ROAD to 小川町 第7話 マイホーム、マイカー、マイストラグル
2020年3月中旬、不吉な台湾旅行のキャンセルの直後、赤い疑惑は吉祥寺でライブの予定があった。企画者から、コロナ感染者が増えてきているが、開催するべきかいなか悩んでいる、と相談があった。結局イベントは決行されたのだがCOVIDウィルスが世の中のあり方を根底から揺すぶってきているのが、ジワジワと実感されるようだった。
我々は航空券の悪徳チケット代理店に腹を立て、クレームの電話をかけ続けながらも、それとは別にこれからの移住のことをしっかり段取りする必要があった。新居の引き渡しは3月下旬に決まっていたのだが、次女の出産予定日が5月下旬。4月の前半にピーが山形の実家に里帰りし、無事生まれれば戻りが6月下旬と踏んでいた。引越しのタイミングで悩んだが、新居は風呂が要リフォームだったので、ピーの里帰り後に私が引越しを開始し、新居と田無を往復しながら風呂のリフォームを進め、妻子が新生児と戻ってくる6月下旬には風呂のリフォームを完成させる、というのが大筋となった。
また、この頃、オヤジから新居の購入費用の頭金だしてやるぞ、という嬉しい提案があった。私は断る理由もなく頭を下げて受け入れたが、後日、本人が「あの、この前話した頭金の話しだけど」と言い、間を置いてから「頭金の代わりに車をやる、っていうのでどう?」と改訂案を出してきた。一瞬私は、頭金とあの車とどちらを貰った方が得策なのか予想してみたが、父の乗っているトヨタのノアは、私からしたら高級車であって、格安物件の頭金より値打ちがありそうに思えたので、私はその改訂案を受け入れることにした。
こうして私は晴れて車持ちとなった。20代から今まで車を持つなどということは夢のまた夢。私の足を根強く支え続けてくれたのはホンダの安い原付き1台だったので、この急転直下のプレゼントは私を雀躍させた。というのも移住先の小川町近隣は完全に車社会で、車がないと生活がままならない。
こいつは渡りに船。本音を言えば、貧乏な私達には中古の安いバンなんかがお似合いでそんな感じのを買おうとすら考えていたのだが、贅沢は言っていられない。足の心配がなくなるのは百人力である。
3/21、吉祥寺のバオバブでSALIKAMIの「さよならヒーさん」LIVEがあった。これは小川町の山の中に移住するヒーさんを祝う体のイベントで、ヒーさんに続いて小川町移住を決めた我が長尾家も一緒に祝っちゃえ、ということで、ライブの転換DJを私とピーさんで務めるというマニアックな催しだった。
当日は昨年の秋に宇宙祭りで集まった人達も集まって感動的な夜になったのだが、コロナの本格的な脅威がすぐそこまで来ていることに当時は気づいていなかった。実際は4月頭に緊急事態宣言が発令され、このような盛り場でのイベントの開催が一気に自粛を余儀なくされたのだ
…。
そんなこととも知らず私の移住ハイな精神状態は継続していた。3/24、小川町の新居は遂に法的に私達のモノとなった。まだ生活の拠点は田無にあったため、以降は仕事の休みなど、チャンスがあれば小川町の新居に、少量の引越し段ボールとともに乗り込んだのである。スケジュール的にピーの里帰りの前に家族みんなでこの新居に来れる日は限られていた。
しかし新たな生活が始まるだろう新居で過ごす時間は、とてつもなく気分がよかった。裏に竹山、家の前には大きな庭。その、私達が惚れ込んだ庭をみんなでウロウロしてみると、なんとヨモギにツクシ、フキノトウなんかが自生しているではないか。
私は、これは夢を見ているんじゃないか、と目の前の現実が信じられんばかりに感動していた。この庭が全部私達のものなのか…。更に追い討ちをかけるように、我々の滞在中に鶯が鳴いた。ホーホケキョが自分の庭で響いたのだ。みなで顔を合わせて驚いていると、鶯は我々を歓迎しているかのように忙しなく、これでもか、とばかりに鳴いてくれたのだった。
