父のこと③
母は癌の告知を受けてから1年経たぬ間に死んでしまった。1年もつかもたないか、と言った医師の言葉通りに…。胃を切除し、抗がん剤の副作用に苦しみ続ける母に寄り添っていた私達家族にとって、母の死は悲しいことであったが、最後は早く楽になってほしい、と思わせる壮絶さを母の姿に見ていたので、ホッとした部分もあった。
山口の実家を継がなかった父は、長尾家の墓を、当時まだできたばかりだった入間の墓地に設けた。私は当時付き合っていた彼女と、実家から程近い武蔵境で同棲を始め、実家には結果的に父と姉が2人で暮らすことになった。前回書いたように私と父との距離は大分縮まっていたが、異性である姉にとって父は依然ガサツで、めんどくさい存在だった。姉からしばしば父の愚痴を聞いていたので何だか気の毒であった。
母の死後、私は自身のバンドで家族をテーマにしたアルバムを作ろうと躍起になっていた。「東京ファミリーストーリー」というタイトルのその作品を作っていく中で、私は父との共演を考えていた。
20代に入って、パンクやロック以外の音楽、ヒップホップやレゲエなどに目覚めた私の嗜好性はアフリカ音楽をきっかけにワールドミュージック(英米以外の音楽の総称)へと広がっていった。その流れで南米・ラテン系音楽への眼差しが変わった私にとって、南米フォルクローレと同様、父が以前からライフワークとして演奏していたメキシコのマリアッチの良さも理解できるようになっていったため、父に対しての親近感が増していた。
そんな経緯もあって私が父に共演を提案すると二つ返事でオーケーとなり、私が作った「東京の家族」というベサメムーチョ風の曲と、「まだまだ生きていくんだ」というフォーク調の曲で、父にギターと歌で参加してもらった。後者は、テーマを決めて父にも自分で歌う箇所の作詞までしてもらった。録音スタジオでバンドメンバーと父と4人で作業したことは今ではかけがえのない思い出である。これでオレも親孝行ができたんじゃないか、と一人満足していた。親子で共演なんて素敵ですね、などと周囲の人間から言われて、してやったり、という気持ちにもなった。
CD発売記念ライブには父にも参加してもらった。お客さんも沢山入ったので、父にもいくらかは私のバンドマンとしての奮闘を認めてもらえたんじゃないかな、と思ったが、父が私のバンドをちゃんと褒めたことはなかった。しかし私のバンドに関わっている間はすごく楽しそうにしていたのが分かったのでそれで十分だった。
それからしばらくして実家で父と姉の衝突があった。それは母亡き後、父が今まで放り投げていた親心というのか、母性というのか、老婆心というのか、とにかくそういった子どもに対する世話心を俄かに取り戻したのか、未婚の姉に、縁がないなら見合いしろ、と、突然ひどく乱暴に迫るようになったのである。
それを聞かされた時、私は流石に呆れ返った。父は長年定時制高校の教師をやっていて、若者特有のノリにも、一般的には理解がある方だと思っていた(教室でギターを弾いたり、生徒からも人気があったとか…)。それなのに、自由恋愛が当たり前のこのご時世に見合いだと?? 姉の父への不信、反感はこの時がピークだったと思う。私もこれはただごとじゃない、と危惧し、直接父へ苦情をぶつけた。本人が望んでないことを強要するなよ、それじゃ姉ちゃんに嫌われるだけだぞ、という具合に。父は、そうか、と聞いていたが、結果的に私の進言は効果がなく、父と姉の関係は悪化していくように見えた。
紆余曲折の末、姉の忍耐と優しさで、父の希望通り1度だけやってみるが、嫌だったら断るけど、断っても文句言わないで、という提案がなされ、父もその条件をのんだ。姉はもちろん見合いなどしたくなかったが、これで父が諦めるなら、という戦略だった。案の定、見合い相手に興味を持てず姉は断ることとなったが、約束を反故にして父は、何でこんな良縁を断るんだ、と怒り始めてしまった。
