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バンドマンに憧れて 第40話 男は寝るな

「東京フリーターブリーダー」制作前に原付きで飲酒居眠り運転の事故で右脚を骨折し、初の地方ツアーの予定を台無しにした話しを書いたが、実はアルバム制作期に私はそれとはまた別の交通事故を起こしている。アルバムのジャケットに写っているのは、当時のバイト先であった染色会社のばあちゃん社長だが、私が事故ったのはその会社で事務の仕事をしていた時期だ。

ヘルニアを発症して飲食の仕事を辞めてから、私は肉体労働を離れ、「事務」という職種をやるようになっていた。染色業務のお手伝いという募集を見て、私は事務ではなくクリエイティブ系の仕事に携われるかもしれないと思い、腰が心配だが応募したのだ。

面接で、すごく興味があるんですが、実は以前腰を痛めていて…、ということを話すと、実質会社の全てをしきっていたヒロシさん(社長の倅)は、実は事務も足りないんだけど事務で入らないか、と促してきた。作業の方はやはりかなりの肉体労働なので、腰に不安があるなら辞めといた方がいい、とのことだった。金に余裕などない私はとりあえず働けるならいいか、と妥協して事務職についた。

何とも不思議な職場だった。中井駅から神田川沿いに下落合方面に少し歩いたところにあったその染色会社は、トタンの波板で全面つぎはぎのように覆われた工場で、一見廃墟のようにも見えた。一階入り口にお客さん対応の応接間があり、その奥にヒロシさんの仕事場と、大きな製版台が、そして2階は1面で幟や旗のシルクプリントをする大きな作業場があった。

私は応接間で事務作業、配送、梱包、出荷などの任務にあたっていたが、いつも11時くらいに重役出社してくる社長の話し相手になることも大事な役割だった。当時社長は70代だったかと思うが、片脚を悪くしていていつも杖をついてびっこを引きながら歩いていた。不摂生という感じはしなかったが、それなりに肥っていて足腰に余計に負担がかかっているように見えたが、コロコロとした見た目が独特の愛嬌を讃えていた。

週刊誌を読みながら「北朝鮮とやっちまえばいいのよ」とたまに過激なことを下町口調で言ってみせることもあったが、若い時は仕事の切り盛りもしてたらしく、その経験値に裏付けられたこぼれ話達は面白かったし、私は何となくこのおばあちゃん社長のことが好きになった。

母がガンになった時、私は代替医療や民間療法のことをいろいろ調べていたが、母が前向きじゃなかったので大して実行に移せずにいたのだが、社長にビワの葉温灸のことを勧められ、私もその存在は知っていたのだが、何やかんや言い訳して躊躇していたら、「あんたがやってあげればいいだけでしょ」と叱られ、そうかと思い実行に移すと、母は意外にも受けいれてくれた。効果の程は神のみぞ知る、だが、温灸は苦しくないし気持ちがいいので母も拒まなかった。母が死んだ報せを社長にした時、社長は涙を流した。一従業員の母の死にそこまで同情してくれるなんて…。私は性別も年齢も越えた心の触れ合いを体験した気がした。

この染色会社でのバイト時代は、私が自分の人生をバンドでどうにかしよう、と最も強く考えていた時期だった。ライブのチラシをこまめに作って撒きまくったり、知人友人にこまめにライブのお知らせメールを送ったり、CDの流通や委託販売のやり取りやプロモーションなど、自分でできることを地道にこなし、曲作りや、詩作、フリースタイルの練習など、バンドに関することに没頭していた。この時期にとある先輩バンドマンに「長尾くん、男は寝ないで頑張るもんだ」という訓戒をいただいた。今ではバカバカしい根性論にしか思えないが、当時の私はその言葉に存外の影響を受けてしまった。その先輩のバンドが実際シーンの中でかなり目立っていたこともあったのかもしれない。とにかく、その時期、私はその言葉を過信して睡眠時間を削るようになった。

夜中遅くまでバンドに関連する活動をするようになった。3、4時間の睡眠が平均になり、朝は眠たかったが、目標に向かってガムシャラになる自分に幾分酔ってもいた。しかし、このガムシャラには落とし穴があった。日中、染色会社の事務でデスクワークをしていると必ず睡魔がやってきて、キーボードを打ちながら頻繁に船を漕ぐようになった。それだけならよかったが、この仕事には時々雑用の配達仕事があり、週に何度かは会社の車で浅草橋の問屋街に行ったり、所沢の縫製工場に行くことがあった。私はその運転中にも必ず睡魔に襲われるようになっていた。

当時の私が、長い人生のスケールを考えたり、想像したりする力を持ち合わせていれば、運転中睡魔に襲われることに自覚的になった時点で生活を改められたはずである。しかし、若気の至りで、私は睡眠を削る生活を改めなかった。そしてある日やらかしたのである。居眠り運転による玉突き事故。信号停止中の乗用車に後ろから追突し、その前に停まっていたゴミ収集車にも被害を与えてしまった。

大きな衝突音で目が覚めた時、車内は煙が立ち込めていて、かけていたメガネが真ん中から折れて足元に転がっていた。私は俄かに何が起こったのか自覚し始めた。すぐに煙がエアバッグの破裂によるものだと分かり心臓がバクバク鳴った。片側3車線の幹線道路での出来事で、私が焦って車から出ようとすると、先に降りていたゴミ回収のおじさんが「危ねえぞ!」と怒鳴った。3車線の最左列で玉突きしたので右手の2列は車がビュンビュンと通り過ぎていた。

しばらくして警察や救急車が集結。私と玉突きにあった乗用車の男性だけ救急車で運ばれた。私はエアバッグの衝撃で唇が切れて軽く血が出ただけであったが、念のため病院に行ったのだろうか。男性は軽いムチウチ症状を訴えていた。

病院の後は警察に行き、事故の検証やら何やらが始まった。私は起こしてしまったことの重大さに頭がボーっとしていた。警察は私の起こした事故が居眠り運転じゃなく、前方不注意によるもので、という風に、その方が処理が楽になるのか、そんな風な筋書きを作ってくれて、私はもう免許剥奪になるのかと思っていたが、救われたのだった。みすぼらしい姿になった会社の車のフロントの修理代、追突してしまった前の車の修理代(ゴミ回収車の方は大したキズじゃないので、と保証を求めなかった)、前の車の運転手のムチウチ治療代、それらはすべて保険で賄われたので、あの足の骨折事故に続き、私は保険の重大さを思い知った。

後日、前の車に乗っていた被害者の方のお見舞いに行かねばならなかったのだが、この時、社長が、ついていってやる、と申し出てくれた。私は、このような事態に対する経験値も皆無に等しかったし、お詫びのしようもない100%こちらに非のある事柄なので、どんな心づもりでお見舞いに行けばいいのか全く分からない状態だったので、この社長の申し出はホントに心強いことだった。

病室で「この度はウチの若いのが大変なご迷惑を…」という挨拶から始まり、当たり障りない世間話を社長がしてくれたおかげで、私は隣で小さくなっていればよかった。この顛末は実は「東京フリーターブリーダー」の歌詞カードの最後の見開きで長文で綴っているのだが、未だに、自分で読んでも泣けてしまう…。

居眠り運転で玉突き事故。あまりに愚かな過失なので、ガンセンターで入院中だった母にも、母の看病で気忙しかった父にもこのことは内密にした。母に、こんなみっともない倅のやらかしのせいで更なる心労を与えたくなかったし、実際バレなくてよかったと思っている。

その後、私は流石に改心し、人並みの睡眠を貪るようになった。バンドがやりたいなら、死んでは元も子もないのである。
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