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バンドマンに憧れて 第30話 アクセルのヘルニア奇譚

10年以上も前の記憶を辿りながらバンドマンに憧れた我が身を時系列に振り返っていたつもりでも、記憶は曖昧なもので、書き損じたトピックを後から後から思い出すものだから大変だ。

前回書いたバイクの事故をやらかす少し前に私に襲いかかった重大なアクシデントがもう一つあった。それは椎間板ヘルニアである。背骨を支えるクッションであるゼリー状の随核が何らかの事情で飛び出してしまい、それが神経の通り道に触れることで腰に激痛が生じたり、座骨神経痛や足の痺れなどが伴ったりする病気である。

大学卒業後、アルバイト生活に入る時に私が選んだ仕事は調理のバイトだった。キッチンの仕事というのは今考えるとかなりハードで、小さな店だろうが意外と縦社会の序列が厳しい世界だった。私は縦社会がことのほか苦手で、そのせいで1つの店であまり長続きせず職場を転々としていたのである。

第20話で書いた創作ダイニングのお店で働いていた時、事件は起きた。一斗缶といって業務用の油や醤油が18リットルほど入る薄い金属でできた缶に穴をこじ開け、漏斗を使って普段使い用に1.5Lのペットボトルに移し替える業務がある。いつも中腰の体勢でその作業にあたっていて、その時も同じように腰から体を折り曲げて、非力なため、身体をプルプル震わせながら踏ん張っていたら、腰がピキッとなって妙な痛みが走った。

ギックリ腰というヤツだろうか、とその時はまだ大したことない腰痛かと思っていたが、腰の痛みと違和感は治らず、病院に行ったらMRIを撮るという。MRIというのは身体を断面で透写する、大仰でお金もかかる検査なのだが、その結果私は「椎間板ヘルニアですね」と宣告されたのだ。

椎間板ヘルニアといえば、小学校の担任だった広瀬先生が手術した病気だ、とすぐに思い当たった私は、宣告を受けて、まるでガンの宣告を受けたかのように目の前が真っ暗になった。その頃は広瀬先生の他にヘルニアになった体験を聞いたことがなく、背椎の手術を伴う大変な病気だと思い込んでいたためだ(私は小学校の級友と広瀬先生のお見舞いに行って、相当な苦痛を耐える先生を見たことでそう印象づけられたらしい)。

ヘルニアを宣告した病院では、特に有効な治療法はないので痛み止めを出します、もっと酷くなったら手術です、と全く便りのないアドバイスしか貰えない。私の場合左足の痺れと足から腰にかけての痛みが常に伴う症状で、痛み止めを朝飲むと夕方くらいまで痛みが治まるので、それでなんとかランチのキッチンバイトをこなしていた。

しかし、私は憂鬱だった。ずっとこの、身体に悪そうな痛み止めを、これからずっと飲み続けないといけないのか、はたまた、私はもう2度と元気に野を走り回ったり、快活に運動したりはしゃいだりできない身体になってしまったのか…。そもそもあの重いギターを肩から下げて歌う。ロックスターに不可欠なその行為を続けられるのか…。

諦めのつかない私は、その頃根づきつつあったインターネットでヘルニアについて調べまくり、胃腸虚弱をきっかけに出会った東洋医療、および代替医療に救いを求めた。そして針、整体、といろんな治療院にあたってみたが、即応的手ごたえはなく、いかんせんそのような代替系治療には保険が適用されないためやたら高額で、手当たり次第という訳にもいかないのだった。

そんな中、知り合いの伝手にカリスマ整体師がいるという情報を入手し、私は護国寺のとあるマンションに向かっていた。1回診てもらうだけで2万取る、というので相当な覚悟が必要であったが、これでヘルニアが治るなら、と藁にもすがるつもりになっていた。ちょっと変わった先生だけど…、という不明瞭な前評判だけを頼りに門を叩いた。

なんてことない小さな間取りの一室で少し待たされた後呼ばれ、緊張しながら治療室に入ると突然、
「貴様!何しにここに来たっ!」
腹の底からの怒号に私は一瞬で凍りついた。強張る口唇を動かして、椎間板ヘルニアになってしまい云々と、漸く伝えると、
「この親不孝ものめ!!」
と、さらに大声で罵られ、私の意識は異次元に飛ばされてしまった。そしてその後も、音楽をやってるだと! とか、私のバックグラウンドを簡単に掻い摘んでは非情なまでに私を叱り飛ばした。彼は自分がどういう経緯でこの治療院を開業するに至ったか、艱難辛苦を乗り越えたやたら壮大なストーリー仕立てで語り始め、知り合いのミュージシャンが音楽を志したが故にどんな惨めな境遇に陥ったかなど、よく分からない脈絡で語り、時に大声を上げて私を圧倒するのだった。

