バンドマンに憧れて 第44話 赤い疑惑のスタジオワーク
私がバンドに夢中になったきっかけは脳裏に湧いてくるメロディーをそのままバンドで表現したら自分は才能を開花できる、という中学生当時の野放図な直感からだった。その直感が正しかったとは考えづらいが、バンドをやって成功してやろう、というような野心はそもそもそんなところから始まっていたのだ。
ところが、その脳裏に浮かぶメロディーやら音楽を、いざ声にしたり、演奏で再現したり、ということは一筋縄じゃない、ということを実際バンドを組んで痛感した。頭ではこんなに素晴らしい名曲のようなものが流れているのに、バンドで演奏してみたら全然イメージしていたものにならない。はっきり言って全然イケテナイ。
赤い疑惑はクラッチもブレーキーも初心者のようなものだったし、私の脳内イメージの再現力も自惚れていたものとは程遠く、なもんだから常に曲作りというのは難解な作業だった。
スタジオに私が考えたフレーズを持っていき、ひたすらセッションを始める。クラッチは器用にベースをつける能力がなかったので私が、こんな感じで弾いて、というのを指の位置で教えたりする。まさか楽譜など無縁の世界なので自分たちが弾いてる曲のコードも把握していない。
だんだん、何度もスタジオに入り私のギターとクラッチのベースが合ってきたかな〜、となってきてもブレーキーはリズム付けに難儀している。私がこんな感じで叩いて、とドラムを叩いてみせたり、口で表現したりしてみるが、今度は、ブレーキーはそんな私の提案に簡単に納得しない。
ブレーキーは自分で考えたリズムやフレーズをいかに私のアイディアに組み込んでいくかが重要だったらしく、それで私はイライラしたりしていたのだが、自分のアイディアを完全に再現してほしいとも実は思っていなかったので、割と気長に私とブレーキーの妥協しあえる仕上がりが完成するのを待った。
ようやく3人でフレーズが演奏できるようになってくると、今度は私が鼻歌メロディーをそれに乗せて録音してみる。そのスタジオ音源を聴きながら仕事中や通勤の間なんかにどんな詩がこのメロディーにハマるか、ということを考え続ける。そのうちようやく、こんな詞でどうだろう、というのができて実際スタジオで歌ってみる。
私がどんな詩を歌おうが、クラッチとブレーキーは無頓着である。ただ、私はメンバー3人全員が歌ってるバンドはかっこいいだろう、という謎のポリシーがあったので、2人に沢山コーラスをお願いし、彼らもそれを面白がっていた。初めのうち、楽器を演奏しながら歌うのは困難な試みの一つだった。特にクラッチは難儀していて、ライブで歌えるようになるまで常に時間がかかった(しかし段々とできるようになっていったのだから大したもんである…)。
私達はさらにそれぞれのフレーズを曲に落とし込むのが下手だった。私がいろんなフレーズを提案するのはいいが、フレーズとフレーズの展開が下手で1曲になるまでにえらい時間がかかった。それでもボツにせずに頑張っていると、結果的に曲が長くなっていった。
初期はハードコアパンクの影響を意識していたので短い曲もあったが、演奏が少しまともになってくると段々と曲が長くなっていき、展開がプログレッシブになっていく傾向にあった。そうしてできた曲は良し悪しは分からないながら、自分たちでは納得してしまったので肯定していくしかなかった。
そんなこんなで1曲作るのに数ヶ月かかることはザラだった。バンドで食っていこうなどという夢を掲げていた私にとって、その現状は矛盾であり苛立ちの種でもあった。成功してるバンドはどんどん新しい曲を作って、アルバム作って、ツアーして、というのが当たり前だと思っていたからだ。それなのに自分達のバンドは全然できてない。バイトは思ったよりしんどいし、金は全然溜まらないし、思い描いていたバンド成功劇は全く具現しそうもなかった。
それでもオレは頑張るんだ。訳の分からない使命感のようなものを背負い、新たな気持ちでスタジオに向かう。曲が思ったようにできない、進まない、凹む。たまに曲が完成して、これは名曲に違いない、などと思い上がって自己肯定感が取り戻される。そんなサイクルをひたすら繰り返していた。
我々が結成当初から、数年前メンバーの所在がバラバラになるまで、10年以上もの間、スタジオ練習といえば西荻の線路沿いにあるリンキーディンクスタジオのDスタだった。私が1人暮らしを始めたのが西荻だったということもあるが、ここは他のスタジオより料金が安く、特にDスタは3人入ればギュウギュウなのだが、1時間1000円ちょいで練習ができた。
