父のこと⑥
2019年、2人目の女の子ができた。その年の秋、私達は東京から田舎に移住した音楽仲間の友人に誘われ、埼玉県北西部、小川町に遊びに行った。次女がまだピーのお腹に潜んだばかりのタイミングだったのだが、この小川町行きがきっかけで私たちの運命は劇的に変わってしまった。
いずれ田舎暮らし、という移住の夢は私たち夫婦の間でずっとくすぶっている事柄だった。いろんな田舎を想定してみていたが、その時知った小川町の、山に囲まれた大自然、東京までの近さ、そして何より価値観を強く共有できる友人家族がとにかく近くに住んでいる、ということが私たちを後押しした。そしていろんな偶然が重なって2020年の夏、そう2人目の娘が無事生まれ、私たちは中古で買った渋い古民家風の家で新しい生活を始めることになった。急展開すぎて私はその時期ずっとハイだった。
この大きな変化の兆しが見えた頃、すぐに私は父にこの大いなる挑戦について、慎重に、神妙に相談した。仮に父に反対されたとして、断念することはなかろう、というくらい前のめりではあったが、案外父は、ふむふむという具合に聞いてくれた。同居問題ですれ違ったのにあっさりしたもんだった。
「小川町か、いいじゃないか、オレはゴルフでよく行ってるんだ。」
私はそれまで小川町という場所が埼玉県にあることすら知らなかったのに、父はすでに勝手知ったるような口ぶりなのだった。
私達が移住してから、父はゴルフに行くついでに、という具合に度々我が家に泊まりに来た。2人の可愛い孫に会いに、できればゴルフじゃない時にも来たそうであったので、できるだけ父からの来訪の提案には応えるようにした。
父が来れば、お金を気にせずメシ食えるしな、なんて私ははしたない気持ちでいたが、何より父と娘たちが仲良くしてる姿が毎度微笑ましく、母には孫の顔を見せられなかったが、こうしてオヤジには借りを返せているのかな、などとぼんやり考えていた。
父が私たちの移住に異論を挟まなかったことは、ゴルフのことだけではなく、小川町の田舎暮らしが、郷里の山口の田舎暮らしをどこか彷彿させていたからではないかと、私たち夫婦は感じていた。それは父が小川町に来て過ごしていた時の、いくつかの瞬間になんとなく感じるようなことだった。私が小川町に移住後に入会した里山クラブという里山愛護のコミュニティに父を連れて行った時もそれは感じられた。
里山クラブの会長は、父より少し上で、何となく風貌が父と似ていた。連れて行ったこと子が会長のことをじぃじに似ている、と言ったことがきっかけだったのだが、確かに頭の禿げ上がり方や、その時はたまたま身なりも近寄っていた。私とピーはこと子がそう言った時、確かに! と吹き出してしまった。偶然にも会長も父と同じで現役時代は教師だった。そんな具合に、父と、自然という領域で気持ちを重ねられたことは嬉しいことだった。
子どもの頃、父と母がたまに花や木を見て、これは何々だ、いや違うわよ何々よ、云々と植物の名前やウンチクを言い合うのを見て、何でそんなことで盛り上がっているのだろう、と不思議だった。気づいたら田舎に移住して、その時の父や母と同様に、いやそれ以上に植物の名前を覚えたり、土に触れることに喜びを見つけるようになっている自分がいる。歳を取るというのはそういうことなのかな…。
父は母が亡くなる頃から、自分が糖尿病予備軍であるらしいことを表明していた。好きな酒のせいで、結婚当初こそ私のように痩せぎすだった体格は、私が大人になる頃はビール腹がでっぷりと、高くない背丈の真ん中で全体の風貌を丸く印象つける程になっていて、なるほど糖尿病予備軍か、と私は納得するようになっていた。
しかし、父が本当に糖尿病になったのか予備軍のままだったのか、実は私はいまだによく分かっていない。ただ、そういう事情でたまに病院に行っては常用薬をもらってきて飲んでいた。インシュリンを打つこともなかったし、足腰は会う度に弱っていくのが分かったが、ビールを控えめにして焼酎でベロベロになる姿に、私は父の酒に対する意気込みを感じ、そしてまた特別な心配をしていなかった。
それよりも酔った後の記憶が不確かで、昨日どうやって家に戻ったのか分からないとか、酔って転んで怪我した、とか、持病のことよりどちらかというとそういう酩酊時のハプニングを心配していた。ゾンビのように夜中の街路を這いつくばる父を保護してからは特にそうだった。
そんな中、池袋の病院から、父が救急車て運ばれて寝ている、という報せを受けた。遂に、よからぬことが起きてしまったのか…、と動揺したが、埼玉の田舎にいる私より先に姉が病院に急行してくれた。姉によると池袋の飲み屋で倒れて店員が救急車を呼んだものらしいが、もう意識も戻って平気そうなので、とそのまま姉が随行して家まで戻ったらしかった。
その頃から父の記憶障害や、尿漏れ(前立腺肥大が原因だった)など心配事が増えてきた。酔って潰れて、ふっと眠りから覚めた父が