父の言う良縁とは、その相手の職業や金回りのことを見てそんなことを言っているだけで、いやいや、私から見たら良縁でも何でもないように思われた。父の価値観はやはり一昔前のモノで、そんなものを押し付けられた姉は溜まったものじゃない。斡旋してもらった私の立場も考えろ、と無茶苦茶言い出す父に対する姉の絶望が手に取るように見えて、私もできる限り父を牽制したが、私や姉の気持ちが通じた手応えはなかった…。
それから程なくして、今度は私の同棲生活に綻びが現れ、私は付き合っていた女性と別れることになってしまった。悲嘆に暮れながら、今後の進退を考えた時、私はひとまず実家に出戻ろう、と決めていた。ずっと父との同居でストレスを溜めていた姉に代わって私が父と住み、姉には以前より希求していた独り暮らしをしてもらおう、と考えていたのだ。姉にその提案をすると果たして喜んで応じる流れとなり、姉は叔母の家に近い世田谷でアパート住まいを始め、私は父と向き合う生活に突入することになった。
それからしばらくの間、男2人の慎ましい生活が始まった。感心したのは父が驚くほどマメに食事を作り、家事をこなしていたことだ。こと晩餐のツマミにかける仕込みへの気合いの入れようは眼を見張るモノがあった。母が死んでおふくろの味、というものから遠ざかっていたが、父の、特に郷里で覚えたのであろう魚介料理の美味さは、おふくろの味に代わる「おやじの味」として私の舌に刻まれることになった。
父の晩酌にはほぼ毎晩付き合った。父の話を聞くのは苦ではなかったが、父のペースに合わせるほど酒量も飲めないし、長くなるのも面倒なので、いい加減で切り上げる。すると父はテレビの前に陣取って続きの酒を始めるが1、2時間もするとテレビの前で体勢を崩してイビキをかき始めるのが常だった。母がいた時はそんなだらしない状態を見たことがないが、母が死んでからの父は飲み始めたら潰れるまで飲む、という体たらくになっていて、姉はそれを嫌がっていたが、私は、何だか幸せそうでいいな、と注意するでもなく放任していた。父はしばらくすると起き上がって、ベッドに行ってちゃんと寝直すのが可笑しかった。父に対する私の印象というのはその頃から(しょうがねえおっさんだなぁ)というものに定着していった。
④へ続く
山口の実家を継がなかった父は、長尾家の墓を、当時まだできたばかりだった入間の墓地に設けた。私は当時付き合っていた彼女と、実家から程近い武蔵境で同棲を始め、実家には結果的に父と姉が2人で暮らすことになった。前回書いたように私と父との距離は大分縮まっていたが、異性である姉にとって父は依然ガサツで、めんどくさい存在だった。姉からしばしば父の愚痴を聞いていたので何だか気の毒であった。
母の死後、私は自身のバンドで家族をテーマにしたアルバムを作ろうと躍起になっていた。「東京ファミリーストーリー」というタイトルのその作品を作っていく中で、私は父との共演を考えていた。
20代に入って、パンクやロック以外の音楽、ヒップホップやレゲエなどに目覚めた私の嗜好性はアフリカ音楽をきっかけにワールドミュージック(英米以外の音楽の総称)へと広がっていった。その流れで南米・ラテン系音楽への眼差しが変わった私にとって、南米フォルクローレと同様、父が以前からライフワークとして演奏していたメキシコのマリアッチの良さも理解できるようになっていったため、父に対しての親近感が増していた。
そんな経緯もあって私が父に共演を提案すると二つ返事でオーケーとなり、私が作った「東京の家族」というベサメムーチョ風の曲と、「まだまだ生きていくんだ」というフォーク調の曲で、父にギターと歌で参加してもらった。後者は、テーマを決めて父にも自分で歌う箇所の作詞までしてもらった。録音スタジオでバンドメンバーと父と4人で作業したことは今ではかけがえのない思い出である。これでオレも親孝行ができたんじゃないか、と一人満足していた。親子で共演なんて素敵ですね、などと周囲の人間から言われて、してやったり、という気持ちにもなった。
