ROAD to 小川町 第6話 物件ツアーと台湾旅行

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2/8に新居の売買契約が無事済んで、私は家を買った、という事実を懐に常に高揚していた。20代の頃は思いもよらなかったマイホーム、である。しかも東京からそこそこ離れた田舎に、である。更に言えば、まだその地には初めて訪れてから3ヶ月も経っておらず、価格も私の想定した予算の半分ほどなのである。

先に小川町に移住を決めてリフォームしながら入居準備を続けていたヒーさんも、小川町をヒーさんや私に勧めたはるかちゃんとしゅうくんも、長尾くんマジか! と驚きを隠さない。私はそんな彼らを驚かせている痛快さを愉快に味わっていた。昔から人を驚かせるのが好きだったことを思い出した。赤い疑惑というバンドを始めた頃だって、ただただ周囲の連中を驚かせたい、という欲求に突き動かされていたんだっけ…。

売買契約は済んだものの、いろいろな手続きや法的な問題で実際に入居できるのは3月下旬くらいだろう、と不動産屋のSさんに言われていたので、私はお預け状態にされたようなものだったが、そのお預け状態を愉しもう、という気持ちの余裕すらあった。

隠し事が苦手な私は、仕事で話す同僚にマイホームのことを控えめに自慢し、ツイッターでもがんがん呟いた。私のような寄り道人生の男でも家を買えたということは伝えなければならない、とさえ思っていた。

そんな中、小川町のことをネットで調べていたピーさんの提案で、小川町の移住サポートセンターという組織の企画する空き物件見学ツアーなるイベントに我々は参加することにした。お店をすぐに開きたい、というのではないけど、ピーさんの夢はいつか自分の食堂を開くことなのであり、そのための偵察という目的半分、そしてただ単純に小川町のことをもっと知りたい、という夫婦共通の好奇心半分。

2/15、天気は快晴でお出かけ日和だった。待ち合わせの小川町図書館の2階、何やら会議室のような部屋にツアー参加希望者が集まっていた。進行役の司会に促されて参加者は胸に名札をつけた。我々の他に子連れの親子は1組。他はもう少し年配の人が多く、goodyearのキャップを被った青年が1人浮いた感じで、若い人はそれくらいだった。

案内人について小川町の駅前通り、駅前通りとTの字でぶつかる往時(小川町は武蔵の小京都と呼ばれ、酒と紙すきの町として近代まで繁栄していた)の目抜き通りを中心に何店舗かの空き物件を見学していく。小川町の駅周辺は、車で通ったことこそあれど、歩いて仔細に眺めるのは初めてである。

昭和初期に建てられたであろう古ぼけた商店が並び、たまにもっと古くからありそうな、格子造りが美しい店もチラホラ。こういう雰囲気は私は大好きで写真を撮りまくるが、実情営業している店は3割ほどで、この町の過疎化、高齢化は現在進行中であることが分かる。

そういった冬眠中の店舗の幾つかを見せてもらい、ここは飲食店ができるとか、そうじゃないとか、大家さんがどうこうという話を聞くのだが、ビックリするのは賃料の安さである。どの物件も3万〜5万くらいだといい、東京の賃料の半額、または1/3、1/4である。ピーさんは自分の店を持つことが夢だが、賃料の高い東京で店をやるのはリスキーで私は不安だった。だが、これくらいの賃料ならいろいろと自由度が上がるはずだ。

ツアーの最中に子連れのY親子に話しかけてみたら、親同士より先にさっさと子供同士が仲良くなってしまい、私達は驚いた。Nちゃんはこと子より3歳年上の女の子で、私は3歳も歳が違えば遊び方もいろいろ違うのかと思っていたが、そんな垣根はない様子だった。子どもらのおかげで改めて我々はYさんといろいろ話すことができた。ツアーに参加したのは小川町の知り合いを作りたいという付随的な意図もあったのだ。

