バンドマンに憧れて 第46話 アクセル長尾、心の旅路
誘われるライブの頻度は減らなくても、赤い疑惑が動員できるお客さんの数は着実に減っていた。38話に触れた通り私はプロモーション活動をフェイドアウトさせ、バイトも週5に戻した。母が癌で亡くなったことは、私に現実を直視することを迫った。
懸命な看病で母の癌が治るのではないか? そんな根拠のない希望的観測は現実の前で打ちのめされ、それと同時に「音楽で食っていく」という私の中学生時代からの夢が揺らぎ始めた。母の癌快癒と同様に、私のその野望はやはり根拠のない希望的観測に過ぎない。後ろ向きなことを考えないように見栄を張っていたが、我々赤い疑惑の活動をそのまま続けて、動員なり売上げが好転して生活が変わる、なんてことはもはや無理なのではないか…。母の死はそのように私の心理に影響を与えた。
この頃私の心はさまよい続けていた。バンドがこれ以降売れなかったとしても、バンドを続ける、という美意識が私の中にいつからか強く根を張っていたので、バンドを止めるということは考えなかった。それに、人気の低迷と反比例して、クラッチとブレーキーとで編み出すアンサンブルは、始めた頃よりも確実に質が上がっているように感じていたのも事実だった。なのでバンドを続けていこう、というポジティブな気持ちは手放さなかったものの、食うことを目指してフリーターを転々としていた私にとって、それではこれからどのように働き、どのように生きていけばいいのか…、そんなことを考え出すと暗い気持ちになった。突然、長年野心を持って抱き続けていた目標がゆらゆらと崩れていくのだった。
そんな中、私は例えば、母の看病を通じで深入りしてしまった玄米菜食やマクロビオティック(長続きはしなかったが…)、生来の胃腸虚弱の救いを求めて出会った東洋医学やヨガ、アジアの貧乏旅行で知ったバックパッカーカルチャーやヒッピーカルチャー、そして精神世界、そういった世界観に強く惹かれていた。
しかしそれらに癒しを見出しつつも、先行きの不安とフリーター貧乏は常に私を睨み続け、私の存在価値を脅かした。当時同棲していた恋人との結婚を、私はかなり前向きに考えていたが、彼女の気持ちは微妙だった。結婚するならもう少しまともな生業についていないと、という雰囲気を彼女から感じていた。
そしてある時私は遂に、バイトやめて就職するぞ、と一大決心をした。ハローワークでもなんでも行ってやる。一から何とか頑張ってみようじゃないか…。一念発起してバイトを辞めると、調子のいい私は、どうせ就職したらもうその先チャンスは無くなるだろう、ということで、フリーター卒業旅行というのを思いついた。しかも第二弾まである気合いの入った計画だった。
第一弾は当時私にヨガを教えてくれていた友人のオススメによる、「内観」という特殊な瞑想修行の旅で、その内観ができる日本各地の道場の中でも旅情をかき立てそうな沖縄を選んだ。
この「内観」というのは決まったテーマに沿った瞑想を1日中、7日間続けることで、終わる頃には心の垢が落ちて悩みが氷解し、新たな人生を歩める、というような触れ込みであった。私にそれを勧めたYちゃんも「私の場合は(内観)道場から家に帰る時には宙に浮きそうなほど足取りが軽くなっていた」ということだった。彼女は「お母さん亡くした玄ちゃん(私のことである)にはきっとハマると思う」とも言ってくれたのだった。
この内観の、統一された瞑想のテーマというのが、そのものずばり母親について、なのである。全ての人間は母親から生まれてくるのだから、この精神療法は万人に効くというのが内観の論拠でもあったと思う。半信半疑で飛び込んだとはいえ、私もすっかりこの瞑想療法にヤラれ、4日目に母とのある記憶を思い出し、指導員の前でオロオロ嗚咽を漏らし号泣する、というような不思議なことが起きた。
私が思い出したのは高校に入る時、入学祝いで母にエレキギターを買ってもらったことだった。そんなことはすっかり忘れていて、社会に出る頃には私は母にバンド活動を反対されていると思い込んでいたのだったが、母がとにかく心配していたのはフリーターでミュージシャンを目指すという私の方針であって、対立ではなく、もう少し違うやりとりを母とできたのかもしれない、と遅まきながら気づいたのだった。
内観終了後、私は、世界のあらゆることに感謝の気持ちが溢れ、宙には浮かないまでも敬虔な気持ちになっていた。赤い疑惑をクビにされた後、沖縄で焼き物の修行をしていたシマケンに手紙を出し、あの時(クビにした時)のオレは青二才だった、一方的にクビにして申し訳なかった、などという手紙を出す始末であった。