CD発売記念ライブには父にも参加してもらった。お客さんも沢山入ったので、父にもいくらかは私のバンドマンとしての奮闘を認めてもらえたんじゃないかな、と思ったが、父が私のバンドをちゃんと褒めたことはなかった。しかし私のバンドに関わっている間はすごく楽しそうにしていたのが分かったのでそれで十分だった。
それからしばらくして実家で父と姉の衝突があった。それは母亡き後、父が今まで放り投げていた親心というのか、母性というのか、老婆心というのか、とにかくそういった子どもに対する世話心を俄かに取り戻したのか、未婚の姉に、縁がないなら見合いしろ、と、突然ひどく乱暴に迫るようになったのである。
それを聞かされた時、私は流石に呆れ返った。父は長年定時制高校の教師をやっていて、若者特有のノリにも、一般的には理解がある方だと思っていた(教室でギターを弾いたり、生徒からも人気があったとか…)。それなのに、自由恋愛が当たり前のこのご時世に見合いだと?? 姉の父への不信、反感はこの時がピークだったと思う。私もこれはただごとじゃない、と危惧し、直接父へ苦情をぶつけた。本人が望んでないことを強要するなよ、それじゃ姉ちゃんに嫌われるだけだぞ、という具合に。父は、そうか、と聞いていたが、結果的に私の進言は効果がなく、父と姉の関係は悪化していくように見えた。
紆余曲折の末、姉の忍耐と優しさで、父の希望通り1度だけやってみるが、嫌だったら断るけど、断っても文句言わないで、という提案がなされ、父もその条件をのんだ。姉はもちろん見合いなどしたくなかったが、これで父が諦めるなら、という戦略だった。案の定、見合い相手に興味を持てず姉は断ることとなったが、約束を反故にして父は、何でこんな良縁を断るんだ、と怒り始めてしまった。
父の言う良縁とは、その相手の職業や金回りのことを見てそんなことを言っているだけで、いやいや、私から見たら良縁でも何でもないように思われた。父の価値観はやはり一昔前のモノで、そんなものを押し付けられた姉は溜まったものじゃない。斡旋してもらった私の立場も考えろ、と無茶苦茶言い出す父に対する姉の絶望が手に取るように見えて、私もできる限り父を牽制したが、私や姉の気持ちが通じた手応えはなかった…。
それから程なくして、今度は私の同棲生活に綻びが現れ、私は付き合っていた女性と別れることになってしまった。悲嘆に暮れながら、今後の進退を考えた時、私はひとまず実家に出戻ろう、と決めていた。ずっと父との同居でストレスを溜めていた姉に代わって私が父と住み、姉には以前より希求していた独り暮らしをしてもらおう、と考えていたのだ。姉にその提案をすると果たして喜んで応じる流れとなり、姉は叔母の家に近い世田谷でアパート住まいを始め、私は父と向き合う生活に突入することになった。
それからしばらくの間、男2人の慎ましい生活が始まった。感心したのは父が驚くほどマメに食事を作り、家事をこなしていたことだ。こと晩餐のツマミにかける仕込みへの気合いの入れようは眼を見張るモノがあった。母が死んでおふくろの味、というものから遠ざかっていたが、父の、特に郷里で覚えたのであろう魚介料理の美味さは、おふくろの味に代わる「おやじの味」として私の舌に刻まれることになった。
父の晩酌にはほぼ毎晩付き合った。父の話を聞くのは苦ではなかったが、父のペースに合わせるほど酒量も飲めないし、長くなるのも面倒なので、いい加減で切り上げる。すると父はテレビの前に陣取って続きの酒を始めるが1、2時間もするとテレビの前で体勢を崩してイビキをかき始めるのが常だった。母がいた時はそんなだらしない状態を見たことがないが、母が死んでからの父は飲み始めたら潰れるまで飲む、という体たらくになっていて、姉はそれを嫌がっていたが、私は、何だか幸せそうでいいな、と注意するでもなく放任していた。父はしばらくすると起き上がって、ベッドに行ってちゃんと寝直すのが可笑しかった。父に対する私の印象というのはその頃から(しょうがねえおっさんだなぁ)というものに定着していった。
④へ続く
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