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バンドマンに憧れて 第37話 母の死と家族

「東京フリーターブリーダー」の製作中の正月、西荻線路沿い風呂なし6畳の我がアジトの電話が鳴った。出ると珍しく実家の父からだった。

レーベル業を始めようと思っていた我が住まいにはFAX付き電話機が設置されていて(FAX1つあればレーベルができると雑誌で読んだので)、たまに実家の母から「元気にやってるか?」という様な挨拶が解像度の乏しいFAX特有の味わいで届くことがあったが、父が電話をかけてくるというのはかなり異例のことだった。父は、話がある、と言い、そして、実はお母さん、癌が見つかったんだ、と付け加えた。

私の頭は真っ白になった。そのあとどういう会話をしたかも覚えていない。電話を切った後、私は込み上げてくる嗚咽を抑えることなくひたすら泣いた。「ビーチボーイズ」の反町隆で泣いたのとはまた別次元で、それは終わりのない悲しみのように思えた。

止まらない嗚咽と涙の中で私は母のことをそんなにも慕っていたのだな、と思い改めた。大学卒業後の身の振り方、その一点のみでぶつかり合った。フリーターでバンドマン目指すという私の決意を最後まで肯定してくれなかった母。それでも一人暮らしの私を心配し、報せや差し入れを事欠かなかった母。

青二才だった私は独り立ちのために家を出る時も、いつかそれなりに成功した大人になって親孝行してやるんだ、と浅はかなことを考えていた。それなのにタイムリミットが一気に眼前に現れ、私は悲しみの底に突き落とされてしまった。

母は胃癌で、体調不良を隠していたこともあり、発見段階でステージ3の末期だった。告知を受けた時から1年持つか持たないか、というような深刻な状況だった。

焦りに焦った私はまず、闘病する母の看病とサポートにおいて、自分に何ができるのかを真剣に考えた。そしてすぐに気づいたのが家族との和解だった。和解と「東京フリーターブリーダー」の製作中の正月、西荻線路沿い風呂なし6畳の我がアジトの電話が鳴った。出ると珍しく実家の父からだった。

レーベル業を始めようと思っていた我が住まいにはFAX付き電話機が設置されていて(FAX1つあればレーベルができると雑誌で読んだので)、たまに実家の母から「元気にやってるか?」という様な挨拶が解像度の乏しいFAX特有の味わいで届くことがあったが、父が電話をかけてくるというのはかなり異例のことだった。父は、話がある、と言い、そして、実はお母さん、癌が見つかったんだ、と付け加えた。

私の頭は真っ白になった。そのあとどういう会話をしたかも覚えていない。電話を切った後、私は込み上げてくる嗚咽を抑えることなくひたすら泣いた。「ビーチボーイズ」の反町隆で泣いたのとはまた別次元で、それは終わりのない悲しみのように思えた。

止まらない嗚咽と涙の中で私は母のことをそんなにも慕っていたのだな、と思い改めた。大学卒業後の身の振り方、その一点のみでぶつかり合った。フリーターでバンドマン目指すという私の決意を最後まで肯定してくれなかった母。それでも一人暮らしの私を心配し、報せや差し入れを事欠かなかった母。

青二才だった私は独り立ちのために家を出る時も、いつかそれなりに成功した大人になって親孝行してやるんだ、と浅はかなことを考えていた。それなのにタイムリミットが一気に眼前に現れ、私は悲しみの底に突き落とされてしまった。

母は胃癌で、体調不良を隠していたこともあり、発見段階でステージ3の末期だった。告知を受けた時から1年持つか持たないか、というような深刻な状況だった。

焦りに焦った私はまず、闘病する母の看病とサポートにおいて、自分に何ができるのかを真剣に考えた。そしてすぐに気づいたのが家族との和解だった。和解というと大げさだが、私は母と父に対し自身の進路について何の理解も得てない状態だったし、親に反抗して家を飛び出した設定だったので、母の闘病をサポートするにはまず家族、とりわけ父と距離を縮めなければならないと思い至った。

それまで私の中で、父はよく知っているようでよく分からない、何か得体の知れない人物で、正直なところ接触を避けたいくらいの存在だった。高校生くらいの時からほとんどサシで会話をしなくなったし、大学在学中も会話は少なく、卒業後の進路に関する母とのせめぎ合いの折に時々登場しては、母の肩を持って、バンドをやるのはいいが、ちゃんとした仕事につけ、などと高みから私を戒めるくらいだったのだから、私の父への不信感は不思議なことではなかったはずだ。

しかし、その転機が母の癌告知と、その少し前にふとしたきっかけで読んだ、父の半生記のような文章だった。それは父の母校の大学のギタークラブか何かの冊子に寄稿したらしい、父の思春期から30代半ば頃までの回想録で、その内容は、正に私が今こうして認めているバンドマン記のような、おちゃらけた青春譚だったのである。

母からは度々デリカシーがない、とか下品とか酒臭いなどと遠ざけられ、あまり家にも帰ってこない、あの強面の父の青春記の貧乏話や、失敗談などの数々が、私のその当時の貧乏生活が滲ませていた趣きと大して変わらないものだったことが図らずも分かってしまったのだ。そのことは驚きとともに、私にとっては何となくこそばゆくも嬉しいようなことだった。そして父に少し好感を持つようになった。

