脱サラリーマン物語(前編)
私の小さな頃の将来の夢、後で見返して1番古い記録は幼稚園児の時のもので、「消防士」であった。動機はまったく思い出せず、私も世間並みの男の子同様、初めは働く乗り物や公務員に憧れたのかもしれない。
動機まで思い出せる小さい頃の将来の夢は「ゴミ屋さん」である。決まった時間に可燃ゴミをマンションのゴミ捨て場に持って行くと、大体収集の時間と重なって、パッカー車でお兄さん達がやってくる。ゴミを集めてはパッカー車の中に投げ入れる、その姿を幼い私はワクワクした気持ちで眺めていた。ボンボン放り込んで溜まってくると、後部の羽を回転させて溜まったゴミを車内にギュウギュウ押し込んだ。この一連の作業行程が面白い。そして、作業が終わると作業員のお兄さんたちは収集車のお尻に飛び乗って、鉄のバーか何か掴んで、次の回収場所へと流れていく。
さすがに道路交通法の関係か、収集車の後部に飛び乗って移動することは禁止になったのだろう、いつからか、そのアクロバチックな作業員の活躍は見られなくなってしまったが、とにかく、私はゴミ収集の仕事に並々ならぬ関心を寄せたものだ。
しかし、将来の夢がゴミ収集員という、いたいけで無欲恬淡な私の信条は、野球との出会いですぐに何処かへ消失してしまった。いや、野球に引き込まれたのはホントだが、野球を始めるに至った直接の要因は、当時無理矢理習わされていた剣道のせいであった。
生まれ故郷が八幡宮であった父は子供の頃は剣道をやらされていた。私がやらされたのもそのせいである、と思っている。進んで剣道やりたい、というような武士道精神を幼児の私が持つはずはなかったから。
剣道の稽古は田無警察の地下にある道場で行われていた。裸足がひんやりとした床に冷たく、防具は汗臭く、小手を打たれるのが痛くて嫌で嫌で仕方なかった。武道が健全な身体の維持に役立つ、などという視点はもちろんなかったし、私はどうにかして剣道をやめたかった。
そんな時少し興味を持ち始めたのが野球で、リトルリーグに入れば心身鍛錬の名目で剣道を辞めさせてもらえるかもしれない…。ガキながらに叩き出した私の目論見は功を奏し、剣道はそれっきり、私はそこから実際野球にのめり込んでいった。
同時にその頃から、将来の夢欄には「プロ野球選手」という文字列が並ぶこととなった。壁当て(昔流行った遊びで軟式ボールを壁に投げあてて、跳ね返ったボールを拾うだけの遊び。当時は真横に車が置いてある駐車場なんかでも平気でやって、誤って車にぶつけても咎められた記憶がない…)に興じては自分がプロ野球の投手になった設定で、脳内で熾烈な試合を乗り越える投手である妄想、または甲子園の決勝で、打者を封じ込めて優勝する妄想、などで私は満足していた。
ところが大きな問題が野球好きの私を常に不安にさせていた。つまり、私の運動神経が一般から著しく離れて、とにかく鈍い、という事実だった。徒競走なんかで言うと、太ってもおらず痩せぎすな体型のくせに、学年で下から数え上げるような成績で、ある年、運動会の徒競走が、体育のデータに基づいて速い順に競わせるスタイルをとって行われたことがあったが、私は最終レースに組み込まれ、並んだ男子生徒は私以外軒並み肥満児だった。
小学生の残酷の一つに、小学生女子の熱視線の対象は運動神経のいい男子、と相場が決まっていたことがある。運動神経が人より遥かに低いことを自覚した私は体育が恨めしく、上記のような経験から運動会や、体育祭の類はトラウマへと変わった。
運動神経がそんな体たらくで、体格も痩せて力のない私が、野球で活躍できるはずもなく、プロ野球の投手として活躍する妄想は続いたものの、結果的に私はリトルリーグのベンチを温め続け、懲りずに中学で入った野球部のベンチも温め続けることになった。健気だなと今でも思うのは、その頃もまだプロ野球選手、というカードを捨てきれずにいたことだ。
