バンドマンに憧れて 第31話 ラップへの挑戦のち男泣き
(第29話の続き…)
原付の居眠り運転で左脚を複雑骨折。左脚の膝下から足の甲にかけて内出血が溜まってしまい、その膿の摘出の為入院。初の地方遠征断念を余儀なくされた。そんな私に襲いかかった自己嫌悪も束の間、1週間といえど入院生活をするにはまだまだエネルギーを持て余していたその頃の私は、暇つぶしも兼ねて、A4のコピー用紙にリリックを書き始めた。バンドでラップをやってみようと決意したのだ。
それまで友人などとフリースタイルラップの真似事でふざけていたことはあったが、ちゃんとラップの曲を作ったことはなかった。しかし当時、インディーロックシーンでラップを取り入れるバンドはほとんどいなかったので、目立ちたがりの私は、(これは画期的なアイディアではないか)、とひとり興奮していた。
ハードコアパンクからレゲエへと触手を伸ばした頃、同じく友人からの影響でヒップホップに関心を持ち始めたことを以前書いたが、この頃はハードコアパンクのイベントによくECDが出ていた。私はスチャダラパーでラップを知り、MSCと降神で日本語ラップにハマったクチだったが、その時はECDが如何に偉大な、孤高のアーティストであるのか、まだ何にも知らない状態だった。しかし、Less Than TV周辺のハードコアパンクのファンが集うライブハウスを、サンプラーを叩きMCと、時にはアバンギャルドなsaxの演奏を織り交ぜ、illshit tsuboiさんのアクロバティックなDJプレイとでやんやと盛り上げる姿に私は衝撃を受けた。
当時西荻に住んでいたこともあって今はなきWATTSというライブハウスにしょっちゅうライブを観に行っていたが、ECDはそこでも何度かハードコアのイベントに出ていた。外に遊びに行って来まーす、というアニメかなんかのセリフをサンプリングした曲がポップでヒップホップの面白さを改めて体験した。
そんなある日、WATTSでライブに出ていたECDに、思い切って持ち合わせのデモCD-R「東京サバンナ」を渡した。気さくな石田さんは私の突然の押し売りに応えて、それをもらってくださった。
後日、当時カクバリズムを立ち上げたばかりだった同世代の(角張)ワタルくんが、「赤い疑惑凄いじゃん、ECDのBBSで褒められてたよ」、と聞き捨てならないことを教えてくれた。BBSとは当時ネット空間で繁盛していた匿名の掲示板のことで、ECDは自身のBBSを持っていて、そこで赤い疑惑の「東京サバンナ」について、面白い、と取り上げてくれていたのだ。
何とも光栄なことだった。このハプニングは赤い疑惑の名前を当時のインディーシーンに広めるのに十分な威力を発揮した。赤い疑惑が個性的なパンクバンドとしてようやく一部の人に知られるようになった。
東京サバンナの反響がある程度感じられるようになり、私は次の作品をそろそろ作るべきだと考えていた。そしてその作品の主題にふさわしい曲はどんなものがいいかな、とぼんやり考えていた。そんな折りに私は原付で事故ったのである。
病院のベッドの上で、足が治ったらまた存分に頑張るぞ、と意気込み、私は曲名を思いついた。タイトルは東京フリーターブリーダー。これは当時勤めていた中井の染色屋さんの名誉社長のことをモデルにして名付けた造語で、フリーターを無条件に応援してくれるその社長の豪放なキャラに触発されたものである。
バンドマンを目指すフリーターという身の上は、想像通り社会での風当たりが悪く、特に親戚関係からの目線や、バイトの面接などで幾度も屈辱的な思いをした。ところがその染色屋のばあちゃんは職場のフリーター達を凄く可愛がっていて、事務職という仕事柄、最もそのばあちゃんの世間話やら無駄話やらの相手をする立場にあった私は、その愛情をたっぷり受けた。ぽっちゃりと太って、そのせいなのかどうか聞いたことはなかったが、右脚を悪くしていて、歩くときは右手に杖を持ち、重心を傾けて歩くその社長のことが私はとても好きだった。如何にも下町の娘らしいチャキチャキとした語り口で、大口を開けてギャッハッハと笑う姿があっぱれだった。