「あれ、ここはどこだ?あれ、コッピの家かここは…?」
といった具合にボケ老人と化することが増え、コロナのワクチン3回目の後など特に調子が悪そうだった。酔ってないシラフの時にも、「ちょっとしたことで思い出せないことが増えた」などと首を傾げ、珍しく弱気な表情をみせた。(ちなみに父は私達がワクチンを受けないことを非難していたので、私は「打ったよ」と嘘をついたら心底安心していた…)
そんなこともあって、父に関してはいつ何があってもおかしくないだろう、とは思っていた。私や姉が心配するのと同様に、父の飲み仲間やバラライカ楽団のメンバー達もその父の危なかしさを察知していた。特に大学時代の後輩であるオオタニさんは、一人暮らしの父に定期的に声をかけて会う(呑む)約束を設けてくれていて、私にもそういう旨を伝えてくれていた。
一人暮らしの父と「連絡がとれない!」ということで、バラライカのショウくんから連絡をもらったり、オオタニさんから連絡をもらったことがある。連絡をもらう時は胸がゾワゾワするのだが、いずれも父がただ寝ていただけだったり(父は難聴で補聴器をつけないとまともな聴力が機能しない、ということもあった)、ただ約束を忘却し去っていただけだったり、もう人騒がせなんだからぁ、と軽口叩いて終わるようなことで済んでいた。
ところが、2021年の年末、私が小川町の酒蔵で蔵人の季節労働に従事していた最中、またオオタニさんから連絡がきた。
「お父さんと連絡が取れないんです。お家まで来たんですけど、どうも気になるのが、新聞が2.3日分溜まっていて…」
またオヤジの人騒がせだろう、と一瞬思ったが、新聞の件がどうにも引っかかった。
しかし、と思った。先週末父は我が家に来て一泊した。その時も非常に愉快そうに酔っ払って、じぃじ、と言えるようになった次女ふみを無闇に可愛がってくれた。あまつさえ、私の誕生日祝いをしてなかったから、とケーキを買ってきて、もう43になろうというオジさんの誕生日を祝ってくれたんだ。
あんなに元気だったじゃん、まさか死んだりしないよな?私はただの間違いであることを信じて、酒蔵を早退し、車で田無の実家に急行することとなった…。やめてくれよ、オレが第一発見者になるなんて勘弁してくれよ…。私は動揺を隠すために平常通り音楽をかけ、軽トラで高速を経由し、実家までの道をひた走った。しかし、残念ながら独居を守ったマンションの浴室で父は息を引き取っていたのだった。
⑦へ続く
いずれ田舎暮らし、という移住の夢は私たち夫婦の間でずっとくすぶっている事柄だった。いろんな田舎を想定してみていたが、その時知った小川町の、山に囲まれた大自然、東京までの近さ、そして何より価値観を強く共有できる友人家族がとにかく近くに住んでいる、ということが私たちを後押しした。そしていろんな偶然が重なって2020年の夏、そう2人目の娘が無事生まれ、私たちは中古で買った渋い古民家風の家で新しい生活を始めることになった。急展開すぎて私はその時期ずっとハイだった。
この大きな変化の兆しが見えた頃、すぐに私は父にこの大いなる挑戦について、慎重に、神妙に相談した。仮に父に反対されたとして、断念することはなかろう、というくらい前のめりではあったが、案外父は、ふむふむという具合に聞いてくれた。同居問題ですれ違ったのにあっさりしたもんだった。
「小川町か、いいじゃないか、オレはゴルフでよく行ってるんだ。」
私はそれまで小川町という場所が埼玉県にあることすら知らなかったのに、父はすでに勝手知ったるような口ぶりなのだった。
私達が移住してから、父はゴルフに行くついでに、という具合に度々我が家に泊まりに来た。2人の可愛い孫に会いに、できればゴルフじゃない時にも来たそうであったので、できるだけ父からの来訪の提案には応えるようにした。
父が来れば、お金を気にせずメシ食えるしな、なんて私ははしたない気持ちでいたが、何より父と娘たちが仲良くしてる姿が毎度微笑ましく、母には孫の顔を見せられなかったが、こうしてオヤジには借りを返せているのかな、などとぼんやり考えていた。
父が私たちの移住に異論を挟まなかったことは、ゴルフのことだけではなく、小川町の田舎暮らしが、郷里の山口の田舎暮らしをどこか彷彿させていたからではないかと、私たち夫婦は感じていた。それは父が小川町に来て過ごしていた時の、いくつかの瞬間になんとなく感じるようなことだった。私が小川町に移住後に入会した里山クラブという里山愛護のコミュニティに父を連れて行った時もそれは感じられた。
里山クラブの会長は、父より少し上で、何となく風貌が父と似ていた。連れて行ったこと子が会長のことをじぃじに似ている、と言ったことがきっかけだったのだが、確かに頭の禿げ上がり方や、その時はたまたま身なりも近寄っていた。私とピーはこと子がそう言った時、確かに! と吹き出してしまった。偶然にも会長も父と同じで現役時代は教師だった。そんな具合に、父と、自然という領域で気持ちを重ねられたことは嬉しいことだった。