この短い新居滞在の間には不思議なことがあった。東京の友人Aづてに同じ小川町に移住した彼の別の友人Bの存在を聞いていた私は、AにBくんを紹介してくれよ、と催促していた。しかしなかなかタイミングが合わずなおざりになっていたところ、小川町の駅周辺を散策した折、ある茶屋で図らずもBくんと知り合ったのである。その出会い方がドラマチックだったので私もピーも興奮した。Aの仲介を待たずに直接Bくんと繋がってしまったのだ。小川町が我々を呼んでいるのかもしれない。そう思わずにいられなかった。
小川町の滞在中はそんな風にハイな状態だったが、東京での現実は対極だった。コロナ騒ぎで都内の通勤、通学移動は緊張感が高まっていて勤務先でも妙な空気が生まれていた。
ある日私が担当管理しているシェアハウスの物件に、コロナ対応の消毒液を配布する作業をしていた。短い時間で何箇所も回らねばならないため急いでいた。何かのはずみに消毒液をハイエースの運転席に溢してしまった私は、濡れた座面に車載されていた毛布を挟んで信号待ちをしていた。毛布の座り心地が安定しないのでモゾモゾと動かしていたら、瞬間、足がブレーキペダルから若干浮いてしまった。マズい、ともう1度ブレーキを踏み込むとガツっと嫌な音がした。ブレーキ間に合わず前の車にぶつかった…。
すぐに前の車からスーツのサラリーマンが降りてきて、テメエどこ見て運転してんだ、といきなり凄んできた。私が慌てて謝り倒すと、向こうも語気を弱めて、とにかく警察呼ぶぞ。
その事件をきっかけに私は無期限の運転謹慎処分を部長から宣告された。これは新居に浮かれていた私にかなり大きなダメージをもたらした。いよいよ希望に溢れる新生活がこれから、という時だったのでショックは大きかった。
運転謹慎ということは現在の物件管理の仕事を電車移動でこなさなくてはならない。物理的にも体力的にも、明らかに任務遂行に不利が重なる上、パートナーにも迷惑をかけてしまう。私以外にも前例はいたが、モチベーションの低下はいなめなかった。
事故は私の責任だが、情状酌量を排した無期限の謹慎処分に対しては無性に腹が立った。瞬間的にこんな仕事、とヤケクソな気分になった。私は運転込みのこの仕事が好きなのだった。初めて、この仕事に対して、辞めちまいたい、という想いが芽生えた。
しかし、私は家を買ったばかりなのだった。この仕事での数年間の正社員勤務がローン審査に資したのは事実だった。ローンは組めたのだから、後は定額の返済を継続できれば問題はない訳だが、かといって転職というもののしんどさを想像するとクラクラするのだった。
ふいに私が中学生の頃よく聴いたユニコーンの「大迷惑」という曲が脳内で再生した。逆らうと〜、クビになる〜、マイホーム〜、ボツになる〜、帰りたい〜、帰れない〜、2度と出られぬ蟻地獄〜。この曲の最後は、お金なんかはちょっとでいいのだ〜、で終わる。そう、お金なんかはちょっとでいいのだ、だから私は安い田舎の家を買ったのだ。だが、ちょっとのお金は稼がねばならない。
こんな風にその時期は、希望に溢れた田舎暮らしと、絶望に溢れた東京での会社生活を、コロナ禍というカオスの中で両立させなければならなかった。コロナのカオスは3月末に勢いを増し、4月頭には緊急事態宣言が発令されるかもしれない、という状況になった。それを受けて山形のピーの実家から、里帰りを早めるべきという要請がもたらされ、ピーさんは引越しの準備もできぬまま、4/4、私の運転で長尾家は山形へと向かった。既に東京ナンバーの車で山形に行くことすら憚られるような雰囲気ができていた。
こと子はまだ3歳で、里帰りの意味もわからないし、この後私と3ヶ月弱もバラバラになるとは思っていなかったはずだ。山形の実家に家族を送りどどけ、ご両親達に挨拶をし、東京に帰る時、私は大分センチメンタルな気持ちになっていた。無事、次女が生まれ、家族みんなで新居で楽しく過ごす日々を遠く見つめ、ただ祈るばかりだった。つづく