有名な系列店の中には、バンドコンテストのポスターがやたら目立つように掲示されていて、ビジュアル系な店員がハキハキと働き、いかにもスターダムにのし上がるのはキミだ! と言わんばかりのイキフンを漂わせるようなスタジオも少なくなかった。それに引き換えリンキーディンク西荻はオラオラした感じが一切なく、いなたく、我々には居心地がよかった。
何年も使っているうちに店長のSさんとも親しくなり、いろいろ融通をきかせてくれるようなこともあった。Sさんはマニアな人で1階のカウンター前に設置されたモニターでいつも古いロックのDVDなんかをかけていて、ブリブリでスタジオ入りした私はメンバーが来るまでその映像をニヤニヤ観るのが好きだった。
ともあれ赤い疑惑のほとんどの曲はここのDスタで出来上がった。クラッチと私が至近距離で向かい合い、ブレーキーは奥に設置されたドラムセットの脇ギリギリにマイクを置いてコーラスを入れた。
2ndの東京ファミリーストーリーを完成させて以降、私の曲造りはシンプルを心がけるようになった。自分が心地よく踊れないと楽しくない。私の音楽の趣味はアフリカや南米の音楽に傾倒していき、意外な展開や唐突なリズムの追求ではなく、非8ビートのようなグルーヴをどうやってバンドに取り入れるかということに野心的になった。
その代わりコードの進行は単純に繰り返すことが増えていった。クラッチやブレーキーの演奏力は上がって、フレーズを合わせるのは早くなっていったが、私の歌詞が長くなって結局曲が長くなるのは変わらなかった。
いつしか時は流れクラッチが移住を決めて以降、我々は西荻リンキーディンクスタジオで集まることがなくなった。20代の頃は必ず週に1度、多い時は2度、スタジオに入り顔を合わせていたが、バンドが売れることはなく、それぞれの生活ができ始め、集まりは月に1度またはライブの前に1度、というようにシフトしていかざるを得なかった。
私の脳裏に流れるメロディーや曲を、バンドで再現させる力は、クラッチとブレーキーともがき苦しんでいた時代より若干上がったような気がするが、昔のように次々と新曲を作って披露していかねば、という脅迫感もなくなってしまった。
時々ふと、あの時のように他のことは何も考えずに3人で時間をかけてセッションしながらまた曲作りができたらな、などとセンチメンタルになることもある。逆にあの時じゃなきゃ、あんな風に不器用にセッションを繰り返しでもしないと、初期のような奇抜な曲たちも完成しなかったと思う。何かの拍子に昔の曲を演奏する時、よくぞこんな曲を作ったもんだ、と不思議になるのである。
ところが、その脳裏に浮かぶメロディーやら音楽を、いざ声にしたり、演奏で再現したり、ということは一筋縄じゃない、ということを実際バンドを組んで痛感した。頭ではこんなに素晴らしい名曲のようなものが流れているのに、バンドで演奏してみたら全然イメージしていたものにならない。はっきり言って全然イケテナイ。
赤い疑惑はクラッチもブレーキーも初心者のようなものだったし、私の脳内イメージの再現力も自惚れていたものとは程遠く、なもんだから常に曲作りというのは難解な作業だった。
スタジオに私が考えたフレーズを持っていき、ひたすらセッションを始める。クラッチは器用にベースをつける能力がなかったので私が、こんな感じで弾いて、というのを指の位置で教えたりする。まさか楽譜など無縁の世界なので自分たちが弾いてる曲のコードも把握していない。
だんだん、何度もスタジオに入り私のギターとクラッチのベースが合ってきたかな〜、となってきてもブレーキーはリズム付けに難儀している。私がこんな感じで叩いて、とドラムを叩いてみせたり、口で表現したりしてみるが、今度は、ブレーキーはそんな私の提案に簡単に納得しない。
ブレーキーは自分で考えたリズムやフレーズをいかに私のアイディアに組み込んでいくかが重要だったらしく、それで私はイライラしたりしていたのだが、自分のアイディアを完全に再現してほしいとも実は思っていなかったので、割と気長に私とブレーキーの妥協しあえる仕上がりが完成するのを待った。
ようやく3人でフレーズが演奏できるようになってくると、今度は私が鼻歌メロディーをそれに乗せて録音してみる。そのスタジオ音源を聴きながら仕事中や通勤の間なんかにどんな詩がこのメロディーにハマるか、ということを考え続ける。そのうちようやく、こんな詞でどうだろう、というのができて実際スタジオで歌ってみる。
私がどんな詩を歌おうが、クラッチとブレーキーは無頓着である。ただ、私はメンバー3人全員が歌ってるバンドはかっこいいだろう、という謎のポリシーがあったので、2人に沢山コーラスをお願いし、彼らもそれを面白がっていた。初めのうち、楽器を演奏しながら歌うのは困難な試みの一つだった。特にクラッチは難儀していて、ライブで歌えるようになるまで常に時間がかかった(しかし段々とできるようになっていったのだから大したもんである…)。