その現実乖離した将来の夢がガラリと塗り替えられたのが中学1年生の冬に友人と観に行ったロックコンサートだった。80年代後半から90年代初頭に人気を博し、TVCMでもしばしば楽曲が使われたジュンスカイウォーカーズというバンドのライブだった。
ダフ屋さんが周囲を徘徊していた。チケットない人あるよー、余ってる人買うよー、と不穏な雰囲気のオジサンが、コンサート会場である武道館のまわりに蝟集するファンの間を彷徨っていたことを覚えている。
目当てのジュンスカのライブは最高だった。ステージに立ってロックンロールを奏でる4人のメンバーを、遠く2階席から私は眩しく眺めて心を震わせていた。エレキギターとドラムスの爆音が心臓を震わせ、ミヤタカズヤのポジティブな歌詞が私の心を躍動させた。
その日から将来の夢がめでたく「プロ野球選手」から「ロックンローラー」となったのである。初めて受験というものに臨んだ時も軽音楽部のある高校に拘り、中学校の卒業式では、卒業証書授受の際に、全校生徒の前で1人一言、想いを発表する決まりになっていたので、愚かな私は恥ずかしげもなく「ロックンローラーになりたい!」と豪語したのである。
運動音痴の私がプロ野球選手を目指す、という痛々しい夢が、ロックンローラーに変わったのはいいが、ミュージシャンになるほどの音楽的才能があるとはいえず(当時は自分を音楽的天才だと思い込んでいたが…)、その頃母が頭を抱えたのもむべなるかな。
この「ロックンローラー」への道はその後、20代後半まで引き摺ることとなり、つまり、その道すじに就職活動というものは入る余地はなく、私は大学生を終えると、粛々とフリーターへと転身。家族の反対が煩わしいので実家を出て一人暮らしが始まった。
かように、私の歴史の中でサラリーマンという概念が理想として登場することはなく、むしろ、スーツ着て満員電車に揺られ、会社のために嫌なことでもなんでもやる、というイメージのサラリーマンは、絶対に避けるべき職業だと思い込んでいた。そしてそれは大学卒業前に経験した海外旅行で確信へと変わった。そう、あの草臥れたスーツ姿のサラリーマン達は日本にだけ特有の民族だと分かったのだ…。(中編へつづく)
動機まで思い出せる小さい頃の将来の夢は「ゴミ屋さん」である。決まった時間に可燃ゴミをマンションのゴミ捨て場に持って行くと、大体収集の時間と重なって、パッカー車でお兄さん達がやってくる。ゴミを集めてはパッカー車の中に投げ入れる、その姿を幼い私はワクワクした気持ちで眺めていた。ボンボン放り込んで溜まってくると、後部の羽を回転させて溜まったゴミを車内にギュウギュウ押し込んだ。この一連の作業行程が面白い。そして、作業が終わると作業員のお兄さんたちは収集車のお尻に飛び乗って、鉄のバーか何か掴んで、次の回収場所へと流れていく。
さすがに道路交通法の関係か、収集車の後部に飛び乗って移動することは禁止になったのだろう、いつからか、そのアクロバチックな作業員の活躍は見られなくなってしまったが、とにかく、私はゴミ収集の仕事に並々ならぬ関心を寄せたものだ。
しかし、将来の夢がゴミ収集員という、いたいけで無欲恬淡な私の信条は、野球との出会いですぐに何処かへ消失してしまった。いや、野球に引き込まれたのはホントだが、野球を始めるに至った直接の要因は、当時無理矢理習わされていた剣道のせいであった。
生まれ故郷が八幡宮であった父は子供の頃は剣道をやらされていた。私がやらされたのもそのせいである、と思っている。進んで剣道やりたい、というような武士道精神を幼児の私が持つはずはなかったから。
剣道の稽古は田無警察の地下にある道場で行われていた。裸足がひんやりとした床に冷たく、防具は汗臭く、小手を打たれるのが痛くて嫌で嫌で仕方なかった。武道が健全な身体の維持に役立つ、などという視点はもちろんなかったし、私はどうにかして剣道をやめたかった。
そんな時少し興味を持ち始めたのが野球で、リトルリーグに入れば心身鍛錬の名目で剣道を辞めさせてもらえるかもしれない…。ガキながらに叩き出した私の目論見は功を奏し、剣道はそれっきり、私はそこから実際野球にのめり込んでいった。
