アクセルの育児記 第33話 ふみとこと子
生後半年を越えたあたりから次女ふみの存在感が著しく大きくなってきた。それまでママとおっぱいへの執着一辺倒だったのが、私やこと子のアプローチに対して笑顔を向けて反応してくれるようになった。こと子の時も同様であったが、我が幼子の全力の笑顔を眺めると、自然と我が頬肉だらしなく緩み、仕事明け帰宅時などはその日の疲労などその笑顔で一瞬で吹っ飛ぶくらいの力がある。
私はふみと微笑みあっているうちに笑顔の偉大さというものを再認識させられた。赤ちゃんの感情表現にとって笑顔になる、というのは他の何よりも具体的でエモーショナルである。そして赤ちゃんの笑顔を前にして大概の人はその超純粋無垢な何かにやられ自然と自分も笑顔になってしまうだろう。私のように大人の社会や常識にパンクという武器で楯突いてきたようなボンクラですらその笑顔には1発KOなのである。
おっぱい以外にまだ何も吸収できない赤ちゃんだが、周囲のいろんな人の笑顔だけは簡単に、まるで生きるために必要な栄養であるかのように吸収していくようにも見える。沢山笑顔になるだけその子の表情は豊富になり、豊かな人生が送れるんじゃないか、という気さえしてくる。そう気づいてから私がふみに捧げる笑顔も度を越して、自分でも過剰気味に感じられるほどになってきている。
またふみはよく声を出して笑うようにもなってきていて、「へへっ、へへっ」とか、「きゃっ、きゃっ」とかやるのだけど、私の場合それを引き出せるのは高い高いをした時くらいなのだ。こと子の時も感心したものだが、ピーさんはその点いろんなテクニックでこの笑いを引き出していて、私が同じことを真似してもダメだったりする。注目すべきはこと子で、こと子が子どものテンションで同じことをするとふみは大興奮するのだ。こと子が1人でただふざけているだけでも、それを見て奇声を上げてふみが笑ったりしているのを見ると、やはり子ども同士でしか通じないコミュニケーション能力や楽しさというものが歴然とあるのだなぁ、と実感する。私はそんな2人の様を見ているのが好きで、このコラボがこの先どんな風に展開していくのかを想像するとホントに楽しみである。
腰も座り、ついには這ってそこら中を蠢き出したふみ。育児用語ではずり這いという、らしい。所謂匍匐前進である。母親の行く後を、または母親の姿を探し、このずり這いで進むことを後追いという、らしい。これはなかなか迫力がある。母の姿を見つけたらそこまでまっしぐらに進む。1度スイッチが入れば他のものは目に入らない。畳だろうが床だろうが勇敢に近づいていく…。ちゃぶ台の下も何故か好きで、頭をゴツゴツぶつけて泣きながら獲物を探したりしている。
手も器用になってきてそこら中のモノを掴んでは舐めしゃぶり、舐めしゃぶっては掴んでみる。振ったり、叩いたり、感触を確かめている。
ちゃぶ台でご飯を食べていると、当然大人やこと子がモグモグやっているものが滅法気になって手を伸ばす。畳敷きで純和風の我が家はちゃぶ台なので、ずり這いの赤ちゃんでも上半身を起こせば、ちゃぶ台の縁あたりに載っているものなら簡単に手が届く。すでに何度か皿やコップをひっくり返された。小さな怪獣期に入ったということである。
お姉ちゃんになったこと子はおしゃべりが堪能になり、ひらがなを覚えてかるたにハマっていた。先日は同い年のたねちゃんとかるたバトルをして、僅差で負けて泣いていたが、たまたま東京から来ていてそれを見ていた私の父が興奮し、「こと子負けるなー!」と余計な声援を外野でまくしたてていたのはおかしかった。たまにしか会わない父にとってこと子の成長ぶりは急展開なのだろう。
こと子は洗濯物を干したり、きゅうりを切ったり、気まぐれで家事の手伝いを申し出てくれるようにもなった。気まぐれだし、本気じゃないから助かる時もあるが使いものにならないことも多い。
皿洗い専門の私のところへ来て、お手伝いするー、という。邪魔だし余計時間かかりそうなので断るのもありだが、折角の奉仕の芽を潰すのもどうかと思うので、じゃあ、とスポンジを渡し洗剤で泡だててやる。私はアクリルタワシと亀の子でほとんど洗剤は使わないのだが、隣りで作業しているとこと子は泡のついたスポンジで同じ皿をずっと撫でている。(そんなんじゃ皿洗いにならねえじゃん)と思い私は隣で言葉を探す。
「あのさ、もっと力入れてゴシゴシやらないとだめだよ」
私はイライラしながらこと子が撫でていた皿を取り上げて流しながらもう1度ゴシゴシする。こと子の手伝いアピールもポーズなので少ししたら、あとはトトやって、と言ってどっかへ行ってしまう。
