脱サラリーマン物語(中編)
さて、私のロックンローラーとしての奮闘は、アルバイトを転々としながらも続けられた。時給制の貧乏な一人暮らしは、私の貧乏好奇心のせいで逞しく楽しく続いた(フリーターでも生き生き楽しく生きられる、という姿を私は身体を張って証明せねばならなかった…)。しかし、20代に付き合っていた女性とのあれこれで、私がフリーターで居続けることに外的圧力がかかった。
母を早く亡くした私は、俄に家族や子どもというものに憧れを抱き始めた。人生は一度きり、家族を持つことは私の新たな将来の夢となった。が、その夢を実現するべく相手の女性と生きるには安定収入やその他のことが必要条件として提示された。
私はフリーター路線から脱するのが悔しかったが、その時はじめて就職活動なるものにトライする気になったのだ。生まれて初めてハローワークに赴き、学歴など関係ないような仕事を探してみた。大卒の証は新卒じゃないと無力だと聞いていたからだ。もちろん、いわゆるビジネススキルなど持ち合わせているわけでなし、できそうな仕事といえばかなり限られていた。が、文系の私にとって、親近感を抱かせるのはその中でも印刷業界くらいだと思えた。
印刷業界とはいえ、武蔵野の場末にあったその会社はエンボス加工したシールの印刷などを得意とする工業用印刷工場で、私は3ヶ月の試用期間を与えられ、そこで働くことになった。3ヶ月後に双方の合意があれば晴れて正社員という訳である。
しかし、現実はクソだった。その印刷工場の経営スタイルは古臭く、ブルドッグのような面構えの社長はじめ、その工場には陰鬱な空気が澱んでいた。同僚になるだろう先輩方もどこか暗く、通い始めてすぐに私の心はグングンと縮み上がって、この会社に骨を埋めるなんて無理、と動揺激しく、試用期間でやめよう、という決意が確かなものとなった。
彼女には失望されたが、まだ正社員というものに一縷の希望を抱いていた私は、ハローワークじゃなく、流行りの派遣社員というのをやってみよう、と派遣会社に登録したのだった。少し興味のあったHTMLやCSSなんていうwebプログラムの勉強なんてのもやった。
そして私は2社、派遣社員として働いてみた。働いてみたが、私にとってそれらのオフィスワークや、会社という組織に対する嫌悪感は拭えないばかりか、日に日に募っていくばかりだった。そうこうしているうちに私は恋人を失い、行く当てもなく父に頭を下げて実家に戻り、失意の時期を過ごした。
もちろんバンドが売れるようなことはなく、せめて何か好きになれる仕事を探さないと、と右往左往した挙句、私は当時ハマっていたワールドミュージック関係のアルバイトを見つけた。家族経営の小さな会社であったが、その仕事のおかげでワールドミュージックのあれこれを堪能することができ、またマニアックな音楽シーンに携わっているという誇りも持つことができ、そしてまた単純に好きな音楽を楽しむことができたので満足していた。
するとすぐに正社員にならない?と声をかけられ、私は思わぬ形で初めて正社員という肩書きを得た。私がイメージするような、ヒゲを剃ってスーツ着て、というステレオタイプなルールもなく、私は顎髭を蓄え、普段着のままでワールドミュージックのレビューを書いたり、輸入したCDを小売店に営業して卸すような仕事を面白がっていた。
しかし、ワールドミュージック業界は、その時すでに下火で、サブスクなんてのが流行り始めたり、どんどんCDが売れなくなっていく時期だった。90年代をピークに、業界は衰退の途を突き進んでいた。当然、会社の経営は厳しい状況で、家族経営ならではの、小さな会社で起こりがちなパワハラ問題に私はぶちあたってしまったのだ。
当時は、父が暮らしていた田無のマンションに出戻りで居候していたので生活費に困窮するほどではなかった。この会社にずっといられないな、と本能的に察知した私は3年足らずでその会社も辞めてしまった。
