バンドマンに憧れて 第45話 知名度とメディア、そして斜陽
赤い疑惑が、集客的な側面で最も人気があったのは1stアルバムをリリースしてしばらくの間であった。年齢的にも20代前半から中盤という感じで、同世代のお客さんとしても1番ライブハウスに足を運ぶことの多い時代だろう。
その頃はライブが決まるとホームページやフライヤーで告知していたが、メールアドレスを通じて外部から前売りチケットの予約がある程度あったのだ。友人知人へは直接メール告知などしていたが、知らない人からの予約がメールで届くと感動したものだった。ライブの本数も増えて赤い疑惑の名前も、ことインディーズシーンの一部では知られるようになった。
私はバンドが売れることを1つの目標にしていたので、名前が知られていく感じにはいつも胸を膨らませていた。このままジワジワと有名になっていけばいつかは…。
そんな折、大学の友人(赤い疑惑の前身バンドGUTSPOSEというバンドでベースを弾いていた)からTV出演のチャンスがもたらされた。彼の仕事の繋がりで、我々にその気があればとあるバンドバトル番組に出られるというのだった。
筋金入りのハードコアバンドならテレビ出演など中指を立てるところなのだろうが、バンドで売れることが目標だった私はこんなチャンスを逃す手はない、とその誘いを受けることにした。コネとはいえ、番組制作スタッフの面接があるということだった。もはや何を話したのか内容を思い出せないが、夢中で自分のバンドとフリーターに関する熱い想いを喧伝するようなことをいわゆるギョーカイ系の面接スタッフに訴えたのだと思う。結果、番組に出られることとなった。
放映は東京テレビ。収録は東京タワーの中のスタジオだった。番組は2組のインディーズアーティストがそれぞれ1曲ずつ演奏し、エキストラの観客がどっちがよかったかを判断するという、よくありがちな内容だった。我々はもちろん「東京フリーターブリーダー」でいくことに決めていた。
収録スタジオのステージから見下ろす、どこかから集められたエキストラはテープで区切られた区画の中にきっちりと収められ、静かにこちらを観ている。拍手などの挙動はスタッフのカンペ通りになされるらしく、どうにも気味が悪かった。
私はいつものライブハウスとは違った空気の中、なるべくそういうことは気にしないように演奏した。そこまで悪い演奏ではなかったし、対戦相手の、ゆずチルドレンのようなアコースティックデュオの陳腐なポップソングと比べたら、個性では圧倒的にオレらの方が優ってただろう、とほぼ勝ちを確信した。
しかし結果は完敗だった。どうでもいいことだが、我々を打ち負かしたヤドカリというアコースティックデュオはその後順調に売れてメジャーデビューしたとか…。
民放テレビに出たのはそれっきりなのだが、何とその前後に朝日新聞からバンドの取材をしたい、とのオファーがあった。赤い疑惑が出した「東京フリーターブリーダー」という1stアルバムを知って、「夢を追いかけるフリーター」をテーマに取材させてくれないか、というのである。
私は来たか、来たか、という感じで歓喜し、渡りに船とばかりに取材に応じることにした。記者は私がその折居候していた田無の実家にわざわざ話を聞きに来た。丁寧で真面目そうな記者だった。私は大学で就職活動をせずフリーターになり、親に呆れられながらバンド活動を始め、いまだ成功して売れることもなく、つい最近母親に癌で死なれ、などという来し方を話した。
記者はその後、練習しているスタジオにお邪魔させてもらって写真を撮らせてくれ、というのでそれも承諾したのだが、撮影の当日、私とクラッチがまさかの寝坊、普段遅刻魔の沓沢ブレーキーだけが時間通りスタジオに来ていた。寝坊してパニックになりつつも原付をかっ飛ばして遅刻してスタジオに行くと記者の苦笑い。おまけにクラッチは撮影に間に合わず私とブレーキー2人だけの不完全な演奏を披露する羽目となった。
よって掲載された記事には私とブレーキーだけが写っていてベーシストはフレームアウトした間抜けな体になっていた。フリーターだけど夢を見て真面目に頑張っているオレたちをみてくれ、という記事なのにメンバー2人も遅刻で記者もさぞがっかりしたことだろう。問題の本稿は、寛容な記者によってまともな記事に仕立て上げてもらったが、私は夢見るフリーター達に申し訳ない気持ちにさえなった…。
さて、バンドをやっているとたまに、ギャラってどれくらい貰えるんですか? ということを聞かれることがある。我々レベルだとバンドで3,000円〜5,000円くらい。客が沢山入れば10,000円出ることもある。地方に行くと交通費を気持ち乗っけてくれて20,000円くらい。そんなものである。
ちなみに1回のライブで今まで1番もらったのは渋谷クラブASIAで「デメキング」という漫画原作映画の公開記念ライブに出た時のギャラ。当時人気急上昇中だった相対性理論というバンドとオシリペンペンズが対バンで金額は10万円だったのだ。本番は相対性理論目当ての客ばかりで、赤い疑惑の客はほとんどいなかったはずだがこれはラッキーだった。まあそんな高額なギャラは一度きり。ギャラか出ないことだっていくらでもある世界である。
