バンドマンに憧れて 第41話 アクセルとブレーキーの確執
アクセルとブレーキは表裏一体である。赤い疑惑のメンバー、アクセル長尾、松田クラッチ、沓沢ブレーキーというステージネームを決める折、ブレーキーはアクセルの暴走を止める役割で、と冗談ぽく言っていたのは半分冗談ではなくて、当時のブレーキーは実際よくブレーキをかけていた。
ブレーキーがドラマーとして加わった時、それまでのドラマーにポンコツ感があったので、ブレーキーが初心者ながら安定感のあるビートを叩いた時、ヘタでもいいだろうパンクなんだからと考えていた私やクラッチは背筋が伸びたものである。ブレーキーは当初、赤い疑惑に自分が入って演奏が安定したんだ、と豪語して調子に乗っており、それは確かに間違ってはなかったのだが。
まだやりたいことや言いたいことが無尽蔵にあった若かりし私も、その頃は調子に乗ることが多々あったように思うが、ブレーキーはそこに意識的にか無意識的にかブレーキをかけるのであった。それがもちろん奏功したことも実際あったのだと思うが、ブレーキをかけられてよかったことばかりではない。むしろ1stアルバムが出てライブにも順調に誘われるようになり、忙しくなってきたこの時期は次第に様子がおかしくなっていった。
当時我々は西荻窪のリンキーディンクスタジオで週に1度、多い時は2度、必ずスタジオに入っていた。正味の話その頃はみんな時間にルーズで、大体私が1番最初に来てクラッチが来て、そして1番遅れてブレーキーが来るのだった。私も10分20分遅れることはよくあったのでメンバーが遅れてくることには寛容でいようと思っていたが、当時のブレーキーはスケールが違った。連絡なしで1時間、2時間と平気で遅れてくるのだった。
彼は加入当初は留年中の学生で、休学したり何やかんやモラトリアムを満喫していた。それで卒業してからも無職の期間がしばらくあり、そういうダラシない雰囲気で周りの連中からからかわれたり逆に評価されたりしていて、私もからかったり評価していたのだ。ただ、私の目標はバンドで食べていくことで、そうであるならばヘタウマパンクとは言ってもある程度真剣にやらねば、という矛盾するつんのめりな姿勢もあり、ブレーキーの遅刻問題が段々とストレスになっていった。
また彼は知り合いの紹介で葬儀系の派遣社員として働くようになるのだが、仕事をするようになってから、あからさまに疲弊し、練習にもダルそうに来ることなどが増えた。実際、彼の仕事は朝早くから始まり遅くまでかかる。仕事柄スーツを着ることが多い割に中身は肉体労働だったり、話しを聞いていても大変そうではあった。しかし、仕事が理由ではなく1、2時間遅れてきて、しかもゴメン、というより逆ギレ風な、不機嫌な顔で入ってくることなんかもあった(練習に来ないこともあった)。
それだけではないのだ。赤い疑惑の曲作りというのは私が作ったフレーズをスタジオで再現しながら2人に適当にベース、ドラムをつけてもらうのだが、3人とも音楽的な勘が鋭かった訳ではなく、しかもヘタウマなので、相当に時間のかかる作業だった。ベースのフレーズは私が提案することが多かったのだが、ブレーキーはそれを嫌がるのである。こう叩いて、と言っても素直になぞらずに必ずオリジナリティーを挟んで来ようとして、だけど素養があるわけじゃないから彼なりのフレーズが出来上がるまでにかなり時間がかかるのだ。
曲作りの中心である私はそういうことにイライラするのである。そしてオリジナリティーを追求するのはいいことなので、イライラを精神力で抑えてとにかく時間をかけて頑張っていた。これは要するに曲作りを進める私の力不足でもある訳だが、更に私がブレーキーに腹が立ったのは曲のダメ出しだった。
曲自体のダメ出しもあるし、イントロ、AメロからBメロへのつなぎ、終わり方、などなどいろいろなダメ出しがあった。私はダメ出しするなら代案を出せと迫ったが、具体案は出せないのである。
ブレーキーはバンドを始めた頃からよく言っていたが、「オレはバンドで食うとかピンと来ない」と。それはつまり彼が曲を生み出したりするタイプではないし、私のように成功への欲があまりない、ということでもあっただろう。だから代案を出せと言われてもそんなものはないのである。
