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父のこと⑦完

父は死後4日も経って見つかったので、腐敗が始まっていたから、私が姿を確認してから後は、警察や警察医などのほかは、家族である姉も、誰も父の顔を拝めなかった。そのため葬儀はともかく早く火葬してあげなければならなかった。

父の最期の姿を見て混乱状態だった私は慌しい状況の中、父が死んでしまったことを繰り返し反芻していた。考えているうちにすぐに、妙な気分が押し寄せてきた。

通例、死とは悲しいことである。何か宗教的な信仰がない限り大抵はそう捉えるだろう。しかし、私にその時押し寄せてきた波は悲しみではなかった。最期の姿を思い出すたびに辛い心境になったが、それでも亡くなった父の影を思い出そうとすると、それはどうしてもあの、酒で酔っ払ってだらしなくなった時の父の可愛い姿なのだ。

私が家族を持ってからというもの、友達のようにすら感じるようになった父とは、ほぼ毎回、酒の席で交流していたからなのか…。とにかく私の中で父は死んでおらず、心の内に今もいる、今もあのチャーミングな笑顔をむけてくれる…。最期の姿は辛かったが、悲しくはないんだ、私は不思議な気持ちに覆われるようになった。

火葬を終え、告別式の案内などで沢山の父の友人知人に連絡し、挨拶しなければならなかったのだが、さぞお辛いでしょう、とか、気持ちを落とさず、しっかり頑張って、などと励まされるたびに、ええ、まあ、と言いながら違和感を覚える自分を恥じた。しかし、日を追うごとに、もしかしたら父の死は天晴れなものだったのかもしれない、そうに違いない、とすら思えるようになっていった。

母は私が20代の頃に胃癌で亡くなった。ガンが見つかって1年、最期まで辛い闘病の姿を見つめなければならなかった。子育てがひと段落し、今までやりたくてもできなかったことをやりたい、そんな期待を母はその後の人生に抱いていた…。その死に比べると父の死は圧倒的に苦しまなかったし、ギターや執筆、やりたいことはとことんやり尽くした。警察医によると水を飲んで苦しんだ形跡が見られない、とのことで、楽観的に想像すると、湯船に浸かりいい塩梅だったのかもしれない。その日はゴルフに行って帰って来た日だ。しかもその前日は小川町の私の家でしたたか酔っ払って楽しんだ。最後まで父は楽しんでいたのだ。

父の最期の姿のトラウマは、そんな妄想を巡らせているうちに楽になり、その流れで告別式の喪主挨拶で、酒に塗られた父の笑い話を交え、長尾和彦の突然の死は悲しみではないぞ、という印象を共有しようと試みた。笑い話は大受けしたのだが、挨拶の最後、どんなタイプの友人を紹介しても分け隔てなく仲良くしようとしてくれた父の懐の深さを述懐するところで想定外に喉を詰まらせてしまい、涙交じりの声色になってしまった。それが甲斐あってか、素晴らしい挨拶だったよ、などと後で褒められまくる格好になってしまい恐縮した。

父は人前で挨拶するのが得意だった。そもそもが国語の教師であり人前に立つのは慣れっこ。親戚の集まりから始まって、なんやかんや世話役とか代表とかやっては、なんとかかんとか挨拶をする。父の挨拶には必ず時事ネタを交えた駄洒落を欠かさない。つまりはオヤジギャグという類のノリだが、そんな時に繰り出す父のおどけた表情はみんなを和やかな気持ちにさせていた。と思う。

挨拶の達人である告別式の挨拶なので、笑い話を交えるのは父からの試練なのかもシレンかったが、父の腐れ縁という名の親友だったコバヤシさんが、告別式の夜電話をかけてきて、
「ハルタケくんの喪主挨拶は立派だった、オレは嬉しかったよ、流石長尾の倅だ…」
と迫真の告白をしてくれて私は、喪主挨拶は合格点だったかな、と思った。

父が死んで、私は改めて父がクラシックギター界の功労者であったことを知った。今はなきクラシックギターの専門誌、「ギターミュージック」の編集長を長く務めた(2足の草鞋である…)こともあり、同じくクラシックギター専門誌、現代ギターに、父の訃報と各界からの追悼文が見開きで掲載されたのだ。ほとんどの人が父が果たした功績や、人望などを讃えたもので物足りなかったが、1人だけ違う方向性の追悼をしているのを見つけた。

「つまりどうしたって思い出される姿はギターを弾いている姿より、主戦場であった酒の席でのそれだ」と父との思い出を振り返り、酒で酔い潰れて介抱する人に迷惑をかける、迷惑をかけるがどうしてもあの愛嬌と人柄で許してしまうオーラがあった、と評していて嬉しくなった。そうなんだよな、そうそう、と合点しておかしかった。