世代的なものもあるのか、週刊誌の右派論調に乗っかって、「北朝鮮に1発ぶちかましゃあいいのよ!」 なんて、戦後復興からバブルまでを知ってる人らしく気炎を上げたりすることもあり、それは社長、どうなんだろう、などと私は思ったりすることもあった。が、総じて私はそのばあちゃんに好感を抱いていた。名誉社長というのは、実質の職務を取り仕切っていたのが息子のヒロシさんで、社長の役目はいつも遅くに来て応接室の机にデーンと座り、たまの来客と、また世間話したりするくらいのことだったからだ。
さて、私は病床にて、夢を持ってフリーターで頑張る、自分を含む若者達にエールを送るラップを書こうと頭を悩ませた。結果的には相対論を用いてサラリーマンを揶揄する内容になったが、批判的になり過ぎないように全面的にジョークを盛り込んだ。フリーター役を自分が、そしてそれを腐す社会人役をクラッチのパートに割り振り、押し問答形式にして、更にポップにするためにサビで東京フリーターブリーダーという造語をリフレインさせた。フリーターを飼育、または擁護し、応援してくれるビッグボスというくらいの意味である。
退院後、出来上がったリリックを自慢げにクラッチに見せると、おっ、という感じのいい反応を示し、ブレーキーも興味を示したのでバンドでラップを取り入れることは即採用になった。
しかし退院したとはいえしばらく松葉杖生活でバイトにも行けず、風呂なしのアパートで静養していた自分の精神状態は決して平穏ではなく鬱屈していたらしい。家賃と生活費を払ってギリギリのバイト生活はちょっと油断すると茫漠たる不安の波に飲み込まれるのだ。
その日、私は動くに動けず家で何となくテレビを見ていた。当時付き合っていた彼女が夕方来てくれることになっていたが、私はホントに何の気なしに「ビーチボーイズ」というヒットドラマの再放送を見ていた。ひねくれ者の私にしてみれば、どちらかというとバカにする対象のトレンディドラマで、その時もバカにしながら観ていたに違いない。
反町ってイケメンなのに何か笑える、とか何とかそんなことを考えながら見ていたら、悔しいよな、ガキの頃ってさ、大人になったら何でもできるって思ってたじゃん、だけど大人になったオレたち今どうよ?、と正確には覚えてないがそんなニュアンスのセリフを反町が竹野内豊に呟くのだ。その何気ない、しかもよくありそうな陳腐なセリフが、私のその時の情けない状況とリンクしてしまい、私は過剰に動揺して泣いてしまった。
悔しかったのだ。バンドで何とか生きていってみせると親に啖呵を切って実家を飛び出したのに、居眠り運転で事故って早速親に入院費を世話してもらい、ツアーにも行けず、どんと来いと思っていた貧乏生活にも不安を覚え…。
丁度その直後、彼女が家にやってきた。部屋にふと現れた彼女を前に、私は涙が出てきたのを隠すのも所在なく、隠すのを諦めて、ビーチボーイズ見てたら泣いちゃって、と照れながら彼女に伝えようとした瞬間、その言葉は途中から嗚咽に変わってしまい、私はオイオイと声を上げて泣き崩れてしまった。
彼女は私が酷く深刻な状態にあって泣き出してしまったのをすぐに察知して、何も言わずに、いいんだよ、泣きな泣きな、と言って私を抱きしめた。私はそれで拍車がかかってかつてないほど男泣きに泣いた。そして女性の母性というものを初めて知った気がした。ひとしきり泣いた後は不思議なことに、いつにない晴れやかな心が戻ってきていた。
