ROAD to 小川町 第9話 田舎暮らしと会社員
田無の実家で居候ライフを送りながら、休日のたびに小川町の新居に赴き、リフォーム作業に明け暮れる日々は続いていた。幸いと言ってよいべきか、コロナショックを受けて出勤日が制限されるようになり、5月は半月ほどが休みになったので、新居で過ごす時間はかなり確保できていた。
一月ほど前まで住んでいた2DKのアパートに暮らしていた時には想像もしなかったような広さの庭と、そこに覆い被さるような勢いで生える竹薮が壮観の裏山は、しばらく私をハイな気持ちにさせ続けた。
庭にはいろんな植木が植っており、それらが次第に何の木か判明してくると、その度に私の喜びは更新された。グミ、ユスラウメ、イチジク、東京モンには馴染みの薄い果樹が、当然の如く実をつける様子は、素直に胸を打つものがあった。
公道から我が家の敷地に一歩入ると、砂利と土、むき出しの自然が私を迎える。その圧倒的な庭の草たちは、私が行くたびに容赦なく成長していた。物件管理の仕事で、草刈りという、皆が嫌がりそうな仕事が意外と嫌いじゃないことに気づいていた私は、新居のビニールハウス内に残されいた鎌を握ってひたすら草刈りに精を出した。
裏山のタケノコは取り放題であったが、油断してタケノコを刈らずに成長を見逃すと、数日で4、5mにの竹になってしまい唖然とした。地元の人には食べなくても見つけたら倒しておくといい、と教わった。
自然溢れる庭はまた、私をすぐに野菜作りの道へと誘った。これまでアパートの敷地でプランター栽培を試したことはあったが、私は満足できず、いつか地植え野菜を育ててみたい、と夢見ていた。そして今、目の前に、イメージしていたよりも幾分も広い庭が広がっているのだ。私はホームセンターや近所の農産物直売所で売っていた野菜苗をいくつか買って、早速庭に植えてみた。
以前の住人が残したボロいビニールハウスには使い古しだが十分使える農具が一通り揃っていた。私は初めて鍬を振り回して地を耕してみた。この家が空き家になってから何年も経ったらしい庭の土は、しかしカチカチに固まっていて、1平米ほどの区画を耕すだけで滝のような汗が噴き出した。(思ってたよりキツい、これは容易じゃないぞ…)と思うと同時に、異様なアドレナリンが湧いてきて、この肉体疲労がどこか快いモノであることになんとなく気づいていた。
ある休日、その時は連休だったので泊まりがけだった。リフォーム仕事がひと段落して夕方流しに行くと、何とシンクの中でムカデが3匹ザラザラと蠢いていた。都会育ちの私には信じ難い程の大きさで、身体の節の部分は艶々と黒く、その下の蠕動する手足の部分、および触角がその黒と対照的に、はっきりと赤いのでそのコントラストが気持ち悪くてたまらない。一瞬茫然自失、そしてすぐにネットでムカデ、対処と検索し、結果お湯を沸かしてシンクの中で皆殺しにした。
あまりの恐ろしさに攻撃的になった私はムカデの死骸を焚き火でさらに始末した。その夜、私が運び込んだ寝具を整えて布団を被ろうとしたその時、布団の端からまたムカデが現れ、さっきの赤い触角が私の目と一直線に向き合い、それなりの近さだったので、ぎゃっ、と悲鳴をあげて布団を放り投げた。もしや、無残にも亡骸を焚き火で燃やした報いか…、私は恐ろしくなった。
気が動転して部屋から出たものの、このままじゃ寝れないじゃないか、と私はいい歳して身震いした。それからしばらく、そろりそろりとムカデ捜索にあたったが見つからず、怖いので酒を飲んでいつの間にか寝た。
田舎暮らし最高、と調子に乗っていたが、私は田舎の現実というものを目の当たりにした。大地をアスファルトやコンクリートで覆わない田舎生活の現実である。小川町出身のはるかちゃんにこの話しをすると、ああ、ムカデね、出る出る、と当たり前のように言うし、移住仲間のヒーサンのとこではしょっちゅう出ているそうだし、この生物との共生は避けられそうもない様子だった。
こういった新居での体験は、ひとつひとつが新鮮で、ムカデ以外は最高に楽しいものだった。しかし、月の半分になっていたとはいえ、新宿の勤務先での労働時間は対極的に不快な雰囲気に覆われていた。コロナの影響で勤務先は明らかに売り上げを落とした。会社のオーナーである、「会長」と呼ばれる経営者の爺さんはあからさまに機嫌を損ね、社員へのパワハラを強めていた。
5月のある日、そのパワハラが私にも命中した。私は会長室に呼び出され、ネチネチと因縁をつけられ、なじられた。その時、理性で保っていた何かしらの思考回路が切れるのを感じた。こんな会社もう辞めてしまえ! 会長室を出る時、その思いは自分でも驚くほど固いものになっていた。