ある時、車で出かけていると向こうの丘の寺に観音様が見えた。それなりの大きさで遠くからでも目立つくらいである。私は「観音様だよ」というとこと子は「カンノンサマ?」と不思議がり、なお興味を持ってる風なので、「アレは神様の一種だよ」とざっくり教えてあげる。観音様は神様のようなもので間違いないと思ったが、改めて考えると定義も何も知らない。分かるのは女性だということだけだ。そしてこと子が観音様に興味を持ったのは綺麗なドレス(袈裟?)を着ているからなのだ。
私はまた別の機に、気になってきて観音様をググってみた。すると、観音様が女性という定義はそもそもなく、男性というよりむしろ性を超越した存在であると書いてあった。こと子にこれが観音様だよ、と改めて画像検索の結果をスマホで見せるとすっかり観音様のビジュアルに魅せられたようで次から次へと見ている。ねえ、これは何本手があるの?と聞かれ、見てみると6本ある。アレ、観音様は阿修羅だっけ、と私は訳が分からなくなってくる。じゃあ、コレは?とこと子が見せてきた画像を見るともはや手が沢山ありすぎて数えられるような代物ではない…。どういうことだろう、困惑したものの私は、あれ千手観音か、となるまで、時間がかかった。
早いもので今年も年の瀬。クリスマスが近づいてきて私は凄い事に気づいた。東京にいた時はホントに鬱陶しいなぁ、と思っていたクリスマス商戦の煽りがこっちに来てから全くないのである。転職して植木屋になった私は電車にも乗らないため駅に出ることもなくなった。するとクリスマスのことを意識する機会は近所のスーパー、ヤオコーのクリスマス売り場だけになった。
私はクリスマスなぞこれくらいがちょうどいい、田舎最高、と思って満足していたら、こと子がクリスマスコーナーで、オラ(こと子の一人称は長いことオラである)サンタさんにこれもらうの、といってある商品を指さした。見てみると、ときめきキッチンセットとあってキッチンおままごとのおもちゃである。金額を見てみると1400円くらいである。そうなんだ、と答えながら、(え、こんな安くていいの? しかもヤオコーでいいの?)と私がときめいてしまった。過去に誕生日やら何やらでリカちゃん買ったりしてたけど、そういうブランドおもちゃじゃなくてもこのくらいの歳だと気に入れば何でもいいわけで、私は何となくホクホクしてクリスマス最高じゃん、となった。
クリスマスイブに寝静まったプレゼントをこと子の寝床に置いて、朝仕事に出かけた。仕事から帰ってくると、こと子が走ってきて開口一番、トトー、見てー、サンタさんにこれもらったの、と大興奮である。へえ〜、そうなんだ、よかったねー、と芝居を打つ私。嘘をつく罪悪感を味わった。もう幾つ寝るとお正月である。
私はふみと微笑みあっているうちに笑顔の偉大さというものを再認識させられた。赤ちゃんの感情表現にとって笑顔になる、というのは他の何よりも具体的でエモーショナルである。そして赤ちゃんの笑顔を前にして大概の人はその超純粋無垢な何かにやられ自然と自分も笑顔になってしまうだろう。私のように大人の社会や常識にパンクという武器で楯突いてきたようなボンクラですらその笑顔には1発KOなのである。
おっぱい以外にまだ何も吸収できない赤ちゃんだが、周囲のいろんな人の笑顔だけは簡単に、まるで生きるために必要な栄養であるかのように吸収していくようにも見える。沢山笑顔になるだけその子の表情は豊富になり、豊かな人生が送れるんじゃないか、という気さえしてくる。そう気づいてから私がふみに捧げる笑顔も度を越して、自分でも過剰気味に感じられるほどになってきている。
またふみはよく声を出して笑うようにもなってきていて、「へへっ、へへっ」とか、「きゃっ、きゃっ」とかやるのだけど、私の場合それを引き出せるのは高い高いをした時くらいなのだ。こと子の時も感心したものだが、ピーさんはその点いろんなテクニックでこの笑いを引き出していて、私が同じことを真似してもダメだったりする。注目すべきはこと子で、こと子が子どものテンションで同じことをするとふみは大興奮するのだ。こと子が1人でただふざけているだけでも、それを見て奇声を上げてふみが笑ったりしているのを見ると、やはり子ども同士でしか通じないコミュニケーション能力や楽しさというものが歴然とあるのだなぁ、と実感する。私はそんな2人の様を見ているのが好きで、このコラボがこの先どんな風に展開していくのかを想像するとホントに楽しみである。
腰も座り、ついには這ってそこら中を蠢き出したふみ。育児用語ではずり這いという、らしい。所謂匍匐前進である。母親の行く後を、または母親の姿を探し、このずり這いで進むことを後追いという、らしい。これはなかなか迫力がある。母の姿を見つけたらそこまでまっしぐらに進む。1度スイッチが入れば他のものは目に入らない。畳だろうが床だろうが勇敢に近づいていく…。ちゃぶ台の下も何故か好きで、頭をゴツゴツぶつけて泣きながら獲物を探したりしている。