正社員というステータスをやけくそで捨てたはいいが、さて、これからどうすんべ、と途方に暮れていたところ、10年来のバンド仲間に、シェアハウスのクリーニングのバイトを勧められ、またアルバイトに逆戻りかぁ、と大分逡巡した挙句、ろくな当ても見つけられずに彼の誘いに乗ってみたのだった。「きっと、玄ちゃんならハマると思うよ」という彼は、とにかく同僚が面白いいい人ばっかだから、と繰り返し言うのだった。
掃除の仕事に対して、やる前は何となしに下流な仕事、という偏見を抱いていたので、ホントに耐えられるだろうか、と不安にかられた。ところが、入社してみると実際に個性的な同僚達の人情にまず感動してしまった。外国人向けのシェアハウス管理会社だったのでお客さんは外国人だけ。私は会社が管理する都内各所の物件に行き、キッチン、浴室、居間などの掃除をして回る。物件に行くと外国人しかいない。何だかそれだけで面白い。
外国人相手ということもあり、その職場には旅好きな人が多く、また音楽好きの人も多かったので、私はすぐに職場に馴染んでしまった。掃除の仕事も意外と私の性格にハマって、面白い同僚たちとのやり取りも楽しく、これは天職かもしれない、とまで思った。
そのアルバイトを始めた頃に、何と私は結婚したのだった。もはやメシの種にはならぬと弁えていたバンド活動も、頻度を落としながらも続けていて、貧乏生活が続いていたが、そういう部分にあんまり頓着しない女性だったので、「結婚するなら正社員になって」なんてことも言われなかったことをいいことに。
フリーターで何が悪い?なんてことを20代に真剣に訴えていた私は、30代になっても、フリーターが結婚しちゃダメなの?なんてことを考えており、そういう固い社会通念を打ち破る実践者として、アルバイトの身のままプロポーズしたのだった。何とも恥ずかしいことである。
話しを戻すと、その職場で楽しく働き出して、結婚して、あっという間に4年の歳月が経って…。そして、何と子どもが生まれたのだ。貧乏生活を耐え抜き、清貧を謳歌するのはいいが、子育てとなるとこのままのアルバイト収入でホントに大丈夫か? 私は急に弱気になってきた。
慣れ親しんだ職場、経営に責任感のいらないアルバイトは気楽だったが、社員はどうだろう。先輩の社員もいい人ばっかだし、会社組織は利益至上主義でいけすかないが、そこだけ目を瞑れば…。私は部署の長に正社員で働きたい意志を伝えると、難なく社員になることができた。
社員になると、仕事の内容も飛躍的に増えた。単調な掃除の仕事以外にも、ハイエースを運転して各所を回り、DIY補修やリフォーム業務、エアコンや水道など設備のメンテナンス等々、退屈しない内容だった。お客さんとのトラブルや、会社の方針での無茶ぶりやパワハラなど、嫌な面もいくらかあったが、スーツなど着る必要もなく、ここも普段着で顎髭を蓄えたまま働ける。外国人との日常的なやり取りの連続で、貧乏旅行では全然喋れなかった英会話も、日常会話ならできるようになってきたし、糧にもなってる。その上、多くはないけどボーナスなんてものまでもらえるようになって…。
このままこの会社で働き続けるのかなぁ、そんなことまで考え始めていた。そしてアルバイトから正社員になって、また4年ほど経った頃だった。私に2人目の子どもができたのだ。
当時、2DKの典型的な間取りのアパートに住んでいたが、子どもが2人、となると、すぐに手狭になるだろう、いずれ引っ越さなきゃならぬだろう、というのは夫婦の共通認識だった。そして、東北震災以降、いずれは田舎に移住して、という方針も同様だった。ただ具体的な場所の検討ときっかけがなかったのだ。
2人目が生まれることになり、いよいよ住居探しも真剣に、と感じていた頃、ひょんなきっかけで遊びに行った、埼玉県小川町に惚れ込み、トントン拍子で移住することが決まった。私は正社員という身分であったことをいいことに15年の住宅ローンを組んで古民家風の中古屋を購入したのだ。
水回りやキッチンなどリフォーム必須な部分もあったが、仕事で見てきた、あるいはやってきたリフォームの知識や経験を生かしてDIYを推し進めた。こんなカタチで仕事の経験が生活に生かせるのはラッキーだった。そしてワクワクドキドキ、楽しい田舎暮らしを堪能していこう、と高揚していた時期に世界がコロナショックに突入したのだった。(後前編に続く)
