山を買った男の物語(中編)
裏山の持ち主T婆さんと直接挨拶してから、私の生活は慌ただしかった。植木屋の見習いとしての勤務日数は、荒天を除いて基本的に週6日というのが、その他の土木建設業の職人などの勤務形態と同様であるらしく、毎日額に汗して働かねばならなかった。そんな状況でしばらく裏山売買に関して、何か行動を起こしたり、思案する余裕もなく、楽しいながらも私たちの田舎暮らしは怒濤の如く過ぎていった。
そして移住生活が始まり半年ほど経った頃、突如として軽トラキッチンカーを自作する、という計画が持ち上がり、その約半年後に大体できてしまった。ホントにできるのか半信半疑のまま素人DIY作業を続けたら何とかカタチになって、7月から実際にキッチンカーの営業が始まってしまった。ただ、キッチンカーの製作と開業の過程でテンパってしまい、私は一度植木屋の仕事を離れねばならず、キッチンカー営業が回り始めてしばらくは、収入の当てがおぼつかず、なるべくならやりたくなかった登録制の日雇労働や、日本酒造り、知的障害者のお泊り介助、などいろんなバイトをして糊口をしのがなければならなかった。そして紆余曲折の末、複数の仕事を兼任するのは止して、また縁があって植木屋に戻ることができた。
そんな忙しく慌ただしい日々の中、2021年末、東京で単身暮らしていた父が死んだ。長男である私は告別式の喪主を担わねばならず、それから1ヶ月ほど混沌の日々を送った。告別式が終わると、残された姉と2人、父が暮らしていた(私と姉が育った)実家のマンションを引き払う判断を下し、それからは週に1度くらいの頻度で移住先から上京しては、実家の片づけに没頭する、という生活が続いた。
新たに世話してくれることになった植木屋の親方とは、「週に3日」という約束で働き始めたので、それ以外の日はキッチンカー(これはピーさんの仕事なのだ)の手伝いと実家の片付けに当てられた。片付けと同時に姉と連携しながら、父の遺産相続の処理も進めており、加えて父が兄弟間で抱えていた祖母の遺産相続の諍いにも巻き込まれることとなり、やはり常にバタバタしていた。
とはいえ、裏山の竹や篠竹の間伐に関してはTさんの承諾も得たので、ポッと時間が空いた時にチョコチョコと始めていった。竹にしても、篠竹にしてもほったらかしておくと、枯れたものも倒れることができないほど密になってきて、薄暗く不健康な不穏な感じになっている。そこへ、植木屋仕事で身体に馴染み始めた剪定鋏や手鋸を武器に突入し、藪をひたすら切り開く。
大変な作業だが、頑張っていると少しずつでも景色が変わってくる。ごちゃごちゃしたところを少し手入れしただけで格段に清々しい見た目となり、同時に心も澄んでいく。何なのだろうこの感じは…。部屋を綺麗に掃除すると心が清められるのと同じ原理だが、自然相手の野良仕事となると、そこに太陽や植物や風の癒し効果が相乗してくる。時間を忘れて作業に没頭してしまい、残った疲労感には何故か清々しさが付随している。
移住してからほどなく、私は野菜作りにも手を出していた。家の前の庭と、お隣の地主さんに貸してもらった畑と2箇所で適当に野菜を育て始めた。庭の方は裏山の竹藪のせいで、朝、陽が当たり始めるのが2時間ほど遅かった。それが不満で、私はまず、朝庭に射す太陽を遮っている竹に狙いを定めて切る。庭に接した公道側から庭の向こう側、竹藪の天辺を睨む。あの竹とあの竹と、と当たりをつけて目で追いながら山に入り竹を切る。植木屋で覚えたチェーンソーが唸りをあげて孟宗竹のぶっとい幹を断つ。太くても中は空洞なのでノコギリでも実は簡単に伐れる。
伐ったらまたさっきの道路側に回って藪の天辺を見ると、あらすっきり、さっき天の一部を遮っていた竹の頭がなくなり景色が微妙に変わっている。初めてこの作業をした時の感動は忘れられない。私が、私の手で、ここから見える景色を変化させたのだ!
この経験がきっかけで、私は裏山を自分のものにできたらどんなだろう、と妄想し始めた。また例えば、私は移住して間も無く里山クラブという、山好きおじさん達の激渋サークルに入会したこともあって、「山の管理」という概念が同じ時期に脳内を去来していた。また例えば、植木屋で新しく世話になっているセキネの親方は「誰かオレに山1つくれねえかな、くれたらオレが管理してやるけどなァ」などと嘯いているのを私は「いいですね〜」と聞き流していたが、そんなことやあんなことが、「山は管理するものなのか…」という今まで知らなかった事実に私を惹きつけていくのだった。タケノコも獲れるし、何だか静謐な雰囲気の竹藪に惹かれつつあった妻のピーさんもふとした時に「裏山買えないのかなぁ」などと言い出した。私の心が動揺し始める。
しかも、父の遺産相続で、10年以上の労苦を覚悟の上で決めたローンが完済できてしまった。金額次第じゃ実際に山林を購入するのも夢じゃなさそうな感じがしてきた。
T婆さんは山を、売れるモノなら売りたいと思っている。一方、田舎暮らしに目覚めた私はその山を、買えるモノなら買いたいと思っている。問題は素人同士の売買取引である。どうやって金額を決める?