もちろん、ここの会社員を私はこのまま定年まで続けていくのだろうか、と勤務先に対する懐疑心は少し以前からあったには違いなかった。しかしすぐさま、組んだばかりの住宅ローンのことが頭に暗い影を落とした。辞めてホントに大丈夫か? もうすぐ2人目の娘が産まれる。お前の他に3人もの家族を養えるのか? それから私は不安になり、どうするどうするという葛藤が始まった。小川町周辺で求人情報を検索してみたが、やはり田舎町である、自分にできそうな仕事がみつかりそうもなかった。
それでも私は会社を辞める方向にモードを切り換え始めていた。こんなに素晴らしい家を手に入れ、間断的にではあっても、新居で過ごす時間は私を常に癒した。本能的に、もっとこっちで過ごす時間を確保しなければならない、と考えた。そして戸惑い、そうならば、新宿までの往復4時間の通勤時間がどうしたってもったいない、と確信に向かった。何か、小川町界隈で完結する生業をみつけたい…。
その頃、ヒーさんのバンドでパーカッションを叩くやっさんに庭の管理の仕方を教わろうと家に来てもらった。ところが例の風呂のリフォームの進捗がはかばかしくなく、古い浴室解体後の始末に難儀していたので、そのことを相談してみたら、やっさんは百人力のパワープレイで解体仕事をきっちり仕上げてくれた。ここまでくれば、後は職人さんの立ち合いだけで済む。
私はすっかり感謝し、植木屋さんってこんなこともできるのか〜、と大変感心し(こんな植木屋さんは多くはないと後から分かるが…)、植木屋さんに転職するのはどんなもんだろう、とその時初めて思い出したのである。これも後々振り返れば、ジャーガイダンス。
さて、その風呂のリフォームはしかし素人の段取りの悪さでスムーズとはいえなかった。頼りにしていた左官屋さんのスケジュールと私の休みの調整で何度もハラハラしなければならなかった。いついつまでに浴槽を用意し、タイルを用意し、風呂ドアを用意し…。私は山形にいるピーさんとLINEでやりとりを繰り返した。彼女がネットで厳選した材料を取り寄せて新居に赴くたびにそれらを受け取った。2人入れる檜のデカい浴槽が配送屋から運ばれてきた時は流石に興奮した(この浴槽を浴室に運び込むのが一大事だった…)。
5/19、朝、無事次女が産まれた。私はその報せを仕事の現場で、業者立会いの合間に知り、業者の人にバレないように泣いた。そしてその数日後、住民票を移して東京都民から埼玉県民となった。つづく
一月ほど前まで住んでいた2DKのアパートに暮らしていた時には想像もしなかったような広さの庭と、そこに覆い被さるような勢いで生える竹薮が壮観の裏山は、しばらく私をハイな気持ちにさせ続けた。
庭にはいろんな植木が植っており、それらが次第に何の木か判明してくると、その度に私の喜びは更新された。グミ、ユスラウメ、イチジク、東京モンには馴染みの薄い果樹が、当然の如く実をつける様子は、素直に胸を打つものがあった。
公道から我が家の敷地に一歩入ると、砂利と土、むき出しの自然が私を迎える。その圧倒的な庭の草たちは、私が行くたびに容赦なく成長していた。物件管理の仕事で、草刈りという、皆が嫌がりそうな仕事が意外と嫌いじゃないことに気づいていた私は、新居のビニールハウス内に残されいた鎌を握ってひたすら草刈りに精を出した。
裏山のタケノコは取り放題であったが、油断してタケノコを刈らずに成長を見逃すと、数日で4、5mにの竹になってしまい唖然とした。地元の人には食べなくても見つけたら倒しておくといい、と教わった。
自然溢れる庭はまた、私をすぐに野菜作りの道へと誘った。これまでアパートの敷地でプランター栽培を試したことはあったが、私は満足できず、いつか地植え野菜を育ててみたい、と夢見ていた。そして今、目の前に、イメージしていたよりも幾分も広い庭が広がっているのだ。私はホームセンターや近所の農産物直売所で売っていた野菜苗をいくつか買って、早速庭に植えてみた。
以前の住人が残したボロいビニールハウスには使い古しだが十分使える農具が一通り揃っていた。私は初めて鍬を振り回して地を耕してみた。この家が空き家になってから何年も経ったらしい庭の土は、しかしカチカチに固まっていて、1平米ほどの区画を耕すだけで滝のような汗が噴き出した。(思ってたよりキツい、これは容易じゃないぞ…)と思うと同時に、異様なアドレナリンが湧いてきて、この肉体疲労がどこか快いモノであることになんとなく気づいていた。
