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バンドマンに憧れて 第29話 アクセル飲酒運転で骨折

赤い疑惑が「東京サバンナ」をリリースした当時、数少ない友達バンドとして親交を深めていたのがWE ARE(後にWE ARE!と名前を改める)というバンドだった。彼らのライブを武蔵境のSTATTOというライブハウスで観た時、ボーカルの周平はminutemenという私が最も好きだったUSHCのバンドTシャツを着ていた。当時交流のあった同世代のHC系バンドの中でも、minutemenの話で盛り上がれるバンドは他にほとんどいなかった。

彼らのライブは完成度も高く、また彼らにしか出せないであろう抒情的な雰囲気もあって私は気に入ってすぐに話しかけたのだ。話してみると彼らは東村山の高校の同級生で結成されていて、私の地元田無とも近く、育った環境が近かったこと、またレスザンTVやSSTなど音楽の趣味も、また映画や文学の趣味なんかも近くてすぐに仲良くなった。

WE AREの楽曲は日本語の文学的薫りを多分に孕んで、またメロディーもキャッチーだったので、私も周りの連中も彼らはブッチャーズのようなビッグなバンドになるんじゃないか、という期待と羨望の眼差しを向けていた(実際数年後ブッチャーズの吉村さんにひどく気に入られたのだ)。WE AREとは数カ所のライブハウスやスタジオで共同企画イベントをやったり、後年discharming manのエビナさんの企画で、一緒に北海道にツアーに行ったりもした。当時圧倒的な文学センスとグルーヴセンスでイースタン・ユースにフックアップされて人気を博していたfOULというバンドに心酔していた点も赤い疑惑とWE AREは共通していた。

その頃まで仲良くしていたHC界隈のバンドでWE AREのように、曲調は捻っていても日本語詞で勝負してるバンドは他になかったので、私は周平はきっと売れたい願望があるのだろうと思い、同士をみつけたという気持ちで1度腹を割って話してみようと渋谷のマックでサシで話をした。

私はストレートに「WE AREは売れたくないの?」と聞いたのだ。これはパンクスの間で「売れたい」ということを表明するのはダサいことだ、という共通認識があったため、私はあまり表に「売れたい」ということを漏らしてこなかったが、彼なら分かってもらえるんじゃないか、と思って聞いたのだ。すると周平はきっぱり「いや、そういうのはないですね…」と迷いなくそう答えるので私は調子が狂った。何故みんな商業的成功を目標にしないのか…。

私は期待していた答えが導き出せず困惑したが、周平とはそれ以降そういう野暮な話しはしたことがなく、WE AREとも以降音楽スタイルの変遷もあり、少しずつ距離ができていった(WE AREのベーシストOJとはその後深い付き合いになるのだが…)。

その頃、対バンで知り合ったバンドでドブロクという、これも日本語詞ロック(恐らく英語で歌うインディーズバンドが多かった当時の状況から生まれた言葉だろう。当時サンボマスターというバンドがその形容で爆発的人気を得てメジャーになった)のバンドがいた。彼らはパンクHC界隈とは無縁だったこともあり、いい曲作って売れたい、という欲望が見え隠れしていたし、むしろ、それはバンドマンにとって真っ当な姿にも見えて、頑張ってる姿が健気で素敵にみえたし、人懐こい連中だった。

そのドブロクが赤い疑惑のこと、そして私たちのパーソナリティーのことをエラく気に入ってくれて、以降何度かライブに誘ってくれた。そして、そういう流れで一緒に関西ツアーに行こう、というお誘いをもらうにいたった。我々はアメリカのパンクやインディーシーンの影響を強く受けてたので、バンドの成功には必ずツアーが欠かせないと思っていたが、ツテがなくてそれまでツアーとは無縁だったのだ。

しかし、このツアーの直前に事件が起きた。いや、正確に言うと事件ではなく、事故。いや事故というよりただの自爆なのだ…。

ツアーを数週間前にしたとある日、私は当時付き合ってた彼女を誘って大井町に原付きで出かけた。大井町に変な酒屋があって、そこでは店頭で酒が飲めて、面白い雰囲気なんだ、と私は彼女に説明していた。私はそういう店を角打ちというのだと、当時は知らなかった。

