バンドマンに憧れて 第34話 ハードコア出身の肩書き
26話で当時の音楽的趣味の大きな変遷があったことを綴った。それまでずっと崇めてきたハードコアパンクという音楽自体に次第に飽き始め、ヒップホップやレゲエ、ワールドミュージックを聴き始めるようになった時期のことである。
私は極端な性分なのか、飽きたと思ったら、時々思い出して聴きたくなる、ということもなく、事実上その頃からハードコアパンクはおろかロックやオルタナの類までほとんど聴かなくなってしまった。それでもその頃唯一平行してハマってたロックがニールヤング&クレジーホースで、それはジム・ジャームッシュが撮った『イヤー・オブ・ザ・ホース』という半ドキュメンタリー映画があまりにも面白かったからだ。
私はその映画を何度も観ながらクラッチ、ブレーキーと「同じメンバーでバンドを長く続けること」の美学を確認しあい、身体に染み込ませていった。その美学は、身近なところでは、尊敬していたレスザンTVの人たちが、年齢を気にせずにスカムな音楽や、およそ落ち着きのない音楽をやりたい放題やり続けているのを横目で見ていたことにも影響されていた。いつかオッサンになっても、いつかジジイになっても、たとえ売れても売れてなくても、とにかく長く続けていこう。そういう美学を我々3人は共有していくことになった。
さて、バンドを長く続けるのはいいが、ハードコアパンクに飽き始めた頃の私にはいろいろな問題があった。それらはいずれも今振り返ればすべて取るに足らないことだが、当時の私には1つ1つが悩ましい問題だった。
まず、その頃のライブの半数くらいは馴染みのハードコアパンク界隈のライブで、ということはライブに声をかけてもらうのは嬉しいが、対バンを見るのがシンドい、という問題があった。ハードコアパンク系のライブで、異ジャンルの音は交えずにハードコアならハードコアだけを集める傾向があったのは不思議なことじゃない。その頃は他のジャンルでも同じ音楽性のアーティストが集まるイベントの方が普通だったと思う。以前書いたようにECDやサ上とロ吉のようにパンク界隈のイベントに積極的に出るヒップホップアーティストもいたが、そんなエキサイティングなイベント(2010年頃からは異ジャンルアーティストが集うイベントの方が一般的になった)はまだラディカルな存在だったと思う。
という訳で赤い疑惑は「東京フリーターブリーダー」リリース以降いろんなタイプのイベントに声をかけられるようになったが、そのうち半分くらいを占めていたハードコアまたはパンク系のライブではほとんど「対バンを見ない」という高飛車な態度にならざるを得なかった。これは私に限らず、クラッチもブレーキーもである。
では、ハードコアやパンク系以外のイベントだとどうだったかというと、これは実はパンク系より酷くて、一応リハの時に音の感じを聴いたりして判断していたが、非パンク系で面白いと思えるバンドがほとんどいなかったため、結局対バンの演奏を見ない、という厚顔な判断を下していた。
また、そんな風に周囲のバンドやシーンに馴染めないでいるところに、「自分達はハードコア出身だから(ナメんなよ)」というプライドが頭をもたげていて、私たちは浮いていた(に違いない)。対バンの人とのコミュニケーションでも舐められないように、と思っていたし、自分は曲者であるぜ、ということを仄めかすような態度だったと思う。
ハードコアという音楽には歴然とした思想があり、「オレたちはそういう思想をベースに活動してるんだよ」という信念が私とクラッチの間には暗黙の約束事のようにあった。ちなみにブレーキーはパンクにもハードコアにも特別な思い入れがあった訳ではないので、我々のハードコアへの拘りは理解に苦しんでいる様子だった。どちらかというと「オレはレゲエのリディムを叩きたい」というようなことを漏らしていて私をイラつかせた(私もレゲエの曲を演りたいがどうやって作ればいいのかその時はわからなかった)。
またもう一つの些細な問題は、ハードコアパンクとは、音楽的にはかけ離れたラップやレゲエなどを導入することは、ハードコア界隈パンク界隈の諸先輩方並びに馴染みのバンドから非難の的とならないだろうか、という懸念であった。何という下らない思い込みに私は縛られていたのだろうか。結果的にジャンルを横断した曲調を披露したところで赤い疑惑が界隈の人に青い眼で見られることはなかった。ただの杞憂だったのである。