また、同じ時期に思い出深いのが、岐阜で行われていた小規模野外フェスのOTONOTANIというイベント。野外イベント出演の好機を狙っていた我々がそのイベントに働きかけたところ、とんとん拍子で出られることが決まった。企業やスポンサーの介入しない、手づくりの素敵なイベントだったが、スタッフや集まったお客さんにやたら気に入られ、2度目か3度目の出演時はメインステージのトリをやることになった。
しかもライブ内容もことのほかうまくできて、ライブが終わると、握手してくれ、CDにサインしてくれなどとステージ前に行列ができた。私は尻のこそばゆい気持ちになりながらもこれが伝説の始まりなんじゃないか、とまた調子に乗った。
そんな風にしてこの時期、赤い疑惑はちょっとした活躍ぶりだった。私の営業努力というものもその頃までは元気があって、「楽しい中央線」というサブカル誌の突撃バイト特集のモデルをやったり(数回やったがギャラが出ず結構しんどいので途中辞退した)、スペースシャワーTVに出たり、ラジオに出してもらったりなど、今じゃ想像できないような営業活動もしていたので、それらも総合して少し知られるようになったみたいだった。
しかし、バンド知名度の伸びはその辺で頭打ちだったらしい。次第にライブにお客さんが集まらなくなってゆくのに大した時間はかからなかった。
赤い疑惑は仲良しのバンドがほとんどいなかったし、シーンのようなところにも属する機会がなかった。故に私は孤立感を勝手に深めた。音楽的にはパンクロックベースのミクスチャー路線を狙って、初めは苦戦したが3人で段々といい音楽が作れるようになってきている、という自信めいたものも生まれていた。しかしライブに誘ってもらってもお客さんが入らないようなことが続くと自分の音楽への自信が揺らぎ続けた。
バンドで成功して親孝行するという浅はかな、青年期のおぼろげな夢は母の死をもって泡となり、集客の減退は私のバンドに関する営業活動をも減退させていった。
当時私は付き合っていた女性があり、私は結婚したいと思っていた。母の死がそうしむけたところもあり、それまで抱いたことのなかった「子を持つ」ことへの願望すらも芽生え始めている自分に気づいた。しかし、このフリーターでバンドマンという体たらくでその願望を成就することは容易ではないように思い、私は悩んだ。そしてバンドで食っていくという、私がしがみついていた夢を手放さなければいけない時期がもうそこまで来ているのを何となく自覚し始めていくのだった。
その頃はライブが決まるとホームページやフライヤーで告知していたが、メールアドレスを通じて外部から前売りチケットの予約がある程度あったのだ。友人知人へは直接メール告知などしていたが、知らない人からの予約がメールで届くと感動したものだった。ライブの本数も増えて赤い疑惑の名前も、ことインディーズシーンの一部では知られるようになった。
私はバンドが売れることを1つの目標にしていたので、名前が知られていく感じにはいつも胸を膨らませていた。このままジワジワと有名になっていけばいつかは…。
そんな折、大学の友人(赤い疑惑の前身バンドGUTSPOSEというバンドでベースを弾いていた)からTV出演のチャンスがもたらされた。彼の仕事の繋がりで、我々にその気があればとあるバンドバトル番組に出られるというのだった。
筋金入りのハードコアバンドならテレビ出演など中指を立てるところなのだろうが、バンドで売れることが目標だった私はこんなチャンスを逃す手はない、とその誘いを受けることにした。コネとはいえ、番組制作スタッフの面接があるということだった。もはや何を話したのか内容を思い出せないが、夢中で自分のバンドとフリーターに関する熱い想いを喧伝するようなことをいわゆるギョーカイ系の面接スタッフに訴えたのだと思う。結果、番組に出られることとなった。
放映は東京テレビ。収録は東京タワーの中のスタジオだった。番組は2組のインディーズアーティストがそれぞれ1曲ずつ演奏し、エキストラの観客がどっちがよかったかを判断するという、よくありがちな内容だった。我々はもちろん「東京フリーターブリーダー」でいくことに決めていた。
収録スタジオのステージから見下ろす、どこかから集められたエキストラはテープで区切られた区画の中にきっちりと収められ、静かにこちらを観ている。拍手などの挙動はスタッフのカンペ通りになされるらしく、どうにも気味が悪かった。
私はいつものライブハウスとは違った空気の中、なるべくそういうことは気にしないように演奏した。そこまで悪い演奏ではなかったし、対戦相手の、ゆずチルドレンのようなアコースティックデュオの陳腐なポップソングと比べたら、個性では圧倒的にオレらの方が優ってただろう、とほぼ勝ちを確信した。
しかし結果は完敗だった。どうでもいいことだが、我々を打ち負かしたヤドカリというアコースティックデュオはその後順調に売れてメジャーデビューしたとか…。