そんなこともアシストとなり、私は母の看病に向けて父となるべく話す機会を設けるように計らった。母の寿命を少しでも伸ばしてあげたいという気持ちは、父と姉と私とで当然一致した。この頃から父と酒を飲んで話す、ということが増えることになった。父は私が勝手に想像していたよりお茶目で愛のある人物なんだと段々分かってきた。

父は鈍感なので、私が故意で接触を図っていたことに気づいてないようだったが、普段は母や姉に鼻つまみにされがちだったから私と距離が縮まってきて嬉しそうに見えた。

母ががんセンターに入院していた時期に、荻窪の祖母が亡くなった。祖母の家で母の親戚が集まってしんみり飲んでいた日だったろうか、母の兄弟、つまり叔母達が、闘病中の母に対する父のサポートや配慮が足りないのではないか、ということをやんわり言い始め、それが多少なり当たっていたとしても構図的に父が悪者みたいな流れになってしまった。父は頑固で自分の意見を曲げない悪い癖があるが、酒を飲むとそれがエスカレートするため、叔母達と口論に発展しそうになったので、私が父を制して仲裁をした。その時父は私の胸ぐらを掴み、お前に何が、と言って顔を歪ませていた。その時私は父を制したのではあるが、叔母達よりも父の味方をしたかった。ガンの妻を持った父の気持ちが叔母達に一刀両断されるのは私は何となく辛かった。

そんなこともあったが、自分の努力の賜物か、私と父の距離は少しずつ縮まった。とはいえ、父は現代医療に望みを託し、私はといえば、当時から信仰していた東洋医療や代替医療界隈におけるガンの知見を調べまくった。

玄米菜食、東城百合子の家庭医療、びわ温灸、などなど、世間的には眉に唾をつけられるような民間療法などにのめり込み、自分も実践し、そういう世界に詳しい友人から、気持ちは分かるが程々にした方がいい、と諌められることもあった。

確かにこういった代替医療、民間医療の世界は科学的データは少なく、患者本人の意志に依るようなところも大きい。私が勧めるそれらの治療法に、癌の告知という現実を前に落胆し力を落としていた母は、気持ちは嬉しいが…、と乗り気になることはなかった。それに気づいた私は、無理に勧めることは控え、例えばびわ温灸やこんにゃく湿布など、単純にあったかくて気持ちいい、と母が感じるモノだけは試してみたりしていた。

ちなみに、築地のがんセンターに入院していた母の見舞いに行き、代替医療の併用はオススメしないが禁止はしない、という医師の控えめな許諾のもと、びわ温灸をどうしても試したかった私。びわ温灸セットに必要な炭への着火に、バーナーによる燃焼が欠かせない。とはいえ病室内でバーナーで炭に着火などしたら警報機が鳴ってつまみ出されるだろう。仕方がないので、がんセンターの駐車場の隅で、不審者と思われないように身を潜めながらシュボーッとやったことは忘れられない。

他にも玄米を炒って相当な時間をかけて重湯のようなものを作ったり、振り返れば徒労のようなことをいろいろ試したが、母の食欲はもはや風前の灯だったし、周囲からは苦々しく見られるし、最終的には私も現代医療の効果に期待するしか術がなくなってしまった。

母はネガティブな感情に引っ張られがちで、癌に負けるてたまるか、というような意欲を見せることはなかった。見舞いに行くたび、私はどういう顔をしていいか分からず、何を話していいかも分からず、でも、突っ張っていたが母のことを愛していると伝えたくて1度だけ手紙を書いた。残された母との時間を大切に過ごしたかった。

がんセンターで抗がん剤の治療を受け、胃の切除までしたが母の調子が上向きになることはなく、医師も家族をいたずらに喜ばせるようなことは言わなかった。

家族で話し合い、終末医療というのだろうか、病院で重たい時間を過ごすよりは、ということで最後は自宅で家族と一緒に過ごした。ある日、突然母が苦しいと言い、様子を見ると、腹水が溜まり下腹部を膨らませてしまった。すぐにまた病院に運ばれたが、それから1週間ほどで亡くなってしまった。

長く辛い闘病姿を見てきた私は母が死んでなんとなくホッとした。抗がん剤で無闇に生を引き延ばしているような感じがして辛かった。本人はもっと辛かったろう。

母が闘病してる間、私は曲が作れなくて、でもこんな一生のウチでもなかなか体験しないであろう、この時期の気持ちをカラっと歌うことができたらいいな、と空いた時間で、それも長い時間をかけて一編の曲を書いた。「なんとなく人生」という、それはドラマのような展開の、長い長い曲になってしまった。

母の死は私に、家族という存在についてをもう一度考えさせてくれた大きな契機だった(結婚や子どもについて考えるようになったのは確実にこのことがきっかけだった)が、もう一つ決定的な現実を教えてくれた。それは「人生、お前の思い通りにはいかないんだぞ」、ということであった。

それまで私は、根拠のない自信で武装をし、自分はミュージシャンになって活躍することになるんだ、と信じ込んでいた。誰に笑われようが信じれば叶う、と思い込んでいた。

しかし、そんな風に信じれば叶うのなら、母のガンも家族の熱心な看病で治ってくれるはずだったんじゃないか。私は抗いようのない現実があることを母の死で痛烈に味わった。それは私のバンド人生における、初めての動かし難い痛烈な挫折であった。
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