母を早く亡くした私は、俄に家族や子どもというものに憧れを抱き始めた。人生は一度きり、家族を持つことは私の新たな将来の夢となった。が、その夢を実現するべく相手の女性と生きるには安定収入やその他のことが必要条件として提示された。
私はフリーター路線から脱するのが悔しかったが、その時はじめて就職活動なるものにトライする気になったのだ。生まれて初めてハローワークに赴き、学歴など関係ないような仕事を探してみた。大卒の証は新卒じゃないと無力だと聞いていたからだ。もちろん、いわゆるビジネススキルなど持ち合わせているわけでなし、できそうな仕事といえばかなり限られていた。が、文系の私にとって、親近感を抱かせるのはその中でも印刷業界くらいだと思えた。
印刷業界とはいえ、武蔵野の場末にあったその会社はエンボス加工したシールの印刷などを得意とする工業用印刷工場で、私は3ヶ月の試用期間を与えられ、そこで働くことになった。3ヶ月後に双方の合意があれば晴れて正社員という訳である。
しかし、現実はクソだった。その印刷工場の経営スタイルは古臭く、ブルドッグのような面構えの社長はじめ、その工場には陰鬱な空気が澱んでいた。同僚になるだろう先輩方もどこか暗く、通い始めてすぐに私の心はグングンと縮み上がって、この会社に骨を埋めるなんて無理、と動揺激しく、試用期間でやめよう、という決意が確かなものとなった。
彼女には失望されたが、まだ正社員というものに一縷の希望を抱いていた私は、ハローワークじゃなく、流行りの派遣社員というのをやってみよう、と派遣会社に登録したのだった。少し興味のあったHTMLやCSSなんていうwebプログラムの勉強なんてのもやった。
そして私は2社、派遣社員として働いてみた。働いてみたが、私にとってそれらのオフィスワークや、会社という組織に対する嫌悪感は拭えないばかりか、日に日に募っていくばかりだった。そうこうしているうちに私は恋人を失い、行く当てもなく父に頭を下げて実家に戻り、失意の時期を過ごした。
もちろんバンドが売れるようなことはなく、せめて何か好きになれる仕事を探さないと、と右往左往した挙句、私は当時ハマっていたワールドミュージック関係のアルバイトを見つけた。家族経営の小さな会社であったが、その仕事のおかげでワールドミュージックのあれこれを堪能することができ、またマニアックな音楽シーンに携わっているという誇りも持つことができ、そしてまた単純に好きな音楽を楽しむことができたので満足していた。
するとすぐに正社員にならない?と声をかけられ、私は思わぬ形で初めて正社員という肩書きを得た。私がイメージするような、ヒゲを剃ってスーツ着て、というステレオタイプなルールもなく、私は顎髭を蓄え、普段着のままでワールドミュージックのレビューを書いたり、輸入したCDを小売店に営業して卸すような仕事を面白がっていた。
しかし、ワールドミュージック業界は、その時すでに下火で、サブスクなんてのが流行り始めたり、どんどんCDが売れなくなっていく時期だった。90年代をピークに、業界は衰退の途を突き進んでいた。当然、会社の経営は厳しい状況で、家族経営ならではの、小さな会社で起こりがちなパワハラ問題に私はぶちあたってしまったのだ。
当時は、父が暮らしていた田無のマンションに出戻りで居候していたので生活費に困窮するほどではなかった。この会社にずっといられないな、と本能的に察知した私は3年足らずでその会社も辞めてしまった。
正社員というステータスをやけくそで捨てたはいいが、さて、これからどうすんべ、と途方に暮れていたところ、10年来のバンド仲間に、シェアハウスのクリーニングのバイトを勧められ、またアルバイトに逆戻りかぁ、と大分逡巡した挙句、ろくな当ても見つけられずに彼の誘いに乗ってみたのだった。「きっと、玄ちゃんならハマると思うよ」という彼は、とにかく同僚が面白いいい人ばっかだから、と繰り返し言うのだった。