民放テレビに出たのはそれっきりなのだが、何とその前後に朝日新聞からバンドの取材をしたい、とのオファーがあった。赤い疑惑が出した「東京フリーターブリーダー」という1stアルバムを知って、「夢を追いかけるフリーター」をテーマに取材させてくれないか、というのである。
私は来たか、来たか、という感じで歓喜し、渡りに船とばかりに取材に応じることにした。記者は私がその折居候していた田無の実家にわざわざ話を聞きに来た。丁寧で真面目そうな記者だった。私は大学で就職活動をせずフリーターになり、親に呆れられながらバンド活動を始め、いまだ成功して売れることもなく、つい最近母親に癌で死なれ、などという来し方を話した。
記者はその後、練習しているスタジオにお邪魔させてもらって写真を撮らせてくれ、というのでそれも承諾したのだが、撮影の当日、私とクラッチがまさかの寝坊、普段遅刻魔の沓沢ブレーキーだけが時間通りスタジオに来ていた。寝坊してパニックになりつつも原付をかっ飛ばして遅刻してスタジオに行くと記者の苦笑い。おまけにクラッチは撮影に間に合わず私とブレーキー2人だけの不完全な演奏を披露する羽目となった。
よって掲載された記事には私とブレーキーだけが写っていてベーシストはフレームアウトした間抜けな体になっていた。フリーターだけど夢を見て真面目に頑張っているオレたちをみてくれ、という記事なのにメンバー2人も遅刻で記者もさぞがっかりしたことだろう。問題の本稿は、寛容な記者によってまともな記事に仕立て上げてもらったが、私は夢見るフリーター達に申し訳ない気持ちにさえなった…。
さて、バンドをやっているとたまに、ギャラってどれくらい貰えるんですか? ということを聞かれることがある。我々レベルだとバンドで3,000円〜5,000円くらい。客が沢山入れば10,000円出ることもある。地方に行くと交通費を気持ち乗っけてくれて20,000円くらい。そんなものである。
ちなみに1回のライブで今まで1番もらったのは渋谷クラブASIAで「デメキング」という漫画原作映画の公開記念ライブに出た時のギャラ。当時人気急上昇中だった相対性理論というバンドとオシリペンペンズが対バンで金額は10万円だったのだ。本番は相対性理論目当ての客ばかりで、赤い疑惑の客はほとんどいなかったはずだがこれはラッキーだった。まあそんな高額なギャラは一度きり。ギャラか出ないことだっていくらでもある世界である。
また、同じ時期に思い出深いのが、岐阜で行われていた小規模野外フェスのOTONOTANIというイベント。野外イベント出演の好機を狙っていた我々がそのイベントに働きかけたところ、とんとん拍子で出られることが決まった。企業やスポンサーの介入しない、手づくりの素敵なイベントだったが、スタッフや集まったお客さんにやたら気に入られ、2度目か3度目の出演時はメインステージのトリをやることになった。
しかもライブ内容もことのほかうまくできて、ライブが終わると、握手してくれ、CDにサインしてくれなどとステージ前に行列ができた。私は尻のこそばゆい気持ちになりながらもこれが伝説の始まりなんじゃないか、とまた調子に乗った。
そんな風にしてこの時期、赤い疑惑はちょっとした活躍ぶりだった。私の営業努力というものもその頃までは元気があって、「楽しい中央線」というサブカル誌の突撃バイト特集のモデルをやったり(数回やったがギャラが出ず結構しんどいので途中辞退した)、スペースシャワーTVに出たり、ラジオに出してもらったりなど、今じゃ想像できないような営業活動もしていたので、それらも総合して少し知られるようになったみたいだった。
しかし、バンド知名度の伸びはその辺で頭打ちだったらしい。次第にライブにお客さんが集まらなくなってゆくのに大した時間はかからなかった。
赤い疑惑は仲良しのバンドがほとんどいなかったし、シーンのようなところにも属する機会がなかった。故に私は孤立感を勝手に深めた。音楽的にはパンクロックベースのミクスチャー路線を狙って、初めは苦戦したが3人で段々といい音楽が作れるようになってきている、という自信めいたものも生まれていた。しかしライブに誘ってもらってもお客さんが入らないようなことが続くと自分の音楽への自信が揺らぎ続けた。
バンドで成功して親孝行するという浅はかな、青年期のおぼろげな夢は母の死をもって泡となり、集客の減退は私のバンドに関する営業活動をも減退させていった。
当時私は付き合っていた女性があり、私は結婚したいと思っていた。母の死がそうしむけたところもあり、それまで抱いたことのなかった「子を持つ」ことへの願望すらも芽生え始めている自分に気づいた。しかし、このフリーターでバンドマンという体たらくでその願望を成就することは容易ではないように思い、私は悩んだ。そしてバンドで食っていくという、私がしがみついていた夢を手放さなければいけない時期がもうそこまで来ているのを何となく自覚し始めていくのだった。