音楽的な好みとしてパンクやハードコアを聞かなくなったのに、自分たちがそういう音楽を作って演奏して楽しい訳がない。赤い疑惑結成当初は、よりハードコアパンク出身であることを強調しようとしていたが、音楽的趣味の変遷によってそういった拘りに齟齬が生じてきてしまったのだ。その葛藤の中で生まれたのが「東京フリーターブリーダー」で、このアルバムのリリースで、先にも書いたように我々の活動範囲は劇的に広がった。それまでハードコアやパンクの界隈の人達を中心に面白がられていただけだったのが、もう少し幅広い層のお客さんに評価してもらえるようになっていった。
その頃抱えてたハードコア由来の悩みがもう一つあった。それは、売れたいかどうか、という問題であった。
ハードコアパンクはDIYじゃないとあり得ない。だから商業的成功というのはハードコアパンクと対極的なものなのである。私はジュンスカイウォーカーズを見てバンドマンになりたい、と目覚めた訳で、その時出来上がった私の将来のビジョンはバンドマン、ロックスターであり、それを仕事に生きていることだったのである。
それが、いつの間にかパンクにハマり、ハードコアにハマり、インディーズやアンダーグラウンドの美学に開眼してしまった。それでいて「将来は売れてるだろう」という根拠のないビジョンが同居していくのである。コアでいて人気がある、そういう都合のよいイメージの中に赤い疑惑は活路を見ようとしていた。
しかし、仲良くしていたパンク、ハードコア系のバンドや先輩たちからは、私のように「もっと売れたい」という俗っ気がほとんど感じられなかったし、実際そうだったのだと思うが、そういう空気の中で私は「売れたい」という欲望から逃れられないことを後ろめたく思ったりしていた。だから杞憂であるのにその頃の私はハードコアパンクの呪縛に囚われているかのように錯覚していたのかもしれない。
今振り返ると、そんな風にハードコア出身であることにこだわっていたことが懐かしくも可笑しくも思えるが、音楽の趣味なんて押し付けられるものではないし、感覚的なもので、ジャンルそのものに飽きてしまったら、その時にときめく音楽に純粋にアプローチすればよいと思う。「東京フリーターブリーダー」リリース以降は、ではどうすればレゲエやワールドミュージックの要素を3ピースのロックバンド形態に落とし込めるだろうか、という試行錯誤の繰り返しとなった。ただ、ハードコアの思想的な部分はそれから現在に至るまで私の芯にこびりついているような気がするのである。
私は極端な性分なのか、飽きたと思ったら、時々思い出して聴きたくなる、ということもなく、事実上その頃からハードコアパンクはおろかロックやオルタナの類までほとんど聴かなくなってしまった。それでもその頃唯一平行してハマってたロックがニールヤング&クレジーホースで、それはジム・ジャームッシュが撮った『イヤー・オブ・ザ・ホース』という半ドキュメンタリー映画があまりにも面白かったからだ。
私はその映画を何度も観ながらクラッチ、ブレーキーと「同じメンバーでバンドを長く続けること」の美学を確認しあい、身体に染み込ませていった。その美学は、身近なところでは、尊敬していたレスザンTVの人たちが、年齢を気にせずにスカムな音楽や、およそ落ち着きのない音楽をやりたい放題やり続けているのを横目で見ていたことにも影響されていた。いつかオッサンになっても、いつかジジイになっても、たとえ売れても売れてなくても、とにかく長く続けていこう。そういう美学を我々3人は共有していくことになった。
さて、バンドを長く続けるのはいいが、ハードコアパンクに飽き始めた頃の私にはいろいろな問題があった。それらはいずれも今振り返ればすべて取るに足らないことだが、当時の私には1つ1つが悩ましい問題だった。
まず、その頃のライブの半数くらいは馴染みのハードコアパンク界隈のライブで、ということはライブに声をかけてもらうのは嬉しいが、対バンを見るのがシンドい、という問題があった。ハードコアパンク系のライブで、異ジャンルの音は交えずにハードコアならハードコアだけを集める傾向があったのは不思議なことじゃない。その頃は他のジャンルでも同じ音楽性のアーティストが集まるイベントの方が普通だったと思う。以前書いたようにECDやサ上とロ吉のようにパンク界隈のイベントに積極的に出るヒップホップアーティストもいたが、そんなエキサイティングなイベント(2010年頃からは異ジャンルアーティストが集うイベントの方が一般的になった)はまだラディカルな存在だったと思う。