原付の居眠り運転で左脚を複雑骨折。左脚の膝下から足の甲にかけて内出血が溜まってしまい、その膿の摘出の為入院。初の地方遠征断念を余儀なくされた。そんな私に襲いかかった自己嫌悪も束の間、1週間といえど入院生活をするにはまだまだエネルギーを持て余していたその頃の私は、暇つぶしも兼ねて、A4のコピー用紙にリリックを書き始めた。バンドでラップをやってみようと決意したのだ。
それまで友人などとフリースタイルラップの真似事でふざけていたことはあったが、ちゃんとラップの曲を作ったことはなかった。しかし当時、インディーロックシーンでラップを取り入れるバンドはほとんどいなかったので、目立ちたがりの私は、(これは画期的なアイディアではないか)、とひとり興奮していた。
ハードコアパンクからレゲエへと触手を伸ばした頃、同じく友人からの影響でヒップホップに関心を持ち始めたことを以前書いたが、この頃はハードコアパンクのイベントによくECDが出ていた。私はスチャダラパーでラップを知り、MSCと降神で日本語ラップにハマったクチだったが、その時はECDが如何に偉大な、孤高のアーティストであるのか、まだ何にも知らない状態だった。しかし、Less Than TV周辺のハードコアパンクのファンが集うライブハウスを、サンプラーを叩きMCと、時にはアバンギャルドなsaxの演奏を織り交ぜ、illshit tsuboiさんのアクロバティックなDJプレイとでやんやと盛り上げる姿に私は衝撃を受けた。
当時西荻に住んでいたこともあって今はなきWATTSというライブハウスにしょっちゅうライブを観に行っていたが、ECDはそこでも何度かハードコアのイベントに出ていた。外に遊びに行って来まーす、というアニメかなんかのセリフをサンプリングした曲がポップでヒップホップの面白さを改めて体験した。
そんなある日、WATTSでライブに出ていたECDに、思い切って持ち合わせのデモCD-R「東京サバンナ」を渡した。気さくな石田さんは私の突然の押し売りに応えて、それをもらってくださった。
後日、当時カクバリズムを立ち上げたばかりだった同世代の(角張)ワタルくんが、「赤い疑惑凄いじゃん、ECDのBBSで褒められてたよ」、と聞き捨てならないことを教えてくれた。BBSとは当時ネット空間で繁盛していた匿名の掲示板のことで、ECDは自身のBBSを持っていて、そこで赤い疑惑の「東京サバンナ」について、面白い、と取り上げてくれていたのだ。
何とも光栄なことだった。このハプニングは赤い疑惑の名前を当時のインディーシーンに広めるのに十分な威力を発揮した。赤い疑惑が個性的なパンクバンドとしてようやく一部の人に知られるようになった。
東京サバンナの反響がある程度感じられるようになり、私は次の作品をそろそろ作るべきだと考えていた。そしてその作品の主題にふさわしい曲はどんなものがいいかな、とぼんやり考えていた。そんな折りに私は原付で事故ったのである。
病院のベッドの上で、足が治ったらまた存分に頑張るぞ、と意気込み、私は曲名を思いついた。タイトルは東京フリーターブリーダー。これは当時勤めていた中井の染色屋さんの名誉社長のことをモデルにして名付けた造語で、フリーターを無条件に応援してくれるその社長の豪放なキャラに触発されたものである。
バンドマンを目指すフリーターという身の上は、想像通り社会での風当たりが悪く、特に親戚関係からの目線や、バイトの面接などで幾度も屈辱的な思いをした。ところがその染色屋のばあちゃんは職場のフリーター達を凄く可愛がっていて、事務職という仕事柄、最もそのばあちゃんの世間話やら無駄話やらの相手をする立場にあった私は、その愛情をたっぷり受けた。ぽっちゃりと太って、そのせいなのかどうか聞いたことはなかったが、右脚を悪くしていて、歩くときは右手に杖を持ち、重心を傾けて歩くその社長のことが私はとても好きだった。如何にも下町の娘らしいチャキチャキとした語り口で、大口を開けてギャッハッハと笑う姿があっぱれだった。