同時にその頃から、将来の夢欄には「プロ野球選手」という文字列が並ぶこととなった。壁当て(昔流行った遊びで軟式ボールを壁に投げあてて、跳ね返ったボールを拾うだけの遊び。当時は真横に車が置いてある駐車場なんかでも平気でやって、誤って車にぶつけても咎められた記憶がない…)に興じては自分がプロ野球の投手になった設定で、脳内で熾烈な試合を乗り越える投手である妄想、または甲子園の決勝で、打者を封じ込めて優勝する妄想、などで私は満足していた。
ところが大きな問題が野球好きの私を常に不安にさせていた。つまり、私の運動神経が一般から著しく離れて、とにかく鈍い、という事実だった。徒競走なんかで言うと、太ってもおらず痩せぎすな体型のくせに、学年で下から数え上げるような成績で、ある年、運動会の徒競走が、体育のデータに基づいて速い順に競わせるスタイルをとって行われたことがあったが、私は最終レースに組み込まれ、並んだ男子生徒は私以外軒並み肥満児だった。
小学生の残酷の一つに、小学生女子の熱視線の対象は運動神経のいい男子、と相場が決まっていたことがある。運動神経が人より遥かに低いことを自覚した私は体育が恨めしく、上記のような経験から運動会や、体育祭の類はトラウマへと変わった。
運動神経がそんな体たらくで、体格も痩せて力のない私が、野球で活躍できるはずもなく、プロ野球の投手として活躍する妄想は続いたものの、結果的に私はリトルリーグのベンチを温め続け、懲りずに中学で入った野球部のベンチも温め続けることになった。健気だなと今でも思うのは、その頃もまだプロ野球選手、というカードを捨てきれずにいたことだ。
その現実乖離した将来の夢がガラリと塗り替えられたのが中学1年生の冬に友人と観に行ったロックコンサートだった。80年代後半から90年代初頭に人気を博し、TVCMでもしばしば楽曲が使われたジュンスカイウォーカーズというバンドのライブだった。
ダフ屋さんが周囲を徘徊していた。チケットない人あるよー、余ってる人買うよー、と不穏な雰囲気のオジサンが、コンサート会場である武道館のまわりに蝟集するファンの間を彷徨っていたことを覚えている。
目当てのジュンスカのライブは最高だった。ステージに立ってロックンロールを奏でる4人のメンバーを、遠く2階席から私は眩しく眺めて心を震わせていた。エレキギターとドラムスの爆音が心臓を震わせ、ミヤタカズヤのポジティブな歌詞が私の心を躍動させた。
その日から将来の夢がめでたく「プロ野球選手」から「ロックンローラー」となったのである。初めて受験というものに臨んだ時も軽音楽部のある高校に拘り、中学校の卒業式では、卒業証書授受の際に、全校生徒の前で1人一言、想いを発表する決まりになっていたので、愚かな私は恥ずかしげもなく「ロックンローラーになりたい!」と豪語したのである。
運動音痴の私がプロ野球選手を目指す、という痛々しい夢が、ロックンローラーに変わったのはいいが、ミュージシャンになるほどの音楽的才能があるとはいえず(当時は自分を音楽的天才だと思い込んでいたが…)、その頃母が頭を抱えたのもむべなるかな。
この「ロックンローラー」への道はその後、20代後半まで引き摺ることとなり、つまり、その道すじに就職活動というものは入る余地はなく、私は大学生を終えると、粛々とフリーターへと転身。家族の反対が煩わしいので実家を出て一人暮らしが始まった。
かように、私の歴史の中でサラリーマンという概念が理想として登場することはなく、むしろ、スーツ着て満員電車に揺られ、会社のために嫌なことでもなんでもやる、というイメージのサラリーマンは、絶対に避けるべき職業だと思い込んでいた。そしてそれは大学卒業前に経験した海外旅行で確信へと変わった。そう、あの草臥れたスーツ姿のサラリーマン達は日本にだけ特有の民族だと分かったのだ…。(中編へつづく)
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