この内観修行の後のフリーター卒業旅行第二弾は、「自分探しの旅」で定番のインド旅行だった。もちろん私は自分探しの旅を意識した訳ではなく、インドでヨガを体験するのも1つの目的として面白いだろうという程度の軽い気持ちの旅だった。それなのにインドという国はミラクルで、そんな気を敢えて持たないようにしていた私に、自分探しをさせてしまうのであった。
この体験を文章にするのは容易ではないので端的に表現するが、私は「騙しの街」で有名なバラナシでまんまとやられたのである。死体も流れる聖なる河、ガンガーが流れるあの沐浴で有名なバラナシである。
本来占いなどに全く興味がなく、現実直視型の私が、とある成り行き(と旅の開放感)で高額な金額(日本円で約10万円!)を「ブラフマン」を自称する、見た目完全グルーな感じのおっさんに払いそうになってしまったのである…。後で冷静になって振り返ると怪しい点はいくらでもあったのだが、彼のちょっとした話術(と私が片言の英語だったのも大いに関係して)すっかり騙されそうになってしまった(内観療法直後で人を疑わなくなっていた説も…)。
この私が体験した占い詐欺は、善良な別のインド人に助けられて未遂に終わり、私は幸運にも金を払わずに済んだのであるが、就職前のただの観光として訪れていたインドで、ベタな占い詐欺に騙されそうになってしまった自分の不甲斐なさにかなり凹んでしまった。その事件はまだ旅程の前半だったため、旅の後半戦、私の精神状態は不安定になり、そのまま体調を崩し、ヨガの聖地リシケシでヨガを体験するも体調回復せず絶不調。デリーに戻る頃には咳が止まらなくなり、飛行場まで這々の体で辿り着くも、帰国後病院に行くと肺炎にかかっており、肋膜炎を併発して即入院となった。
このインド旅行の最中、私は死んだ母と地元の小金井公園を一緒に歩いてる夢を見た。見覚えのある芝生の景色でとても清々しい気候だった。そこからは見えない向こうでは、アンコールマンション(田無の私の実家)の人達が集まって陣地を取って花見をしている。そこまで母と一緒に歩く、そんな夢だった。それは実際あった過去の記憶に基づいていた。目が覚めて夢だと気づいた時、私は寝台列車に乗っていた。占い詐欺にあった直後のことで精神的に不安定だった私は1人静かにおいおい泣いた。泣いて泣いて気持ちが落ち着くまで涙を流したのだった。つづく
懸命な看病で母の癌が治るのではないか? そんな根拠のない希望的観測は現実の前で打ちのめされ、それと同時に「音楽で食っていく」という私の中学生時代からの夢が揺らぎ始めた。母の癌快癒と同様に、私のその野望はやはり根拠のない希望的観測に過ぎない。後ろ向きなことを考えないように見栄を張っていたが、我々赤い疑惑の活動をそのまま続けて、動員なり売上げが好転して生活が変わる、なんてことはもはや無理なのではないか…。母の死はそのように私の心理に影響を与えた。
この頃私の心はさまよい続けていた。バンドがこれ以降売れなかったとしても、バンドを続ける、という美意識が私の中にいつからか強く根を張っていたので、バンドを止めるということは考えなかった。それに、人気の低迷と反比例して、クラッチとブレーキーとで編み出すアンサンブルは、始めた頃よりも確実に質が上がっているように感じていたのも事実だった。なのでバンドを続けていこう、というポジティブな気持ちは手放さなかったものの、食うことを目指してフリーターを転々としていた私にとって、それではこれからどのように働き、どのように生きていけばいいのか…、そんなことを考え出すと暗い気持ちになった。突然、長年野心を持って抱き続けていた目標がゆらゆらと崩れていくのだった。
そんな中、私は例えば、母の看病を通じで深入りしてしまった玄米菜食やマクロビオティック(長続きはしなかったが…)、生来の胃腸虚弱の救いを求めて出会った東洋医学やヨガ、アジアの貧乏旅行で知ったバックパッカーカルチャーやヒッピーカルチャー、そして精神世界、そういった世界観に強く惹かれていた。
しかしそれらに癒しを見出しつつも、先行きの不安とフリーター貧乏は常に私を睨み続け、私の存在価値を脅かした。当時同棲していた恋人との結婚を、私はかなり前向きに考えていたが、彼女の気持ちは微妙だった。結婚するならもう少しまともな生業についていないと、という雰囲気を彼女から感じていた。
そしてある時私は遂に、バイトやめて就職するぞ、と一大決心をした。ハローワークでもなんでも行ってやる。一から何とか頑張ってみようじゃないか…。一念発起してバイトを辞めると、調子のいい私は、どうせ就職したらもうその先チャンスは無くなるだろう、ということで、フリーター卒業旅行というのを思いついた。しかも第二弾まである気合いの入った計画だった。