そもそも酒を飲みに原付きで繰り出してるという時点で大バカ者であるが、私と彼女はその店でビールを飲み、そこに屯する酩酊オヤジ達と楽しく語らった。

もともと酒が飲めるクチではないから、飲んだといってもビール1、2本だったはずで、時刻は夕刻、私と彼女はまた原付きにまたがって途中で別れた。確か彼女は松陰神社前の自宅に帰ったか用事があったかで別々の道だった。別れる時彼女が、眠そうにして運転してる私に「ちょっと、しっかり運転してよ!」と言ってたのを覚えている。

私は酒が弱いだけでなく、ちょっと飲んだだけで眠くなってしまうのであるが、そういうことを理性的に判断せずにその日は飲酒運転で環七を北上していた。案の定、睡魔に襲われていた。コンビニでもどこでも停車して休めばいいものの、私は運転を続けた。次の瞬間、ふと眼を開けると三車線1番左レーンを走っていた私の目の前に、路肩寄せで紺のワゴン車が停まっていた。認識した時既に遅く、突撃しそうになるのを何とかかわそうとハンドルを右に切ったがバランスを取ろうとしたと思われる左足のスネをしたたかにワゴン車の右後方部角にぶつけてしまった…。

ゴンッ、と鈍い音がしたのと同時に左足の激痛を感じて私は原付きを左の路肩の方に寄せて停めた。ハンパじゃない痛みに全身をよじらせながらも、私は車に人が乗っているかどうかを確認したが誰も乗っていなかった。そして自分のスネを強打したであろう車体の右後方部を軽く確認し、目立ったキズがないことが分かるとすぐさま原付きに跨り、その場を去った。社会的自覚というものがほとんどなかった私は事故をなかったことにしなければならなかった。

西荻の自宅まで帰る道すがら激痛はなかなか治らなかった。家に戻って改めて患部を見ると早くも大きく膨れ上がっていた。しかし、それでも一応歩けるのだから骨は折れてない、ただの打撲だろうと思いこませた。病院嫌いの萌芽をみせていたこの時期、私は「病院に行くほどじゃない」と思い込む必要があった。

2日、3日と経っても、腫れは治らず、強打したスネ部分を中心に、膝から下が全体的に膨れているように見えて妙な気分になった。しかし歩けるのでバイトに通い続けたが4日、5日と経るウチに今度は晴れ上がった部位が内出血で赤紫色になり始め、その色はどんどん足の甲の方へ広がっていった。そして遂に歩くと膝の下から足の甲にかけて、チャポチャポと皮下が蠕動するように感じられるようになり、さすがに怖くなってきた。

ちょうどそのタイミングで赤い疑惑のスタジオがあり、夏だったので短パンでスタジオに行くと、クラッチとブレーキーが私の足の異変に気付いて、
「ちょっと、それヤバくない?今すぐ病院行った方がいいよ」
どちらからともなくそう言うのだ。私は言われた途端に不安が爆発したような気持ちになって、
「やっぱ、コレヤバいよね?だよね…」
練習は中止。すぐさまタクシーで、救急に駆け込んだ。対応してくれた女医は私の足を見て、決まり文句のように、何でもっと早く病院に来なかったんですか、と言った。そして、レントゲンを撮って、
「スネを複雑骨折していて、そのキズが内出血になり、血が止まらずにスネから下に血の膿が足の甲にかけて流れていって溜まってしまってます。少し遅ければ壊疽していたかもしれません。」
と叱りつけるように私に言った。
「でも今から手術して血の膿を管から吸い上げれば大丈夫ですから…」

壊疽?壊疽って足が腐って切断しなきゃいけないヤツでは…?一瞬気が遠くなりそうだったが、もしスタジオ練習の予定がなく、もう何日か放っておいたら私は足をなくしてしまっていたのかもしれない…。すぐに病院に行けと言ってくれたメンバーに感謝してもしきれぬ気持ちと、何とも間抜けな自分に呆れる気持ちで頭がクラクラした。

それから私は1週間ほど入院しなければならず、楽しみにしていた関西ツアーは出演キャンセルせざるを得なくなった。更に入院費用が払えず、強がって独立をアピールしていた親に借金しなければならなくなった。もちろん、飲酒運転して怪我した経緯は伏せて、病院や親や保険屋には、運転ミスでスネを電柱にぶつけた供述をしたりしなければならず、なんとも不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。

ちなみにこの顛末の中で作ったのが「バカに塗り薬」という初期の名曲である(自分で言うな)。自分のバカさ加減に辟易し、親に対して潰れた面目と、鬱屈した気持ちを2ビートのハードコア風な曲調にぶち込んだ。ちなみに居眠り運転で事故ったのはこの時が最後ではないのだが…。その辺のことはまた後記に譲りたいと思う。
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