一通り店舗見学が終わると評判だというカレー屋さんでランチをして解散という流れだった。我々は帰りがけgoodyearのキャップを被っていた青年と何となく、どうも、どうも、という感じで挨拶することになり、その時は何となく連絡先を交換して別れた(彼はせいじろうと云って後日いろいろと交流が生まれることとなる)。

3月の上旬、私達は10日ほど休みを取って台湾旅行に行く予定を組んでいた。これは移住云々の話しが出る前から計画してしまっていたもので、出費やら何やら、仮に先に移住することが決まっていたらさすがに控えていただろう。海外旅行自体はピーさんの、娘を産む前にもう一度行っておきたい、という野望に基づいていた訳だが行くことを決めてからは私も大きな楽しみになっていた。

ところが、1月から徐にニュースで取り上げられていた中国発のコロナウィルスの感染拡大が2月下旬になると世界的に騒がれ始めた。私は旅行を中止するほどではなかろう、と甘く見ていたが、台湾政府が海外からの渡航者に対して渡航の条件を設けるアナウンスを発表した。それによると海外からの渡航者には日毎の検温や行動記録作成、マスク着用義務など旅行気分を台無しにするようなことが沢山盛り込まれている…。

勢い任せな性格の私もこれを読んで勇み足を踏んだ。ピーさんと2人で、ずっと楽しみにしていたイベントがのっぴきならない理由で消滅してゆくような切ない気持ちを確認し合い愕然とした。キャンセルするべきだろう、と神も囁いているのである。

3歳の娘を持つ大人になってしまった私はもはや大人しく中止を決断した。今回買った航空券にキャンセル保証というサービスを付加していた私の行動に、我ながら、大人になったな、と感心した。キャンセルしても8割の金額が返金されるサービスなのだ。これはトラブルの起こりやすい格安航空券を買うに当たって気を揉むことのないように、過去の経験を生かした結果でもあったのだ。

ところが、である。我々がインターネットで選んだその格安航空券のチケット代理店がとんでもない杜撰な会社だったことが、キャンセル保証の適用を依頼するための電話で判明した。電話口はどうもカタコトの日本語を話す女性の声だ。私は何だか嫌な予感がしていた。

私が、今回のウィルス騒ぎの影響で旅行を中止したこと、キャンセル保証に入っていたのでキャンセルをお願いしたい旨を伝えると、
「オキャクサマ、コンカイノコロナウィルスノカンセンカクダイニヨルキャンセルハ、キャンセルホショウノテキヨウガイトナリマス…」
と台詞を読むように言うのである。私は一瞬訳が分からなくなったが、すぐに、いやいやいや、そんなおかしな道理があるかよ、と思い直し、担当の女性に、ひたすらクレームした。

自分はこんなような、のっぴきならない事情でキャンセルすることもあり得ると考えてキャンセル保証代を払っていることをなるべく冷静に伝え、コレハカイシャガキメタコトナノデ、と惚ける女性に、そんなのおかし過ぎる、あり得ないだろ、と後半はキレ口調にシフトしたものの、それ以上電話口のアルバイトさんに何言ってもダメなことを察知して電話を切った。

それからTwitterでこの状況を呟いたり騒いだり、周囲から同情されたり、アドバイスを受けたり、チケット代理店にいろんなカタチでアプローチを試みたがのれんに腕押し。絶望的だと思ったのは、その会社がバルセロナに本社を置く海外の会社で、いわゆる日本オフィスなどというものはない、と分かった時。日本人客向けには日本語を覚えた安い労働力の中国人女性に電話番させてるだけで、クレームが酷いと本社に直接言ってくれ、という流れに持ち込み、本社にメールを送っても返信などない、と分かった時である。

台湾往復、大人2名、子ども1名の格安航空券代は約10万円。家を買うなどという、私史上未曾有の買い物を済ませたタイミングですっかり上々になっていた私の気持ちは揺さぶられた。調子に乗っていると痛い目に遭う、という私の経験則が適用されているのではないか、という不安が私を襲い、去年厄年、今年後厄、何故か私は小川町の移住にこの先何か予期せぬ問題が起こるのではないか、とすら案じるほどだった。つづく
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