掃除の仕事に対して、やる前は何となしに下流な仕事、という偏見を抱いていたので、ホントに耐えられるだろうか、と不安にかられた。ところが、入社してみると実際に個性的な同僚達の人情にまず感動してしまった。外国人向けのシェアハウス管理会社だったのでお客さんは外国人だけ。私は会社が管理する都内各所の物件に行き、キッチン、浴室、居間などの掃除をして回る。物件に行くと外国人しかいない。何だかそれだけで面白い。
外国人相手ということもあり、その職場には旅好きな人が多く、また音楽好きの人も多かったので、私はすぐに職場に馴染んでしまった。掃除の仕事も意外と私の性格にハマって、面白い同僚たちとのやり取りも楽しく、これは天職かもしれない、とまで思った。
そのアルバイトを始めた頃に、何と私は結婚したのだった。もはやメシの種にはならぬと弁えていたバンド活動も、頻度を落としながらも続けていて、貧乏生活が続いていたが、そういう部分にあんまり頓着しない女性だったので、「結婚するなら正社員になって」なんてことも言われなかったことをいいことに。
フリーターで何が悪い?なんてことを20代に真剣に訴えていた私は、30代になっても、フリーターが結婚しちゃダメなの?なんてことを考えており、そういう固い社会通念を打ち破る実践者として、アルバイトの身のままプロポーズしたのだった。何とも恥ずかしいことである。
話しを戻すと、その職場で楽しく働き出して、結婚して、あっという間に4年の歳月が経って…。そして、何と子どもが生まれたのだ。貧乏生活を耐え抜き、清貧を謳歌するのはいいが、子育てとなるとこのままのアルバイト収入でホントに大丈夫か? 私は急に弱気になってきた。
慣れ親しんだ職場、経営に責任感のいらないアルバイトは気楽だったが、社員はどうだろう。先輩の社員もいい人ばっかだし、会社組織は利益至上主義でいけすかないが、そこだけ目を瞑れば…。私は部署の長に正社員で働きたい意志を伝えると、難なく社員になることができた。
社員になると、仕事の内容も飛躍的に増えた。単調な掃除の仕事以外にも、ハイエースを運転して各所を回り、DIY補修やリフォーム業務、エアコンや水道など設備のメンテナンス等々、退屈しない内容だった。お客さんとのトラブルや、会社の方針での無茶ぶりやパワハラなど、嫌な面もいくらかあったが、スーツなど着る必要もなく、ここも普段着で顎髭を蓄えたまま働ける。外国人との日常的なやり取りの連続で、貧乏旅行では全然喋れなかった英会話も、日常会話ならできるようになってきたし、糧にもなってる。その上、多くはないけどボーナスなんてものまでもらえるようになって…。
このままこの会社で働き続けるのかなぁ、そんなことまで考え始めていた。そしてアルバイトから正社員になって、また4年ほど経った頃だった。私に2人目の子どもができたのだ。
当時、2DKの典型的な間取りのアパートに住んでいたが、子どもが2人、となると、すぐに手狭になるだろう、いずれ引っ越さなきゃならぬだろう、というのは夫婦の共通認識だった。そして、東北震災以降、いずれは田舎に移住して、という方針も同様だった。ただ具体的な場所の検討ときっかけがなかったのだ。
2人目が生まれることになり、いよいよ住居探しも真剣に、と感じていた頃、ひょんなきっかけで遊びに行った、埼玉県小川町に惚れ込み、トントン拍子で移住することが決まった。私は正社員という身分であったことをいいことに15年の住宅ローンを組んで古民家風の中古屋を購入したのだ。
水回りやキッチンなどリフォーム必須な部分もあったが、仕事で見てきた、あるいはやってきたリフォームの知識や経験を生かしてDIYを推し進めた。こんなカタチで仕事の経験が生活に生かせるのはラッキーだった。そしてワクワクドキドキ、楽しい田舎暮らしを堪能していこう、と高揚していた時期に世界がコロナショックに突入したのだった。(後前編に続く)
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