ある休日、その時は連休だったので泊まりがけだった。リフォーム仕事がひと段落して夕方流しに行くと、何とシンクの中でムカデが3匹ザラザラと蠢いていた。都会育ちの私には信じ難い程の大きさで、身体の節の部分は艶々と黒く、その下の蠕動する手足の部分、および触角がその黒と対照的に、はっきりと赤いのでそのコントラストが気持ち悪くてたまらない。一瞬茫然自失、そしてすぐにネットでムカデ、対処と検索し、結果お湯を沸かしてシンクの中で皆殺しにした。
あまりの恐ろしさに攻撃的になった私はムカデの死骸を焚き火でさらに始末した。その夜、私が運び込んだ寝具を整えて布団を被ろうとしたその時、布団の端からまたムカデが現れ、さっきの赤い触角が私の目と一直線に向き合い、それなりの近さだったので、ぎゃっ、と悲鳴をあげて布団を放り投げた。もしや、無残にも亡骸を焚き火で燃やした報いか…、私は恐ろしくなった。
気が動転して部屋から出たものの、このままじゃ寝れないじゃないか、と私はいい歳して身震いした。それからしばらく、そろりそろりとムカデ捜索にあたったが見つからず、怖いので酒を飲んでいつの間にか寝た。
田舎暮らし最高、と調子に乗っていたが、私は田舎の現実というものを目の当たりにした。大地をアスファルトやコンクリートで覆わない田舎生活の現実である。小川町出身のはるかちゃんにこの話しをすると、ああ、ムカデね、出る出る、と当たり前のように言うし、移住仲間のヒーサンのとこではしょっちゅう出ているそうだし、この生物との共生は避けられそうもない様子だった。
こういった新居での体験は、ひとつひとつが新鮮で、ムカデ以外は最高に楽しいものだった。しかし、月の半分になっていたとはいえ、新宿の勤務先での労働時間は対極的に不快な雰囲気に覆われていた。コロナの影響で勤務先は明らかに売り上げを落とした。会社のオーナーである、「会長」と呼ばれる経営者の爺さんはあからさまに機嫌を損ね、社員へのパワハラを強めていた。
5月のある日、そのパワハラが私にも命中した。私は会長室に呼び出され、ネチネチと因縁をつけられ、なじられた。その時、理性で保っていた何かしらの思考回路が切れるのを感じた。こんな会社もう辞めてしまえ! 会長室を出る時、その思いは自分でも驚くほど固いものになっていた。
もちろん、ここの会社員を私はこのまま定年まで続けていくのだろうか、と勤務先に対する懐疑心は少し以前からあったには違いなかった。しかしすぐさま、組んだばかりの住宅ローンのことが頭に暗い影を落とした。辞めてホントに大丈夫か? もうすぐ2人目の娘が産まれる。お前の他に3人もの家族を養えるのか? それから私は不安になり、どうするどうするという葛藤が始まった。小川町周辺で求人情報を検索してみたが、やはり田舎町である、自分にできそうな仕事がみつかりそうもなかった。
それでも私は会社を辞める方向にモードを切り換え始めていた。こんなに素晴らしい家を手に入れ、間断的にではあっても、新居で過ごす時間は私を常に癒した。本能的に、もっとこっちで過ごす時間を確保しなければならない、と考えた。そして戸惑い、そうならば、新宿までの往復4時間の通勤時間がどうしたってもったいない、と確信に向かった。何か、小川町界隈で完結する生業をみつけたい…。
その頃、ヒーさんのバンドでパーカッションを叩くやっさんに庭の管理の仕方を教わろうと家に来てもらった。ところが例の風呂のリフォームの進捗がはかばかしくなく、古い浴室解体後の始末に難儀していたので、そのことを相談してみたら、やっさんは百人力のパワープレイで解体仕事をきっちり仕上げてくれた。ここまでくれば、後は職人さんの立ち合いだけで済む。
私はすっかり感謝し、植木屋さんってこんなこともできるのか〜、と大変感心し(こんな植木屋さんは多くはないと後から分かるが…)、植木屋さんに転職するのはどんなもんだろう、とその時初めて思い出したのである。これも後々振り返れば、ジャーガイダンス。
さて、その風呂のリフォームはしかし素人の段取りの悪さでスムーズとはいえなかった。頼りにしていた左官屋さんのスケジュールと私の休みの調整で何度もハラハラしなければならなかった。いついつまでに浴槽を用意し、タイルを用意し、風呂ドアを用意し…。私は山形にいるピーさんとLINEでやりとりを繰り返した。彼女がネットで厳選した材料を取り寄せて新居に赴くたびにそれらを受け取った。2人入れる檜のデカい浴槽が配送屋から運ばれてきた時は流石に興奮した(この浴槽を浴室に運び込むのが一大事だった…)。
5/19、朝、無事次女が産まれた。私はその報せを仕事の現場で、業者立会いの合間に知り、業者の人にバレないように泣いた。そしてその数日後、住民票を移して東京都民から埼玉県民となった。つづく
スポンサーサイト