我々は航空券の悪徳チケット代理店に腹を立て、クレームの電話をかけ続けながらも、それとは別にこれからの移住のことをしっかり段取りする必要があった。新居の引き渡しは3月下旬に決まっていたのだが、次女の出産予定日が5月下旬。4月の前半にピーが山形の実家に里帰りし、無事生まれれば戻りが6月下旬と踏んでいた。引越しのタイミングで悩んだが、新居は風呂が要リフォームだったので、ピーの里帰り後に私が引越しを開始し、新居と田無を往復しながら風呂のリフォームを進め、妻子が新生児と戻ってくる6月下旬には風呂のリフォームを完成させる、というのが大筋となった。
また、この頃、オヤジから新居の購入費用の頭金だしてやるぞ、という嬉しい提案があった。私は断る理由もなく頭を下げて受け入れたが、後日、本人が「あの、この前話した頭金の話しだけど」と言い、間を置いてから「頭金の代わりに車をやる、っていうのでどう?」と改訂案を出してきた。一瞬私は、頭金とあの車とどちらを貰った方が得策なのか予想してみたが、父の乗っているトヨタのノアは、私からしたら高級車であって、格安物件の頭金より値打ちがありそうに思えたので、私はその改訂案を受け入れることにした。
こうして私は晴れて車持ちとなった。20代から今まで車を持つなどということは夢のまた夢。私の足を根強く支え続けてくれたのはホンダの安い原付き1台だったので、この急転直下のプレゼントは私を雀躍させた。というのも移住先の小川町近隣は完全に車社会で、車がないと生活がままならない。
こいつは渡りに船。本音を言えば、貧乏な私達には中古の安いバンなんかがお似合いでそんな感じのを買おうとすら考えていたのだが、贅沢は言っていられない。足の心配がなくなるのは百人力である。
3/21、吉祥寺のバオバブでSALIKAMIの「さよならヒーさん」LIVEがあった。これは小川町の山の中に移住するヒーさんを祝う体のイベントで、ヒーさんに続いて小川町移住を決めた我が長尾家も一緒に祝っちゃえ、ということで、ライブの転換DJを私とピーさんで務めるというマニアックな催しだった。
当日は昨年の秋に宇宙祭りで集まった人達も集まって感動的な夜になったのだが、コロナの本格的な脅威がすぐそこまで来ていることに当時は気づいていなかった。実際は4月頭に緊急事態宣言が発令され、このような盛り場でのイベントの開催が一気に自粛を余儀なくされたのだ
…。
そんなこととも知らず私の移住ハイな精神状態は継続していた。3/24、小川町の新居は遂に法的に私達のモノとなった。まだ生活の拠点は田無にあったため、以降は仕事の休みなど、チャンスがあれば小川町の新居に、少量の引越し段ボールとともに乗り込んだのである。スケジュール的にピーの里帰りの前に家族みんなでこの新居に来れる日は限られていた。
しかし新たな生活が始まるだろう新居で過ごす時間は、とてつもなく気分がよかった。裏に竹山、家の前には大きな庭。その、私達が惚れ込んだ庭をみんなでウロウロしてみると、なんとヨモギにツクシ、フキノトウなんかが自生しているではないか。
私は、これは夢を見ているんじゃないか、と目の前の現実が信じられんばかりに感動していた。この庭が全部私達のものなのか…。更に追い討ちをかけるように、我々の滞在中に鶯が鳴いた。ホーホケキョが自分の庭で響いたのだ。みなで顔を合わせて驚いていると、鶯は我々を歓迎しているかのように忙しなく、これでもか、とばかりに鳴いてくれたのだった。