手も器用になってきてそこら中のモノを掴んでは舐めしゃぶり、舐めしゃぶっては掴んでみる。振ったり、叩いたり、感触を確かめている。
ちゃぶ台でご飯を食べていると、当然大人やこと子がモグモグやっているものが滅法気になって手を伸ばす。畳敷きで純和風の我が家はちゃぶ台なので、ずり這いの赤ちゃんでも上半身を起こせば、ちゃぶ台の縁あたりに載っているものなら簡単に手が届く。すでに何度か皿やコップをひっくり返された。小さな怪獣期に入ったということである。
お姉ちゃんになったこと子はおしゃべりが堪能になり、ひらがなを覚えてかるたにハマっていた。先日は同い年のたねちゃんとかるたバトルをして、僅差で負けて泣いていたが、たまたま東京から来ていてそれを見ていた私の父が興奮し、「こと子負けるなー!」と余計な声援を外野でまくしたてていたのはおかしかった。たまにしか会わない父にとってこと子の成長ぶりは急展開なのだろう。
こと子は洗濯物を干したり、きゅうりを切ったり、気まぐれで家事の手伝いを申し出てくれるようにもなった。気まぐれだし、本気じゃないから助かる時もあるが使いものにならないことも多い。
皿洗い専門の私のところへ来て、お手伝いするー、という。邪魔だし余計時間かかりそうなので断るのもありだが、折角の奉仕の芽を潰すのもどうかと思うので、じゃあ、とスポンジを渡し洗剤で泡だててやる。私はアクリルタワシと亀の子でほとんど洗剤は使わないのだが、隣りで作業しているとこと子は泡のついたスポンジで同じ皿をずっと撫でている。(そんなんじゃ皿洗いにならねえじゃん)と思い私は隣で言葉を探す。
「あのさ、もっと力入れてゴシゴシやらないとだめだよ」
私はイライラしながらこと子が撫でていた皿を取り上げて流しながらもう1度ゴシゴシする。こと子の手伝いアピールもポーズなので少ししたら、あとはトトやって、と言ってどっかへ行ってしまう。
ある時、車で出かけていると向こうの丘の寺に観音様が見えた。それなりの大きさで遠くからでも目立つくらいである。私は「観音様だよ」というとこと子は「カンノンサマ?」と不思議がり、なお興味を持ってる風なので、「アレは神様の一種だよ」とざっくり教えてあげる。観音様は神様のようなもので間違いないと思ったが、改めて考えると定義も何も知らない。分かるのは女性だということだけだ。そしてこと子が観音様に興味を持ったのは綺麗なドレス(袈裟?)を着ているからなのだ。
私はまた別の機に、気になってきて観音様をググってみた。すると、観音様が女性という定義はそもそもなく、男性というよりむしろ性を超越した存在であると書いてあった。こと子にこれが観音様だよ、と改めて画像検索の結果をスマホで見せるとすっかり観音様のビジュアルに魅せられたようで次から次へと見ている。ねえ、これは何本手があるの?と聞かれ、見てみると6本ある。アレ、観音様は阿修羅だっけ、と私は訳が分からなくなってくる。じゃあ、コレは?とこと子が見せてきた画像を見るともはや手が沢山ありすぎて数えられるような代物ではない…。どういうことだろう、困惑したものの私は、あれ千手観音か、となるまで、時間がかかった。
早いもので今年も年の瀬。クリスマスが近づいてきて私は凄い事に気づいた。東京にいた時はホントに鬱陶しいなぁ、と思っていたクリスマス商戦の煽りがこっちに来てから全くないのである。転職して植木屋になった私は電車にも乗らないため駅に出ることもなくなった。するとクリスマスのことを意識する機会は近所のスーパー、ヤオコーのクリスマス売り場だけになった。
私はクリスマスなぞこれくらいがちょうどいい、田舎最高、と思って満足していたら、こと子がクリスマスコーナーで、オラ(こと子の一人称は長いことオラである)サンタさんにこれもらうの、といってある商品を指さした。見てみると、ときめきキッチンセットとあってキッチンおままごとのおもちゃである。金額を見てみると1400円くらいである。そうなんだ、と答えながら、(え、こんな安くていいの? しかもヤオコーでいいの?)と私がときめいてしまった。過去に誕生日やら何やらでリカちゃん買ったりしてたけど、そういうブランドおもちゃじゃなくてもこのくらいの歳だと気に入れば何でもいいわけで、私は何となくホクホクしてクリスマス最高じゃん、となった。
クリスマスイブに寝静まったプレゼントをこと子の寝床に置いて、朝仕事に出かけた。仕事から帰ってくると、こと子が走ってきて開口一番、トトー、見てー、サンタさんにこれもらったの、と大興奮である。へえ〜、そうなんだ、よかったねー、と芝居を打つ私。嘘をつく罪悪感を味わった。もう幾つ寝るとお正月である。