悲しくない、というのは、本人がやりたいことをやり切った印象もあったし、私が父に伝え残したり聞き残した、と思うことがなく、ただいい関係になれたからだと私は思っている。父が悪酔いした末の取っ組み合いの喧嘩を経てそんな関係が出来上がったような気もする。

父は私が全力で取り組んでいたロックバンド「赤い疑惑」のことを正面から褒めてくれたことはなかった。しかし父の死後、父を「可愛い」と評したシュウくんが「ゲンちゃんのいないとこでは結構褒めてたよ」と教えてくれて私は胸が熱くなった。私がロックに夢中になり、バンドを志したのも、当時こそ父の影響ではないと確信していたが、母もギターをやっていたことを冷静に振り返れば遺伝子的に音に対する拘りを両親から継いでいただろうことは否めない(このような執筆意欲についても同様だと思っている)。

年末に告別式を無事終えた大晦日、私たち家族は、年越し行事として毎年訪れている御岳山へ行き、初日の出を拝みにいった。その名も長尾平という眺望スポットがあり、運命を感じた私はその時から毎年、そこから初日の出を眺めることにしていた。

いつものように夜中に車で出発し、まだ暗い中、御岳山の麓からケーブルカーで山腹の駅に上がる。その頃には遠く見える東京の夜景の向こうの空がやや白み始める。そこから御嶽神社のある山頂まで30分ほど登る。御嶽神社へ上がる長い石段の手前を外れると間もなく長尾平にたどり着く。

日の出待ちの数十名が芝生に腰を下ろし、恐ろしく寒い冬の山の空気に身を縮めながら、日の出山の方角を一斉に見つめ、まだかな、まだかな、とやる。まだ2歳にもならない次女のふみが過酷な状況に駄々をこね始める。

きたんじゃない? きたんじゃない? と皆が騒ぎ始めると水平線の向こうから美しい光が段々と、この世界の光景に少ずつ変化を与えて登ってくる。気づくと私の喉から嗚咽が漏れた。不本意に涙が溢れてしまった。油断していた。泣いてしまった状況を誤魔化すために横にいたピーさんに「オヤジが、オヤジがっ」とすがりつくと、子どもをあやす様にピーが背中をさすってくれた。

そのご来光に父がいた。父はあそこにいる。私は感動を抑えられなかった。そしてこの過酷な初日の出講に以前父が同行したことを思い出した。その時は私は友人とのお楽しみモードだったので、何だよ、行くの? と面倒臭がったが断るのもアレだし、と一緒に行くことになったのだ。

60代だった父は、私たちが登るペースに合わせられず、しかし、不平も漏らさず頑張って登り、日の出を観て感動していた。面倒臭がらずに連れてきてよかった、と思った。そしてそれから何年か後、私とピーさんの結婚式はこの御嶽神社で挙げたので、父はここに2度来ていた(3回だったかなぁ)。神前式では父が文字通り実家の箪笥の奥に大事に仕舞っていた紋付袴を、私と父でそれぞれ着た。そんなことも思い出された。

年が明け、神棚を、まだ片付け切らない実家のマンションから移住先の小川町に移してようやくひと段落した気持ちになった。父の死を受け入れる時間の流れの中で、父は潜在意識の中で自分の死期に気づいていたのかもしれない、と思うようになった。最後に我が家に来た時、自分が今持ってる財産や、抱えている兄弟間の遺産争いの問題についていつもよりしつこく私に伝えて来たし、1ヶ月以上遅れて私の、43歳のおっさんの誕生日をわざとらしく祝ってくれたからだ。したたかに飲んで翌日赤羽でゴルフに行くと言ってたのに、潰れる間際には、オレは明日何処に行くんだっけ、という具合だった。

その日、昼から我が家に来ていた父はまだ一歳のよちよちだった次女のふみを、ホントによく可愛がってくれていた。発話を覚えたてのふみがじいじ、じいじ、とはっきり、しかもかなり力強く呼んだ最初の日だった。もし私が、父の死に悲しみを見出すとすると、こと子とふみがもうじいじに会えなくなってしまった。あの微笑ましい、じいじと娘たちの睦まじい姿をもう二度と眺めることはできなくなってしまった、というその喪失感ひとつである。

父との次の宴は私がいつか天に昇ってから。

エストレージャス(スペイン語で星たちの意。父と母と、大沢夫妻の4人で活動していたラテングループの名前)になった父、長尾和彦に捧げる。

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