ROAD to 小川町 第5話 ローン審査突破

- -
小川町の隣、寄居の不動産屋さんに行くまでに、Sさんが、売り主さんと金額の最終交渉をしてくれていて(もう少し下げられるかもしれません、と言われていたのだ!)、何と売値が690万円から580万円に下がったことを聞いていた。不動産の金額は大きな単位で変動あり得るからよく交渉した方がいいよ、と経験者には聞いていたが、元値が既にこれだけ安いのだから、まけてくれても数十万円かな、と予想していただけに喜びは一入だった。あんなに素敵な家が580万円で買えちゃうの…?

そして1/19、実家の車を借りてSさんの待つ寄居の不動産屋へ赴いた。非常に味気ない感じの小綺麗な建物だ。そこで源泉徴収票や保険証、免許証などを提出し、住宅ローンの審査に関する説明などを聞いた。

勤続年数と所得とで大方問題ないでしょう、というのがSさんの見立てだったので私も安心していたのだが、数日後に電話がかかってきて、ローンの審査に関して懸念事項を告げられた。それは、私の収入が云々というよりも、私が買おうとしている建物自体の耐震基準が古いものであるための問題だった。

ざっくり言ってしまえば古い建物のローン審査に対して都市銀行が及び腰になってきている、というハナシだった。ただ地方銀行なら大丈夫だろう、とSさんは言うのだったが私は心配になった。

結局、2つの地方銀行からもNGが出てしまったのだが、埼玉県信用金庫だけはOKなのだった。ヒヤヒヤしたが、私はあまり深く考えず手続きを進めてもらうことにし、口座の開設をした。

1月の下旬、今度は(埼玉県信用金庫の)高坂ローンセンターに来てくださいとSさんに言われたので出向いた。何が何だか分からない沢山の書類に住所やら記名やら捺印やら、言われるままに私は手を動かすのだった。書きながら(私のようなはみ出しものでもローンなどというものが組めるのか…)と思った。そして(正社員で働いてまだ4年くらいだが、やはり正社員というのはデカいな、自営業だとハードル上がるらしいとか聞いたことあるし…)と思い、長い間非正規雇用で働いていた私が、遂に正社員として数年過ごせた現在の自分に、よくやった、と褒めたい気持ちになった。

先に小川町移住を決定していた石原家はまだ生活拠点が都内だった。1月下旬、急激に親しくなった彼らが田無のアパートに遊びに来た。私達の移住が決まれば、彼らとは運命共同体、とまでは言わなくても相当に深い付き合いになるだろうことはお互いが認識していたと思う。それはしゅうくんとはるかちゃんが家族のような距離感の友人になったのと同じような、いやもっと密な関係になるかもしれない。子どもの年齢も近いし、見知らぬ土地で生きていくにあたって協力し合わない手は無いのだ。

ヒーさん達は3月の下旬から本格的に生活拠点を小川町に移すのだと言っていた。そして私達の移住がスムーズに進むことを願って帰っていった。しゅうくん、そしてヒーさんと知り合ったことを改めて奇跡のように感じた。

石原家が遊びに来た数日後、ローンセンターの手続きが無事完了して、いよいよ売買契約に来てください、という流れになった。売買契約、と聞いてその重厚な響きに私はまた不安になったが、要は不動産屋と司法書士の立会いの元、売り主の方と挨拶し、またぞろ書類に記名やら捺印やらを面と向かってやることらしい。

それが終われば遂にあの家が私の持ち物になるのである。何ということだろう。ローンとはいえ、こんなに簡単に持ち家というものが手に入るのだろうか…。

売買契約は2/8に決まった。私は職場の同僚に、控えめに、だが、手当たり次第、「実は家を買ったんです。」と言いふらしていた。数枚撮った現地写真を見せると、皆、気持ちいい程の驚きの様子で私の話しに反応してくれるので、その度に嬉しくなった。私は、これが580万だよ、安くない!?、ということを同様に各人に強調してまわったのだが、その金額への反応はイマイチの人が多かった。地理があまり伝わってないのもあるし、そもそもど田舎でしょ、と思われてるのかもしれない。

その頃、私は亡くなった母と仲の良かった叔母からスピ系の本を借りて読んでいた。それは臨死体験をした女性が書いた本で、見方によっては自己啓発本の側面もある。彼女は末期ガンで手術の際に臨死体験し、人は誰しもが祝福されるために生まれてきたのだ、ということを悟り、意識を取り戻し、それと同時にガンの腫瘍がすっかり消えてしまった、という信じられない話しなのだが、私は実にそうだそうだ、と思いながらその本に書かれているポジティブな内容に自己啓発されていた。

20代の頃は、バンドマンでメシを食っていきたい、という俗っぽい野望に振り回され、売れないこと、人気が出ないことで絶望したり、アルバイトで金がカツカツで将来の不安が物陰から常に私を脅かしていた。音楽で食う、という夢が叶いそうになく、表には出さなくても自分を不遇の人間だと思ったりしていた頃もあった私。

人生誰しも辛い体験や、辛い時期があって、しかし、みなそういう困難を乗り越えながら楽しみや幸せをみつけて生きている。30代も後半になってくると、醜い妬みや羨望の視点などが消えていき、みんな大変なんだから、自分はまだまだ幸せかもしれない、などと思えるようになってきて、子どもができて子育ての面白さを体感した時など、人生の素晴らしさを痛感せずにはおれなかった私。

新居を見つけ、移住して新しい生活が始まるかもしれないこの時期に、その臨死体験本は私をさらにハイにした。毎日を、家族を、すべてに感謝して生きていこう。あなたは祝福されているのだから…。

2/8、高揚する心を押さえて私は再び寄居の不動産屋に赴いた。売り主の方はあの家に住んでいた方の息子と娘さんのお2人であるらしかったが、娘さんの方は極度の人見知りなため息子さんが1人でいらしった。息子といっても見た感じ60前後と思われる落ち着いた、紳士のような男性で私は始終緊張した。

もし、相手の雰囲気次第ではあの家に住んでいた方(爺さん?)のことやあの家の思い出など2、3聞き出せたら、と思わないでもなかったが、先方も事務的に済ませたい雰囲気を醸し出していたので、私は慇懃に振る舞って余計なことは言わなかった。そしてひたすら記名やら捺印やら、黙々と手を動かすのだった。

1時間強で契約が終わり不動産屋から解放されると私は目の前の自由に、また心が躍り始めるようだった。寄居から小川町へと移動し、道の駅で名物の肉汁うどんを食べた。この味ならひばりヶ丘の武蔵野うどんや小平の小平うどんの方が美味しいなとシビアな判定を下した(後にもっと美味しい武蔵野うどんの店がこのあたりには無数にあることを知るのだが…)。

うどんがお腹を満たすとまた何とも言えない充足感に包まれた。そして丁度東京から新居のリフォームで小川町の新居に来ていた石原家に赴き、無事売買契約が終わったことをヒーさんに報告した。

何度来ても、ホントに素晴らしい山間の景色を湛える石原邸の縁側で、私はしみじみ、すべてはここから始まったんだ、と胸を熱くしていた。
ページトップ