第一弾は当時私にヨガを教えてくれていた友人のオススメによる、「内観」という特殊な瞑想修行の旅で、その内観ができる日本各地の道場の中でも旅情をかき立てそうな沖縄を選んだ。
この「内観」というのは決まったテーマに沿った瞑想を1日中、7日間続けることで、終わる頃には心の垢が落ちて悩みが氷解し、新たな人生を歩める、というような触れ込みであった。私にそれを勧めたYちゃんも「私の場合は(内観)道場から家に帰る時には宙に浮きそうなほど足取りが軽くなっていた」ということだった。彼女は「お母さん亡くした玄ちゃん(私のことである)にはきっとハマると思う」とも言ってくれたのだった。
この内観の、統一された瞑想のテーマというのが、そのものずばり母親について、なのである。全ての人間は母親から生まれてくるのだから、この精神療法は万人に効くというのが内観の論拠でもあったと思う。半信半疑で飛び込んだとはいえ、私もすっかりこの瞑想療法にヤラれ、4日目に母とのある記憶を思い出し、指導員の前でオロオロ嗚咽を漏らし号泣する、というような不思議なことが起きた。
私が思い出したのは高校に入る時、入学祝いで母にエレキギターを買ってもらったことだった。そんなことはすっかり忘れていて、社会に出る頃には私は母にバンド活動を反対されていると思い込んでいたのだったが、母がとにかく心配していたのはフリーターでミュージシャンを目指すという私の方針であって、対立ではなく、もう少し違うやりとりを母とできたのかもしれない、と遅まきながら気づいたのだった。
内観終了後、私は、世界のあらゆることに感謝の気持ちが溢れ、宙には浮かないまでも敬虔な気持ちになっていた。赤い疑惑をクビにされた後、沖縄で焼き物の修行をしていたシマケンに手紙を出し、あの時(クビにした時)のオレは青二才だった、一方的にクビにして申し訳なかった、などという手紙を出す始末であった。
この内観修行の後のフリーター卒業旅行第二弾は、「自分探しの旅」で定番のインド旅行だった。もちろん私は自分探しの旅を意識した訳ではなく、インドでヨガを体験するのも1つの目的として面白いだろうという程度の軽い気持ちの旅だった。それなのにインドという国はミラクルで、そんな気を敢えて持たないようにしていた私に、自分探しをさせてしまうのであった。
この体験を文章にするのは容易ではないので端的に表現するが、私は「騙しの街」で有名なバラナシでまんまとやられたのである。死体も流れる聖なる河、ガンガーが流れるあの沐浴で有名なバラナシである。
本来占いなどに全く興味がなく、現実直視型の私が、とある成り行き(と旅の開放感)で高額な金額(日本円で約10万円!)を「ブラフマン」を自称する、見た目完全グルーな感じのおっさんに払いそうになってしまったのである…。後で冷静になって振り返ると怪しい点はいくらでもあったのだが、彼のちょっとした話術(と私が片言の英語だったのも大いに関係して)すっかり騙されそうになってしまった(内観療法直後で人を疑わなくなっていた説も…)。
この私が体験した占い詐欺は、善良な別のインド人に助けられて未遂に終わり、私は幸運にも金を払わずに済んだのであるが、就職前のただの観光として訪れていたインドで、ベタな占い詐欺に騙されそうになってしまった自分の不甲斐なさにかなり凹んでしまった。その事件はまだ旅程の前半だったため、旅の後半戦、私の精神状態は不安定になり、そのまま体調を崩し、ヨガの聖地リシケシでヨガを体験するも体調回復せず絶不調。デリーに戻る頃には咳が止まらなくなり、飛行場まで這々の体で辿り着くも、帰国後病院に行くと肺炎にかかっており、肋膜炎を併発して即入院となった。
このインド旅行の最中、私は死んだ母と地元の小金井公園を一緒に歩いてる夢を見た。見覚えのある芝生の景色でとても清々しい気候だった。そこからは見えない向こうでは、アンコールマンション(田無の私の実家)の人達が集まって陣地を取って花見をしている。そこまで母と一緒に歩く、そんな夢だった。それは実際あった過去の記憶に基づいていた。目が覚めて夢だと気づいた時、私は寝台列車に乗っていた。占い詐欺にあった直後のことで精神的に不安定だった私は1人静かにおいおい泣いた。泣いて泣いて気持ちが落ち着くまで涙を流したのだった。つづく
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