都を落ちて土を掘る <土を掘る>
この世に生まれて40年以上が過ぎて、私は東京を離れる決意をした。お隣埼玉県のとある田舎町に、家族で移住することになったのだ。
私が中古で買った土地付きの家にはかなり大きな庭がついていた。都内で住んでいた頃には想像し得なかったような広さで、前入居者のお爺さんはそこで畑をやっていたらしく、何の防草造作もしていない地面には、暖かくなると雑草がわんさと生え、植木は伸び放題、一部は逞しいイネ科の植物や蔓達で藪化していた。
都内で遊び程度にプランター菜園をしたことはあったが、どうせ野菜を作るのなら地面に直接種を植えたい、と強く思っていた私は、すぐに何か植えてみようと狙っていた。
家を買って間もなくは、まだ里帰り出産で山形に行ってしまった妻子と合流するまでの間、私が東京から新居に通っては、傷んだ住居のリフォームや引っ越し作業を進めていた。そんな中、とりあえず農産物直売所で売っていた野菜苗を買って、何でもいいから地面に植えてみようと私は興奮して庭の土に鍬を入れてみたのだ。
鍬は2種類、スコップや刈り込み鋏などと一緒に爺さんが使っていただろう使い込んだ代物が、庭に残置されたビニールハウスの中に並んでいたのだ。私はプランター栽培では絶対登場しない、無骨な道具を握り、庭の適当な一角の地面に力を込めて鍬を振り下ろした。
突き刺さった鍬は地面にめり込んで簡単に抜けない程だった。後でこれがいわゆる粘土質の土であることがわかる訳だが、その時は「何て地面は固くて手強いんだ!」と驚いたのであった。それでも非日常な、その野蛮な運動は同時に私に興奮をももたらしていた。チキショウ、私は呟いて何度も鍬を入れて、その粘土質の土を耕した。ようやく苗がいくつか植えられそうなくらいの小さな区画がほぐれたところで、既に私の額からは滴るような汗が毛穴から噴き出していた。私は(何だこれは、何だこの疲労と爽快感は)と息を切らして笑顔になっていた。
これが、私が移住して初めて土と向き合った瞬間であった。そこに植えた苗は驚くほどスムーズに育つオクラのようなものもあったが、他は大した成長を遂げなかった。それで、すぐに私は土について想いを馳せるようになった。誇張ではなく、私は土に惹かれていった。
数ヶ月後、私は東京の会社仕事を辞め、移住先の田舎町で、植木屋の見習いとして働き始めた。私は土に、ミドリに依存し始めていた。植木屋は大変な仕事で、天気に多くを支配される。夏は午前と午後で汗でずぶ濡れになるくらいの運動量である。植木屋の仕事は植木の手入れ以外にも伐採や、抜根、造園など、殊にヘビーな運動もある。
中でも抜根というのは樹の根元をスコップでガシガシ掘って(もちろん重機を使ったりすることもある)、周囲に伸びた細根を切断して樹を根ごと除去する作業なのだが、これが人力だとなかなかシンドい作業なのだ。
40年近く、都市部で都市部の当たり前の生活をしていた自分が、どういう訳だが剣スコ(先の尖ったスコップ)を振り回して汗水振り撒いて土を掘っているのである。どういうことなのか。
ちなみにこの抜根作業は、本当に重労働だと思えるのだが、実際に根が音をあげて倒れ、張り巡らされた根がすべて切断されてバコっと除去される時の達成感は、これはまた格別のアドレナリンをもたらす。
私の植木屋デビューは夏の終わりであったが、冬になり、冬の剪定がある程度終わって閑散期に入った頃、私は植木屋の親方の知り合いの、土木業者の手伝いに数日通うことになった。そこではネコと呼ばれる一輪車で練った生コンをひたすら運んだり、いわゆる「土木」というヒビキから私たちが想像するタフな肉体労働を体験することになった。
妻子も里帰りから戻って、新たな地での娘達の保育園の行き先を求めていた頃、来年近くに新しい保育園ができるという噂が流れて、我々が調べて応募したところ、無事2人とも入園が決まった。ある日の土木作業の現場は、その保育園の土地造成だった。娘達の通う保育園を作る作業にこんなカタチで関わることになるとは、と私は田舎暮らしの妙にまた興奮しながらも、その現場の作業で死にそうになっていた。
そこでもやはり穴を掘っていた。フェンスを取り付ける、そのフェンスの支柱を固定するコンクリートを埋める為の穴で、ユンボが転圧した固い地面に、剣スコや、穴掘り専用のハサミのようなスコップを突き刺して垂直の穴を掘っていくのだが、これも酷くシンドかった。私の頭の中では「奴隷労働」というコトバが作業中、度々リフレインした。自分の死体を埋めるための穴を掘らされる、という地獄のような拷問を聞いたことがあるが、そんなことまで思い出していた…。
いずれにしても私は移住と同時に土と向き合うこととなり、穴を掘ることとなったのである。終点があるわけではなさそうであったが、そんな人生も悪くはない、と思えた。最期は土に還ってしまえばいいのだから。
