変な行動をとって注目を集めたり、周囲と違う行動をとることが本能的だった私にとって、如何に個性的なセンスのジャケットを世に送るか、ということにかなりの思い入れがあり、出来上がった時には非常に満足した。
印刷屋からジャケットが届くとパソコンで焼いたCDRをセットする作業が始まる。3人で封入作業を始めるとブレーキーが俄かに「ちょっと待ってよ。手袋しないと。」と言って手袋を取り出した。私とクラッチは、感覚的に手袋なんかしないでいいだろう、と思ってたので衝撃を受けた。結局その手袋案は初日だけで、作業を進めるうちにブレーキーは妥協して素手で封入することに突っ込まなくなった。
出来上がったCDRを都内のインディー系レコードショップに持ち込み、委託販売を頼んだ。委託というのは、店側が売れた枚数分だけ販売手数料を引いて依頼主に売上げを支払う仕組みのことで、お店側は大した負担にならないので大抵は受け入れてもらえるのである。大体初めは試しに5枚で、というパターンが多く、売れそうだと思われれば10枚預かってもらえた。ただ、お店にもこだわりがあるので直感的にこれは違う、と店主が判断すれば断られることもある。私はパンク系を取り扱うCD屋をメインで狙ったので断られることはほとんどなかったが、当時インディー専門店として名を轟かせていた今は無き下北のハイラインレコーズには断られた。洒落た要素を微塵も感じさせない「東京サバンナ」のジャケットを見てドン引きしたのかもしれないが、私は憮然とした。何がインディー専門だ、笑わせるな、と愚痴った。その頃の私は卑近な、バンド界隈やインディー界隈のことばかりにしか関心がなく、何かにつけて文句を垂れたりしていたのだ。
さて、店舗での「東京サバンナ」の売れ行きはどうであったか…。大概作品を作ってお店に卸したら、あまたあるその他のインディー作品群の中に埋もれて1、2枚だけ売れて終わる、というパターンがほとんどである。その場合お店は取り扱い点数が多過ぎるのと、販売手数料も大して取れないのとで、わざわざ依頼主に売上げの報告などしてくれない。精算をしたかったらお店に連絡して売上げを聞き、もし売れてたら請求書と領収書を用意してまたお店に出向かなければならない。これがなかなか面倒くさい。「東京サバンナ」は500円で販売したので、お店で売れた場合は大抵7掛けで1枚350円の利益なので1枚、2枚の売上げを精算しに行くと電車代だけで消えてしまうようなものである。
私は「東京サバンナ」以降、プレスしたCDを作ってく過程でも自主製作を続けたので、東京に限らず地方のインディーショップにも発送して卸して、という作業を健気にやっていくことになるのだが、売上げを回収できることの方が少なかった。それでも、全く縁もゆかりもない地で自分たちの作品が他人に届くことは尊いことだと思って続けた。多くのインディーアーティスト達はそんな想いでプロモーションを兼ねて委託販売をお願いし続けていることだろう。
これも後年、自主系の音源やzineを取り扱うお店の店主に聞いた話しだが、委託で預かっている商品の売上げに関して全部依頼主から請求が来たら店が潰れるよ、とのことである。だから自主製作、自費出版系のグッズを取り扱うお店がある事自体有難いことのようにも思える。依頼主側の利益が微々たるものであるように販売側の利益も大きなものではないだろうから。
脱線したが、赤い疑惑の処女作である「東京サバンナ」であるが、実際は売れなかった訳ではなかった。というのもライブでの手売りというのがあって、これが堅調にジワジワと売れていた。500円という廉価であることもあったかもしれないが、我々のふざけたパンクセンスを面白がってくれる主に同世代の若者達がそれなりに反応してくれていた。
また、パンクのCD・レコードの専門販売で有名な高円寺のBASEという店では委託で預けた「東京サバンナ」が売れ続けたのである。委託品がスムーズに売り切れた場合はお店側から連絡がくるのである。「売り切れましたよ」という報告を初めて聞いた時の興奮は忘れ難いものだ。スタッフによる「四畳半のミニットメン」というキャッチコピーがハマったらしい。ミニットメンというのは当時私が最も好きだったアメリカのファンキーなパンクバンドである。その形容には感激したが、(実際は六畳の風呂なしなんだがなぁ)と思っていた。しかし四畳半という方が叙情的な感じがするのでそこは方便である。とにかく、それ以降BASEでは10枚単位で作品を卸すことができ、トータル10回以上のバックオーダーが入ったのだ。そんなこんなで、印刷屋に出した1000枚のジャケットがなんやかんやでなくなってしまった。
まだCDの売上げが低迷する前の時代である。インディーで3000枚売れれば大したもんだ、とも言われていた時代である。作品がとにもかくにもそのように売れたことは私にジワジワと、自分はバンドマンとして歩み始めたんだ、という自信と希望を与えてくれたことは確かであった。
つづく
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