という訳で赤い疑惑は「東京フリーターブリーダー」リリース以降いろんなタイプのイベントに声をかけられるようになったが、そのうち半分くらいを占めていたハードコアまたはパンク系のライブではほとんど「対バンを見ない」という高飛車な態度にならざるを得なかった。これは私に限らず、クラッチもブレーキーもである。
では、ハードコアやパンク系以外のイベントだとどうだったかというと、これは実はパンク系より酷くて、一応リハの時に音の感じを聴いたりして判断していたが、非パンク系で面白いと思えるバンドがほとんどいなかったため、結局対バンの演奏を見ない、という厚顔な判断を下していた。
また、そんな風に周囲のバンドやシーンに馴染めないでいるところに、「自分達はハードコア出身だから(ナメんなよ)」というプライドが頭をもたげていて、私たちは浮いていた(に違いない)。対バンの人とのコミュニケーションでも舐められないように、と思っていたし、自分は曲者であるぜ、ということを仄めかすような態度だったと思う。
ハードコアという音楽には歴然とした思想があり、「オレたちはそういう思想をベースに活動してるんだよ」という信念が私とクラッチの間には暗黙の約束事のようにあった。ちなみにブレーキーはパンクにもハードコアにも特別な思い入れがあった訳ではないので、我々のハードコアへの拘りは理解に苦しんでいる様子だった。どちらかというと「オレはレゲエのリディムを叩きたい」というようなことを漏らしていて私をイラつかせた(私もレゲエの曲を演りたいがどうやって作ればいいのかその時はわからなかった)。
またもう一つの些細な問題は、ハードコアパンクとは、音楽的にはかけ離れたラップやレゲエなどを導入することは、ハードコア界隈パンク界隈の諸先輩方並びに馴染みのバンドから非難の的とならないだろうか、という懸念であった。何という下らない思い込みに私は縛られていたのだろうか。結果的にジャンルを横断した曲調を披露したところで赤い疑惑が界隈の人に青い眼で見られることはなかった。ただの杞憂だったのである。
音楽的な好みとしてパンクやハードコアを聞かなくなったのに、自分たちがそういう音楽を作って演奏して楽しい訳がない。赤い疑惑結成当初は、よりハードコアパンク出身であることを強調しようとしていたが、音楽的趣味の変遷によってそういった拘りに齟齬が生じてきてしまったのだ。その葛藤の中で生まれたのが「東京フリーターブリーダー」で、このアルバムのリリースで、先にも書いたように我々の活動範囲は劇的に広がった。それまでハードコアやパンクの界隈の人達を中心に面白がられていただけだったのが、もう少し幅広い層のお客さんに評価してもらえるようになっていった。
その頃抱えてたハードコア由来の悩みがもう一つあった。それは、売れたいかどうか、という問題であった。
ハードコアパンクはDIYじゃないとあり得ない。だから商業的成功というのはハードコアパンクと対極的なものなのである。私はジュンスカイウォーカーズを見てバンドマンになりたい、と目覚めた訳で、その時出来上がった私の将来のビジョンはバンドマン、ロックスターであり、それを仕事に生きていることだったのである。
それが、いつの間にかパンクにハマり、ハードコアにハマり、インディーズやアンダーグラウンドの美学に開眼してしまった。それでいて「将来は売れてるだろう」という根拠のないビジョンが同居していくのである。コアでいて人気がある、そういう都合のよいイメージの中に赤い疑惑は活路を見ようとしていた。
しかし、仲良くしていたパンク、ハードコア系のバンドや先輩たちからは、私のように「もっと売れたい」という俗っ気がほとんど感じられなかったし、実際そうだったのだと思うが、そういう空気の中で私は「売れたい」という欲望から逃れられないことを後ろめたく思ったりしていた。だから杞憂であるのにその頃の私はハードコアパンクの呪縛に囚われているかのように錯覚していたのかもしれない。
今振り返ると、そんな風にハードコア出身であることにこだわっていたことが懐かしくも可笑しくも思えるが、音楽の趣味なんて押し付けられるものではないし、感覚的なもので、ジャンルそのものに飽きてしまったら、その時にときめく音楽に純粋にアプローチすればよいと思う。「東京フリーターブリーダー」リリース以降は、ではどうすればレゲエやワールドミュージックの要素を3ピースのロックバンド形態に落とし込めるだろうか、という試行錯誤の繰り返しとなった。ただ、ハードコアの思想的な部分はそれから現在に至るまで私の芯にこびりついているような気がするのである。
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