私が中古で買った土地付きの家にはかなり大きな庭がついていた。都内で住んでいた頃には想像し得なかったような広さで、前入居者のお爺さんはそこで畑をやっていたらしく、何の防草造作もしていない地面には、暖かくなると雑草がわんさと生え、植木は伸び放題、一部は逞しいイネ科の植物や蔓達で藪化していた。
都内で遊び程度にプランター菜園をしたことはあったが、どうせ野菜を作るのなら地面に直接種を植えたい、と強く思っていた私は、すぐに何か植えてみようと狙っていた。
家を買って間もなくは、まだ里帰り出産で山形に行ってしまった妻子と合流するまでの間、私が東京から新居に通っては、傷んだ住居のリフォームや引っ越し作業を進めていた。そんな中、とりあえず農産物直売所で売っていた野菜苗を買って、何でもいいから地面に植えてみようと私は興奮して庭の土に鍬を入れてみたのだ。
鍬は2種類、スコップや刈り込み鋏などと一緒に爺さんが使っていただろう使い込んだ代物が、庭に残置されたビニールハウスの中に並んでいたのだ。私はプランター栽培では絶対登場しない、無骨な道具を握り、庭の適当な一角の地面に力を込めて鍬を振り下ろした。
突き刺さった鍬は地面にめり込んで簡単に抜けない程だった。後でこれがいわゆる粘土質の土であることがわかる訳だが、その時は「何て地面は固くて手強いんだ!」と驚いたのであった。それでも非日常な、その野蛮な運動は同時に私に興奮をももたらしていた。チキショウ、私は呟いて何度も鍬を入れて、その粘土質の土を耕した。ようやく苗がいくつか植えられそうなくらいの小さな区画がほぐれたところで、既に私の額からは滴るような汗が毛穴から噴き出していた。私は(何だこれは、何だこの疲労と爽快感は)と息を切らして笑顔になっていた。
これが、私が移住して初めて土と向き合った瞬間であった。そこに植えた苗は驚くほどスムーズに育つオクラのようなものもあったが、他は大した成長を遂げなかった。それで、すぐに私は土について想いを馳せるようになった。誇張ではなく、私は土に惹かれていった。
数ヶ月後、私は東京の会社仕事を辞め、移住先の田舎町で、植木屋の見習いとして働き始めた。私は土に、ミドリに依存し始めていた。植木屋は大変な仕事で、天気に多くを支配される。夏は午前と午後で汗でずぶ濡れになるくらいの運動量である。植木屋の仕事は植木の手入れ以外にも伐採や、抜根、造園など、殊にヘビーな運動もある。
中でも抜根というのは樹の根元をスコップでガシガシ掘って(もちろん重機を使ったりすることもある)、周囲に伸びた細根を切断して樹を根ごと除去する作業なのだが、これが人力だとなかなかシンドい作業なのだ。
40年近く、都市部で都市部の当たり前の生活をしていた自分が、どういう訳だが剣スコ(先の尖ったスコップ)を振り回して汗水振り撒いて土を掘っているのである。どういうことなのか。
ちなみにこの抜根作業は、本当に重労働だと思えるのだが、実際に根が音をあげて倒れ、張り巡らされた根がすべて切断されてバコっと除去される時の達成感は、これはまた格別のアドレナリンをもたらす。
私の植木屋デビューは夏の終わりであったが、冬になり、冬の剪定がある程度終わって閑散期に入った頃、私は植木屋の親方の知り合いの、土木業者の手伝いに数日通うことになった。そこではネコと呼ばれる一輪車で練った生コンをひたすら運んだり、いわゆる「土木」というヒビキから私たちが想像するタフな肉体労働を体験することになった。
妻子も里帰りから戻って、新たな地での娘達の保育園の行き先を求めていた頃、来年近くに新しい保育園ができるという噂が流れて、我々が調べて応募したところ、無事2人とも入園が決まった。ある日の土木作業の現場は、その保育園の土地造成だった。娘達の通う保育園を作る作業にこんなカタチで関わることになるとは、と私は田舎暮らしの妙にまた興奮しながらも、その現場の作業で死にそうになっていた。
そこでもやはり穴を掘っていた。フェンスを取り付ける、そのフェンスの支柱を固定するコンクリートを埋める為の穴で、ユンボが転圧した固い地面に、剣スコや、穴掘り専用のハサミのようなスコップを突き刺して垂直の穴を掘っていくのだが、これも酷くシンドかった。私の頭の中では「奴隷労働」というコトバが作業中、度々リフレインした。自分の死体を埋めるための穴を掘らされる、という地獄のような拷問を聞いたことがあるが、そんなことまで思い出していた…。
いずれにしても私は移住と同時に土と向き合うこととなり、穴を掘ることとなったのである。終点があるわけではなさそうであったが、そんな人生も悪くはない、と思えた。最期は土に還ってしまえばいいのだから。
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