子どもの頃、父と母がたまに花や木を見て、これは何々だ、いや違うわよ何々よ、云々と植物の名前やウンチクを言い合うのを見て、何でそんなことで盛り上がっているのだろう、と不思議だった。気づいたら田舎に移住して、その時の父や母と同様に、いやそれ以上に植物の名前を覚えたり、土に触れることに喜びを見つけるようになっている自分がいる。歳を取るというのはそういうことなのかな…。
父は母が亡くなる頃から、自分が糖尿病予備軍であるらしいことを表明していた。好きな酒のせいで、結婚当初こそ私のように痩せぎすだった体格は、私が大人になる頃はビール腹がでっぷりと、高くない背丈の真ん中で全体の風貌を丸く印象つける程になっていて、なるほど糖尿病予備軍か、と私は納得するようになっていた。
しかし、父が本当に糖尿病になったのか予備軍のままだったのか、実は私はいまだによく分かっていない。ただ、そういう事情でたまに病院に行っては常用薬をもらってきて飲んでいた。インシュリンを打つこともなかったし、足腰は会う度に弱っていくのが分かったが、ビールを控えめにして焼酎でベロベロになる姿に、私は父の酒に対する意気込みを感じ、そしてまた特別な心配をしていなかった。
それよりも酔った後の記憶が不確かで、昨日どうやって家に戻ったのか分からないとか、酔って転んで怪我した、とか、持病のことよりどちらかというとそういう酩酊時のハプニングを心配していた。ゾンビのように夜中の街路を這いつくばる父を保護してからは特にそうだった。
そんな中、池袋の病院から、父が救急車て運ばれて寝ている、という報せを受けた。遂に、よからぬことが起きてしまったのか…、と動揺したが、埼玉の田舎にいる私より先に姉が病院に急行してくれた。姉によると池袋の飲み屋で倒れて店員が救急車を呼んだものらしいが、もう意識も戻って平気そうなので、とそのまま姉が随行して家まで戻ったらしかった。
その頃から父の記憶障害や、尿漏れ(前立腺肥大が原因だった)など心配事が増えてきた。酔って潰れて、ふっと眠りから覚めた父が
「あれ、ここはどこだ?あれ、コッピの家かここは…?」
といった具合にボケ老人と化することが増え、コロナのワクチン3回目の後など特に調子が悪そうだった。酔ってないシラフの時にも、「ちょっとしたことで思い出せないことが増えた」などと首を傾げ、珍しく弱気な表情をみせた。(ちなみに父は私達がワクチンを受けないことを非難していたので、私は「打ったよ」と嘘をついたら心底安心していた…)
そんなこともあって、父に関してはいつ何があってもおかしくないだろう、とは思っていた。私や姉が心配するのと同様に、父の飲み仲間やバラライカ楽団のメンバー達もその父の危なかしさを察知していた。特に大学時代の後輩であるオオタニさんは、一人暮らしの父に定期的に声をかけて会う(呑む)約束を設けてくれていて、私にもそういう旨を伝えてくれていた。
一人暮らしの父と「連絡がとれない!」ということで、バラライカのショウくんから連絡をもらったり、オオタニさんから連絡をもらったことがある。連絡をもらう時は胸がゾワゾワするのだが、いずれも父がただ寝ていただけだったり(父は難聴で補聴器をつけないとまともな聴力が機能しない、ということもあった)、ただ約束を忘却し去っていただけだったり、もう人騒がせなんだからぁ、と軽口叩いて終わるようなことで済んでいた。
ところが、2021年の年末、私が小川町の酒蔵で蔵人の季節労働に従事していた最中、またオオタニさんから連絡がきた。
「お父さんと連絡が取れないんです。お家まで来たんですけど、どうも気になるのが、新聞が2.3日分溜まっていて…」
またオヤジの人騒がせだろう、と一瞬思ったが、新聞の件がどうにも引っかかった。
しかし、と思った。先週末父は我が家に来て一泊した。その時も非常に愉快そうに酔っ払って、じぃじ、と言えるようになった次女ふみを無闇に可愛がってくれた。あまつさえ、私の誕生日祝いをしてなかったから、とケーキを買ってきて、もう43になろうというオジさんの誕生日を祝ってくれたんだ。
あんなに元気だったじゃん、まさか死んだりしないよな?私はただの間違いであることを信じて、酒蔵を早退し、車で田無の実家に急行することとなった…。やめてくれよ、オレが第一発見者になるなんて勘弁してくれよ…。私は動揺を隠すために平常通り音楽をかけ、軽トラで高速を経由し、実家までの道をひた走った。しかし、残念ながら独居を守ったマンションの浴室で父は息を引き取っていたのだった。
⑦へ続く
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