世代的なものもあるのか、週刊誌の右派論調に乗っかって、「北朝鮮に1発ぶちかましゃあいいのよ!」 なんて、戦後復興からバブルまでを知ってる人らしく気炎を上げたりすることもあり、それは社長、どうなんだろう、などと私は思ったりすることもあった。が、総じて私はそのばあちゃんに好感を抱いていた。名誉社長というのは、実質の職務を取り仕切っていたのが息子のヒロシさんで、社長の役目はいつも遅くに来て応接室の机にデーンと座り、たまの来客と、また世間話したりするくらいのことだったからだ。
さて、私は病床にて、夢を持ってフリーターで頑張る、自分を含む若者達にエールを送るラップを書こうと頭を悩ませた。結果的には相対論を用いてサラリーマンを揶揄する内容になったが、批判的になり過ぎないように全面的にジョークを盛り込んだ。フリーター役を自分が、そしてそれを腐す社会人役をクラッチのパートに割り振り、押し問答形式にして、更にポップにするためにサビで東京フリーターブリーダーという造語をリフレインさせた。フリーターを飼育、または擁護し、応援してくれるビッグボスというくらいの意味である。
退院後、出来上がったリリックを自慢げにクラッチに見せると、おっ、という感じのいい反応を示し、ブレーキーも興味を示したのでバンドでラップを取り入れることは即採用になった。
しかし退院したとはいえしばらく松葉杖生活でバイトにも行けず、風呂なしのアパートで静養していた自分の精神状態は決して平穏ではなく鬱屈していたらしい。家賃と生活費を払ってギリギリのバイト生活はちょっと油断すると茫漠たる不安の波に飲み込まれるのだ。
その日、私は動くに動けず家で何となくテレビを見ていた。当時付き合っていた彼女が夕方来てくれることになっていたが、私はホントに何の気なしに「ビーチボーイズ」というヒットドラマの再放送を見ていた。ひねくれ者の私にしてみれば、どちらかというとバカにする対象のトレンディドラマで、その時もバカにしながら観ていたに違いない。
反町ってイケメンなのに何か笑える、とか何とかそんなことを考えながら見ていたら、悔しいよな、ガキの頃ってさ、大人になったら何でもできるって思ってたじゃん、だけど大人になったオレたち今どうよ?、と正確には覚えてないがそんなニュアンスのセリフを反町が竹野内豊に呟くのだ。その何気ない、しかもよくありそうな陳腐なセリフが、私のその時の情けない状況とリンクしてしまい、私は過剰に動揺して泣いてしまった。
悔しかったのだ。バンドで何とか生きていってみせると親に啖呵を切って実家を飛び出したのに、居眠り運転で事故って早速親に入院費を世話してもらい、ツアーにも行けず、どんと来いと思っていた貧乏生活にも不安を覚え…。
丁度その直後、彼女が家にやってきた。部屋にふと現れた彼女を前に、私は涙が出てきたのを隠すのも所在なく、隠すのを諦めて、ビーチボーイズ見てたら泣いちゃって、と照れながら彼女に伝えようとした瞬間、その言葉は途中から嗚咽に変わってしまい、私はオイオイと声を上げて泣き崩れてしまった。
彼女は私が酷く深刻な状態にあって泣き出してしまったのをすぐに察知して、何も言わずに、いいんだよ、泣きな泣きな、と言って私を抱きしめた。私はそれで拍車がかかってかつてないほど男泣きに泣いた。そして女性の母性というものを初めて知った気がした。ひとしきり泣いた後は不思議なことに、いつにない晴れやかな心が戻ってきていた。
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