この短い新居滞在の間には不思議なことがあった。東京の友人Aづてに同じ小川町に移住した彼の別の友人Bの存在を聞いていた私は、AにBくんを紹介してくれよ、と催促していた。しかしなかなかタイミングが合わずなおざりになっていたところ、小川町の駅周辺を散策した折、ある茶屋で図らずもBくんと知り合ったのである。その出会い方がドラマチックだったので私もピーも興奮した。Aの仲介を待たずに直接Bくんと繋がってしまったのだ。小川町が我々を呼んでいるのかもしれない。そう思わずにいられなかった。
小川町の滞在中はそんな風にハイな状態だったが、東京での現実は対極だった。コロナ騒ぎで都内の通勤、通学移動は緊張感が高まっていて勤務先でも妙な空気が生まれていた。
ある日私が担当管理しているシェアハウスの物件に、コロナ対応の消毒液を配布する作業をしていた。短い時間で何箇所も回らねばならないため急いでいた。何かのはずみに消毒液をハイエースの運転席に溢してしまった私は、濡れた座面に車載されていた毛布を挟んで信号待ちをしていた。毛布の座り心地が安定しないのでモゾモゾと動かしていたら、瞬間、足がブレーキペダルから若干浮いてしまった。マズい、ともう1度ブレーキを踏み込むとガツっと嫌な音がした。ブレーキ間に合わず前の車にぶつかった…。
すぐに前の車からスーツのサラリーマンが降りてきて、テメエどこ見て運転してんだ、といきなり凄んできた。私が慌てて謝り倒すと、向こうも語気を弱めて、とにかく警察呼ぶぞ。
その事件をきっかけに私は無期限の運転謹慎処分を部長から宣告された。これは新居に浮かれていた私にかなり大きなダメージをもたらした。いよいよ希望に溢れる新生活がこれから、という時だったのでショックは大きかった。
運転謹慎ということは現在の物件管理の仕事を電車移動でこなさなくてはならない。物理的にも体力的にも、明らかに任務遂行に不利が重なる上、パートナーにも迷惑をかけてしまう。私以外にも前例はいたが、モチベーションの低下はいなめなかった。
事故は私の責任だが、情状酌量を排した無期限の謹慎処分に対しては無性に腹が立った。瞬間的にこんな仕事、とヤケクソな気分になった。私は運転込みのこの仕事が好きなのだった。初めて、この仕事に対して、辞めちまいたい、という想いが芽生えた。
しかし、私は家を買ったばかりなのだった。この仕事での数年間の正社員勤務がローン審査に資したのは事実だった。ローンは組めたのだから、後は定額の返済を継続できれば問題はない訳だが、かといって転職というもののしんどさを想像するとクラクラするのだった。
ふいに私が中学生の頃よく聴いたユニコーンの「大迷惑」という曲が脳内で再生した。逆らうと〜、クビになる〜、マイホーム〜、ボツになる〜、帰りたい〜、帰れない〜、2度と出られぬ蟻地獄〜。この曲の最後は、お金なんかはちょっとでいいのだ〜、で終わる。そう、お金なんかはちょっとでいいのだ、だから私は安い田舎の家を買ったのだ。だが、ちょっとのお金は稼がねばならない。
こんな風にその時期は、希望に溢れた田舎暮らしと、絶望に溢れた東京での会社生活を、コロナ禍というカオスの中で両立させなければならなかった。コロナのカオスは3月末に勢いを増し、4月頭には緊急事態宣言が発令されるかもしれない、という状況になった。それを受けて山形のピーの実家から、里帰りを早めるべきという要請がもたらされ、ピーさんは引越しの準備もできぬまま、4/4、私の運転で長尾家は山形へと向かった。既に東京ナンバーの車で山形に行くことすら憚られるような雰囲気ができていた。
こと子はまだ3歳で、里帰りの意味もわからないし、この後私と3ヶ月弱もバラバラになるとは思っていなかったはずだ。山形の実家に家族を送りどどけ、ご両親達に挨拶をし、東京に帰る時、私は大分センチメンタルな気持ちになっていた。無事、次女が生まれ、家族みんなで新居で楽しく過ごす日々を遠く見つめ、ただ祈るばかりだった。つづく
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