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ROAD to 小川町 第8話 コロナ禍突入どうなるマイホーム

愛する妻子が、東京でのコロナウィルス感染拡大を受けて予定より早く山形の実家に里帰りし、東京に残された私は、アパートの荷物を全てまとめ、それを小川町の新居に運び込む作業に追われることとなった。私は引っ越し屋さんに引っ越しを頼んだことがなく、それまでもいつも友人に頼んだりしながら自分で済ませていたので今回もそのつもりだったが、子ができて家族が増えた分、荷物の総量はちょっとしたものだった。

私は休日のたびに車に入るだけの段ボールを詰め込み、経費節減のため、高速なら1時間で行ける往来を下道で走った。田無から小川町まで道のりを下道で山沿いに進むと、毛呂山、越生、鳩山、ときがわなど、私は全く知らなかったが、小川町に似た美しい里山の景色を楽しむことができる。私は埼玉にもこんなに魅力的な場所が沢山あったんだという事実を、おじさんになってから知って痛快だった。

もちろん、小川町に向かうのは日中だけじゃなく夜もあったので、片道2時間の道のりを段ボール詰め込んで行き来するのは1人ではさぞ大変だったはずだ。だが、我々家族を小川町に運命づけたしゅうくんとはるかちゃんが、ほぼ毎回同伴してくれたおかげで苦行感は薄れていた。新居の押し入れの天井を直し、障子や襖を張り替え、古ぼけた風呂を大ハンマーでぶっ壊したりなど、私が計画したDIYリフォームの手伝いまでしてくれて、さらには庭で焚き火をしたり(この頃、安倍総理が、綿製の昔気質のマスクを2枚国民に配布するという頓珍漢な政策を打ち出してきて呆れて腹が立った私は、早速届いたマスクを焚き火で燃やした)、裏山の竹の子を掘りまくったり、夜は酒盛りしたり、かなり楽しい珍道中が続いていた。

しかも、緊急事態宣言を受けて私の勤め先が勤務日数を絞る判断をしたため、週の半分が休みになる非常事態になり、新居での課題が山積みだった私にはラッキーだった。楽しい新居での時間と不穏な東京での生活の相混ざった感じはそんな調子でしばらく続いた。

4月の下旬にすべてアパートの荷物を運び終わった私は世話になった大家さんに挨拶をしてアパートを引き払った。新居のローンと東京の家賃と両方払うのはもったいないではないか。そんな調子で、私は父が住む実家のマンションに転がり込んで、新居のリフォームが一段落するまでの一時的な居候ライフを決め込むことにしたのだ。

毎晩酒のツマミを数種用意し、テレビを見ながら晩酌をする父に付き合っていたら、そのうち腹の調子がおかしくなった。コロナ禍で奇妙にエキサイティングな日々だったが、会社のストレスもあるのか、家族と離れている寂しさも無意識下で作用してるのか、とにかく体調も均一ではなかった。

里帰りした妻子の元へは、出産予定日の5月下旬までに1度会いに行くつもりであったが、コロナの影響で、東京の人間が不用心に感染の少ない山形に行くべきではない、という雰囲気が出てきた。ピーの実家からも、私(東京の人間)が彼女の実家に行った場合、実家に住んでる家族が2週間外出できなくなる、という情報が入り、私は出産まではピーとこと子、そしてもう1人の赤ちゃんに会えないだろうことを覚悟しなければならなかった。

それに留まらず、ピーの話しをよく聞いてみると、その次女の出産には妊婦の両親しか立ち会いがNGとのことで、結局私は出産1か月後に家族を迎えに行くまで、新生児はおろか、みんなに会えないことが判然としてきた。つまり4月頭から6月末までの約3ヶ月も会えないことになる…。まさかそんなことになるとは思わなかった。この頃から都心部と地方の往来には見えない壁ができてしまった。