そういったことが度重なり、私は違うドラマーだったらもっと上手くバンドが回るんじゃないか、とよく思っていた(クラッチはベースが下手だったが彼なしではバンドはやれないと思っていた…)。スタジオに入ってもストレスが溜まることが続いた。私はそれでも沓沢ブレーキーのことをどこかで好きだったし、尊重しようと思っていたのかもしれず、スタジオ内でブチ切れる、ということはなかった。
その代わりクラッチに改まって、自分の腹の内をブレーキーに伝え、改善してもらえないなら一緒にバンドやれないと言おうと思う、と相談した。クラッチは「そう思ってるならそうするしかないじゃん」と背中を押した。クラッチはいつも私の背中を押してくれる人なのだ。
いつぞやの夕刻、その日はスタジオではなく吉祥寺の井の頭公園に集まった。何で井の頭公園だったのか覚えていない。ただ話があるからとブレーキーに伝えて3人で集まったのだ。それで私が抱えているブレーキーへの不満を細かく冷静に伝えると、えっ、そうだったの? 気づかなかったよ、と言うので私は驚いてしまった。
私が彼に不満や怒りを抱えていたことを本人は大して気づいておらず気にもしてなかったらしく、そうだったのか…、と考え込む風だった。そして彼は素直に詫びて、バンドを続けたい、努力するよ、というのである。そう反応されると私もそれ以上は言えず、じゃあまた3人で頑張ろうか、ということになり、確かその日は伊勢屋で打ち上げたのだ。
実際それから後はスケールのデカい遅刻もなくなり、曲作りがスムーズになったわけではなかったが、それ以上衝突するようなことはなくなったのである。
元々私もブレーキーも強い捻くれ屋で、素直に物事を聞けなかったり、シニカルになったり、人と違うことをしようとしたり、その上マイペースという、似てる部分が沢山あった。似たもの同士の衝突と考えればそんなものだったような気もする。
思っていることは伝えないと伝わらない。恋愛や男女間の話のようでもあるが、男3人のバンドでだってそんなことがあった。むしろバンドと恋愛との共通点なのかもしれない。それくらいバンドってのは密な人間関係になり得るということなのだろう。
ブレーキーがドラマーとして加わった時、それまでのドラマーにポンコツ感があったので、ブレーキーが初心者ながら安定感のあるビートを叩いた時、ヘタでもいいだろうパンクなんだからと考えていた私やクラッチは背筋が伸びたものである。ブレーキーは当初、赤い疑惑に自分が入って演奏が安定したんだ、と豪語して調子に乗っており、それは確かに間違ってはなかったのだが。
まだやりたいことや言いたいことが無尽蔵にあった若かりし私も、その頃は調子に乗ることが多々あったように思うが、ブレーキーはそこに意識的にか無意識的にかブレーキをかけるのであった。それがもちろん奏功したことも実際あったのだと思うが、ブレーキをかけられてよかったことばかりではない。むしろ1stアルバムが出てライブにも順調に誘われるようになり、忙しくなってきたこの時期は次第に様子がおかしくなっていった。
当時我々は西荻窪のリンキーディンクスタジオで週に1度、多い時は2度、必ずスタジオに入っていた。正味の話その頃はみんな時間にルーズで、大体私が1番最初に来てクラッチが来て、そして1番遅れてブレーキーが来るのだった。私も10分20分遅れることはよくあったのでメンバーが遅れてくることには寛容でいようと思っていたが、当時のブレーキーはスケールが違った。連絡なしで1時間、2時間と平気で遅れてくるのだった。
彼は加入当初は留年中の学生で、休学したり何やかんやモラトリアムを満喫していた。それで卒業してからも無職の期間がしばらくあり、そういうダラシない雰囲気で周りの連中からからかわれたり逆に評価されたりしていて、私もからかったり評価していたのだ。ただ、私の目標はバンドで食べていくことで、そうであるならばヘタウマパンクとは言ってもある程度真剣にやらねば、という矛盾するつんのめりな姿勢もあり、ブレーキーの遅刻問題が段々とストレスになっていった。