先生は白いランニングから粒々の筋骨を覗かせ、口の周りには勇猛なヒゲを蓄えている。すぐに大声を張り上げるその様と言葉遣いとは、見方によってはカタギの人間には見えなかった。

ある程度の説教が終わると
「そこに寝てみろ!」
とまた怒鳴られて私はうつ伏せになった。そして私の下肢を何やら触っていたかと思うと
「これだな!」
とまた大声をあげ、ふくらはぎ辺りのツボのような部位をかなりの力で抑えるので私は悲鳴をあげた。そして、
「治ったぞ…」
と真面目な顔で言うのである…。私は半信半疑で治ったのかな、と思い、とりあえずお金を渡した。もう先生は大きな声も出さない。もういい、帰れ、と言うのである。

圧倒されっぱなしのまま私は鉄扉を開けて外に出た。そしてマンションの階段をフラフラと降りていく内にオロオロと涙が出てきて、遂にはヒイヒイと泣き崩れてしまった。そんなことは生まれて初めてだし、訳が分からない。先生の説教に感心した訳ではなかったが、「親不孝ものめ」というパンチラインだけは強く私の心を揺すぶっていた。

私は大学を卒業してから今までやりたいように楽しくやっていたつもりだが、親に反抗姿勢でバンド生活に突入したことに少なからず負い目を感じていたに違いない。何一つ不自由なくいい大学まで行って…、という世間からの見えない視線を気にしてなかった訳ではなかった。

「この親不孝ものめ!」私はマンションの階段を降りながら、涙を流して母や父のことを思った。このままでよいのだろうか…。後で考えるとその時の私は完全に催眠療法にかかっていた気がする…。

その日の午後、私はメンバーと会う予定になっていて、話さないと喉がつっかえたようでダメなので、ブレーキーに包み隠さず今日の出来事を伝えると、如何にも怪訝そうな顔をしながら、それで…、治ったの?腰は? と言うのである。問題はそこである。治療院にいた時はもう圧倒されて痛みの検証をする余裕もなく、出て来てからもあんまり痛みを感じていなかったのだが、ブレーキーと話している時は先生が強押ししたふくらはぎの裏のツボのような箇所の痛みとともに、またいつもの腰と左足の違和感が出て来てるように感じていた。私は「う〜ん」と首をかしげるのが精一杯だった。

結局、椎間板ヘルニアは治ってなかった。翌日からまたいつも通りの違和感と痛みが戻っていた。私は、あれは新手の詐欺施術師だ、と判断して、おっかなかったけど、すぐに治療院に電話をかけて治ってない旨を伝えた。
「それで何が言いたいんだオマエ?金を返して欲しいのか?」
と悪びれずに言うので、ハイ!、とはっきり言った。すると、取りに来いよ、と言うので私はまたぞろ護国寺まで行き、丁寧に2万円まるまる返してもらった。

アレは何だったのか、ハッキリとは未だに分からないが、極悪系自己啓発治療院だったのではないだろうか。精神的な不均衡が膝や関節の痛みとなって現れることもあるそうだから、あの極道先生の説教で催眠と共に身体が治るような人も世の中にはあるかもしれない…。

その後私はネットでみつけた大井町のカイロプラクティックにて、1発で劇的な痛みの軽減を体験し、その先生と相性が良かったのか、初めの1月は毎週、2ヶ月めからは月に1回5000円程の出費を忍んで通い、1、2年で通わなくても平気なところまで回復した。

カイロの先生曰く、私の腰痛は姿勢が原因。言われてみれば私は大学生の時に爆笑問題の太田が好きで、あのニヒリズムと一緒にあの猫背姿勢を敢えて真似ようとしていた経緯があった。その猫背が腰の負担をジワジワと高めていたに違いない。私はそのように反省し、以降できるだけ猫背にならぬよう努め、胸を張って生きていくんだ、とポジティブにこの腰痛体験を消化し、ヨガやストレッチで筋肉を緩める気持ち良さ、そして腰に負担のかからない身体の使い方を体得し、現在まで何とかやっている。
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