新居のリフォームの山場は風呂の改装だった。家族が新居にやってくる6月下旬までに完成させなければならない。しかも、ピーさんのたっての要望で、ありきたりなユニットバスではなく、檜の風呂を作ることになったのである。私は当時務めていた会社の仕事で、シェアハウスのリフォームに多かれ少なかれ関わっていたので、業者とのやり取りのノウハウを多少知っていた。とはいえ、ユニットバスじゃない特注風呂を請け負ってくれる業者は知らない。

そこで半分DIY、半分職人依頼で安くあげよう、という算段で思い切って始めてみたものの、これがなかなか大変だった。タイル仕上げの古ぼけた風呂と、脱衣場を友人のヘルプを借りて解体するまではスムーズに運んだが、そこから地元の大工さんと設備屋さん、ちょっと知り合いの左官屋さん、に仕事を依頼する段階で、私は狼狽ることが何度もあった。無自覚だったが、安く上げるために始めたこの工事は、つまり私が現場監督的な役割を果たさなければならない。

それなのに、建築の専門知識に乏しかった私は職人さん達の質問に正確に答えられず、職人同士の橋渡しをうまく努められず何度も冷や汗を流した。
「立ち上がりは何mmにするんですか?」
「浴槽の設置は誰がやるんですか?」
本当ならば現場監督がサクサク答えて進めるところで私がしどろもどろになり、分からない専門用語について正直に質問したり、確認しておきます、と時間を稼いで調べたり、そうこうしているうちに工期がズレ、6月末に本当にヒノキの風呂は完成するのか自信が揺らいでいた。

そんな中、5月の頭、居候先である田無の実家で、その晩はしゅうくん、はるかちゃんもいて、オヤジと4人でワイワイ酒を飲んでいた。10時半頃、突然ピーさんから着信。里帰り後、風呂リフォームの打ち合わせなどのやりとりはしていたが、こんな時間に…。出ると、
「こと子がギャン泣きで頑張って慰めたんだけど、ダメだ、ちょっと代って」
その後ろでこと子の怒涛の泣き声が聞こえている。そして受話器から激しい嗚咽が大きくなり、
「パパと一緒にお家で遊びたい…パパと一緒に…」
と、嗚咽を抑えきれず息も絶え絶えにこと子が訴えるのである。言い終えたかと思うと、また激しく泣き続けた。

里帰りで別れる時は私と会えなくなってこと子が混乱しないか、かなり心配していたが、ちょっと前にピーにこと子の様子を聞いた時は、年の近い女の子の従姉妹たちと楽しく過ごしてる、という状況報告で安心しつつ、そんなに私に依存してなかったのかな、と寂しい気すらしていたが、流石に1ヶ月経って急にホームシックにかかったのだろうか。もうお喋りも達者になった3歳の女の子とはいえ、イレギュラーな状況でストレスが溜まったに違いない。

しかも親はどうすることもできないし、何でこんなことになってるのか3歳児に説明するのも無理だし、どう励ましていいか分からない。またすぐに会えるから、と適当なことも言えないし困り果てた…。私が黙ってしまって、はたでその様子を伺っていて心配そうにしていたオヤジとしゅうくん、はるかちゃんに状況を説明し、しかし受話器の向こうのこと子に私は「大丈夫だからね」という言葉しか絞り出せず不甲斐ない気持ちでいっぱいになった。

30分もこと子が泣くのを聞き続けていた。ピーが受話器に戻って、もう一回慰めてみるね、と私に告げて電話は終わった。盛り上がっていた酒の場もドンヨリした空気に変わり、「そりゃあ、辛いだろうなあ、3歳の女の子がなぁ…」と言ったオヤジは涙ぐんでいる。私の心も灰色に包まれた。

数日後、ピーさんと電話して、あれからどう、こと子は…、とドキドキしながら尋ねると、いやあ、それがさ、あの日はあの後もかなり大変だったんだけど、翌日からまたケロッとしててね…、何か大丈夫そうだよ…。すっかり子供の気まぐれに翻弄されてしまった。我々の心傷は何だったのか、オヤジの涙は…。ともあれ、元気に戻ってよかった。ホッと胸を撫で下ろした。
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