また彼は知り合いの紹介で葬儀系の派遣社員として働くようになるのだが、仕事をするようになってから、あからさまに疲弊し、練習にもダルそうに来ることなどが増えた。実際、彼の仕事は朝早くから始まり遅くまでかかる。仕事柄スーツを着ることが多い割に中身は肉体労働だったり、話しを聞いていても大変そうではあった。しかし、仕事が理由ではなく1、2時間遅れてきて、しかもゴメン、というより逆ギレ風な、不機嫌な顔で入ってくることなんかもあった(練習に来ないこともあった)。
それだけではないのだ。赤い疑惑の曲作りというのは私が作ったフレーズをスタジオで再現しながら2人に適当にベース、ドラムをつけてもらうのだが、3人とも音楽的な勘が鋭かった訳ではなく、しかもヘタウマなので、相当に時間のかかる作業だった。ベースのフレーズは私が提案することが多かったのだが、ブレーキーはそれを嫌がるのである。こう叩いて、と言っても素直になぞらずに必ずオリジナリティーを挟んで来ようとして、だけど素養があるわけじゃないから彼なりのフレーズが出来上がるまでにかなり時間がかかるのだ。
曲作りの中心である私はそういうことにイライラするのである。そしてオリジナリティーを追求するのはいいことなので、イライラを精神力で抑えてとにかく時間をかけて頑張っていた。これは要するに曲作りを進める私の力不足でもある訳だが、更に私がブレーキーに腹が立ったのは曲のダメ出しだった。
曲自体のダメ出しもあるし、イントロ、AメロからBメロへのつなぎ、終わり方、などなどいろいろなダメ出しがあった。私はダメ出しするなら代案を出せと迫ったが、具体案は出せないのである。
ブレーキーはバンドを始めた頃からよく言っていたが、「オレはバンドで食うとかピンと来ない」と。それはつまり彼が曲を生み出したりするタイプではないし、私のように成功への欲があまりない、ということでもあっただろう。だから代案を出せと言われてもそんなものはないのである。
そういったことが度重なり、私は違うドラマーだったらもっと上手くバンドが回るんじゃないか、とよく思っていた(クラッチはベースが下手だったが彼なしではバンドはやれないと思っていた…)。スタジオに入ってもストレスが溜まることが続いた。私はそれでも沓沢ブレーキーのことをどこかで好きだったし、尊重しようと思っていたのかもしれず、スタジオ内でブチ切れる、ということはなかった。
その代わりクラッチに改まって、自分の腹の内をブレーキーに伝え、改善してもらえないなら一緒にバンドやれないと言おうと思う、と相談した。クラッチは「そう思ってるならそうするしかないじゃん」と背中を押した。クラッチはいつも私の背中を押してくれる人なのだ。
いつぞやの夕刻、その日はスタジオではなく吉祥寺の井の頭公園に集まった。何で井の頭公園だったのか覚えていない。ただ話があるからとブレーキーに伝えて3人で集まったのだ。それで私が抱えているブレーキーへの不満を細かく冷静に伝えると、えっ、そうだったの? 気づかなかったよ、と言うので私は驚いてしまった。
私が彼に不満や怒りを抱えていたことを本人は大して気づいておらず気にもしてなかったらしく、そうだったのか…、と考え込む風だった。そして彼は素直に詫びて、バンドを続けたい、努力するよ、というのである。そう反応されると私もそれ以上は言えず、じゃあまた3人で頑張ろうか、ということになり、確かその日は伊勢屋で打ち上げたのだ。
実際それから後はスケールのデカい遅刻もなくなり、曲作りがスムーズになったわけではなかったが、それ以上衝突するようなことはなくなったのである。
元々私もブレーキーも強い捻くれ屋で、素直に物事を聞けなかったり、シニカルになったり、人と違うことをしようとしたり、その上マイペースという、似てる部分が沢山あった。似たもの同士の衝突と考えればそんなものだったような気もする。
思っていることは伝えないと伝わらない。恋愛や男女間の話のようでもあるが、男3人のバンドでだってそんなことがあった。むしろバンドと恋愛との共通点なのかもしれない。それくらいバンドってのは密な人間関係になり得るということなのだろう。
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