私達はさらにそれぞれのフレーズを曲に落とし込むのが下手だった。私がいろんなフレーズを提案するのはいいが、フレーズとフレーズの展開が下手で1曲になるまでにえらい時間がかかった。それでもボツにせずに頑張っていると、結果的に曲が長くなっていった。
初期はハードコアパンクの影響を意識していたので短い曲もあったが、演奏が少しまともになってくると段々と曲が長くなっていき、展開がプログレッシブになっていく傾向にあった。そうしてできた曲は良し悪しは分からないながら、自分たちでは納得してしまったので肯定していくしかなかった。
そんなこんなで1曲作るのに数ヶ月かかることはザラだった。バンドで食っていこうなどという夢を掲げていた私にとって、その現状は矛盾であり苛立ちの種でもあった。成功してるバンドはどんどん新しい曲を作って、アルバム作って、ツアーして、というのが当たり前だと思っていたからだ。それなのに自分達のバンドは全然できてない。バイトは思ったよりしんどいし、金は全然溜まらないし、思い描いていたバンド成功劇は全く具現しそうもなかった。
それでもオレは頑張るんだ。訳の分からない使命感のようなものを背負い、新たな気持ちでスタジオに向かう。曲が思ったようにできない、進まない、凹む。たまに曲が完成して、これは名曲に違いない、などと思い上がって自己肯定感が取り戻される。そんなサイクルをひたすら繰り返していた。
我々が結成当初から、数年前メンバーの所在がバラバラになるまで、10年以上もの間、スタジオ練習といえば西荻の線路沿いにあるリンキーディンクスタジオのDスタだった。私が1人暮らしを始めたのが西荻だったということもあるが、ここは他のスタジオより料金が安く、特にDスタは3人入ればギュウギュウなのだが、1時間1000円ちょいで練習ができた。
有名な系列店の中には、バンドコンテストのポスターがやたら目立つように掲示されていて、ビジュアル系な店員がハキハキと働き、いかにもスターダムにのし上がるのはキミだ! と言わんばかりのイキフンを漂わせるようなスタジオも少なくなかった。それに引き換えリンキーディンク西荻はオラオラした感じが一切なく、いなたく、我々には居心地がよかった。
何年も使っているうちに店長のSさんとも親しくなり、いろいろ融通をきかせてくれるようなこともあった。Sさんはマニアな人で1階のカウンター前に設置されたモニターでいつも古いロックのDVDなんかをかけていて、ブリブリでスタジオ入りした私はメンバーが来るまでその映像をニヤニヤ観るのが好きだった。
ともあれ赤い疑惑のほとんどの曲はここのDスタで出来上がった。クラッチと私が至近距離で向かい合い、ブレーキーは奥に設置されたドラムセットの脇ギリギリにマイクを置いてコーラスを入れた。
2ndの東京ファミリーストーリーを完成させて以降、私の曲造りはシンプルを心がけるようになった。自分が心地よく踊れないと楽しくない。私の音楽の趣味はアフリカや南米の音楽に傾倒していき、意外な展開や唐突なリズムの追求ではなく、非8ビートのようなグルーヴをどうやってバンドに取り入れるかということに野心的になった。
その代わりコードの進行は単純に繰り返すことが増えていった。クラッチやブレーキーの演奏力は上がって、フレーズを合わせるのは早くなっていったが、私の歌詞が長くなって結局曲が長くなるのは変わらなかった。
いつしか時は流れクラッチが移住を決めて以降、我々は西荻リンキーディンクスタジオで集まることがなくなった。20代の頃は必ず週に1度、多い時は2度、スタジオに入り顔を合わせていたが、バンドが売れることはなく、それぞれの生活ができ始め、集まりは月に1度またはライブの前に1度、というようにシフトしていかざるを得なかった。
私の脳裏に流れるメロディーや曲を、バンドで再現させる力は、クラッチとブレーキーともがき苦しんでいた時代より若干上がったような気がするが、昔のように次々と新曲を作って披露していかねば、という脅迫感もなくなってしまった。
時々ふと、あの時のように他のことは何も考えずに3人で時間をかけてセッションしながらまた曲作りができたらな、などとセンチメンタルになることもある。逆にあの時じゃなきゃ、あんな風に不器用にセッションを繰り返しでもしないと、初期のような奇抜な曲たちも完成しなかったと思う。何かの拍子に昔の曲を演奏する時、よくぞこんな曲を作ったもんだ、と不思議になるのである。
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