ヒーさんが買った家は山付きで500万…。しかもその山も広大な面積だったはず。ウチの裏山は確か4200平米(T婆さんが固定資産税の払い込み用紙を見せてくれた時があった)…。まず100万を越えることはないだろう…。
私はこの町で知り合った不動産屋の社長のMさんに相談に行った。Mさんは、普通の不動産屋は山林は扱わないからはっきり言えないけど、と前置きして、ツボ1,000円くらいかなぁ、と曖昧に結論した。それで計算すると130万くらいである。そうですかぁ、と納得するふりをしながらも、私は腹の底で、いや、もっと安いはずだ、と心を燃やした。
また近所のNさん(私が越してきた年の隣組の班長で、ぶっきらぼうな地元民が多い中では話しやすいタイプの方だ)とそんな話しをしてたら、私も山を持ってるけど、管理が大変でほったらかしだ、という。Nさんが指差した山林は私の裏山の何区画か先のあたりで、地価もそんなに変わらなさそうにみえる。Nさんに、「あの、私の家の裏の山だと幾らくらいですかね…」と聞くと「さあねぇ、200〜300万くらい?」という。いやいや、それじゃ高すぎる。私はまた「そんなもんですかねぇ…」と相槌を打ちながら、そんなはずはない、そんなはずはない、と己れを鼓舞するような気概がみなぎってくるのを感じるのだった。(つづく)
そして移住生活が始まり半年ほど経った頃、突如として軽トラキッチンカーを自作する、という計画が持ち上がり、その約半年後に大体できてしまった。ホントにできるのか半信半疑のまま素人DIY作業を続けたら何とかカタチになって、7月から実際にキッチンカーの営業が始まってしまった。ただ、キッチンカーの製作と開業の過程でテンパってしまい、私は一度植木屋の仕事を離れねばならず、キッチンカー営業が回り始めてしばらくは、収入の当てがおぼつかず、なるべくならやりたくなかった登録制の日雇労働や、日本酒造り、知的障害者のお泊り介助、などいろんなバイトをして糊口をしのがなければならなかった。そして紆余曲折の末、複数の仕事を兼任するのは止して、また縁があって植木屋に戻ることができた。
そんな忙しく慌ただしい日々の中、2021年末、東京で単身暮らしていた父が死んだ。長男である私は告別式の喪主を担わねばならず、それから1ヶ月ほど混沌の日々を送った。告別式が終わると、残された姉と2人、父が暮らしていた(私と姉が育った)実家のマンションを引き払う判断を下し、それからは週に1度くらいの頻度で移住先から上京しては、実家の片づけに没頭する、という生活が続いた。
新たに世話してくれることになった植木屋の親方とは、「週に3日」という約束で働き始めたので、それ以外の日はキッチンカー(これはピーさんの仕事なのだ)の手伝いと実家の片付けに当てられた。片付けと同時に姉と連携しながら、父の遺産相続の処理も進めており、加えて父が兄弟間で抱えていた祖母の遺産相続の諍いにも巻き込まれることとなり、やはり常にバタバタしていた。
とはいえ、裏山の竹や篠竹の間伐に関してはTさんの承諾も得たので、ポッと時間が空いた時にチョコチョコと始めていった。竹にしても、篠竹にしてもほったらかしておくと、枯れたものも倒れることができないほど密になってきて、薄暗く不健康な不穏な感じになっている。そこへ、植木屋仕事で身体に馴染み始めた剪定鋏や手鋸を武器に突入し、藪をひたすら切り開く。
大変な作業だが、頑張っていると少しずつでも景色が変わってくる。ごちゃごちゃしたところを少し手入れしただけで格段に清々しい見た目となり、同時に心も澄んでいく。何なのだろうこの感じは…。部屋を綺麗に掃除すると心が清められるのと同じ原理だが、自然相手の野良仕事となると、そこに太陽や植物や風の癒し効果が相乗してくる。時間を忘れて作業に没頭してしまい、残った疲労感には何故か清々しさが付随している。
移住してからほどなく、私は野菜作りにも手を出していた。家の前の庭と、お隣の地主さんに貸してもらった畑と2箇所で適当に野菜を育て始めた。庭の方は裏山の竹藪のせいで、朝、陽が当たり始めるのが2時間ほど遅かった。それが不満で、私はまず、朝庭に射す太陽を遮っている竹に狙いを定めて切る。庭に接した公道側から庭の向こう側、竹藪の天辺を睨む。あの竹とあの竹と、と当たりをつけて目で追いながら山に入り竹を切る。植木屋で覚えたチェーンソーが唸りをあげて孟宗竹のぶっとい幹を断つ。太くても中は空洞なのでノコギリでも実は簡単に伐れる。
伐ったらまたさっきの道路側に回って藪の天辺を見ると、あらすっきり、さっき天の一部を遮っていた竹の頭がなくなり景色が微妙に変わっている。初めてこの作業をした時の感動は忘れられない。私が、私の手で、ここから見える景色を変化させたのだ!
この経験がきっかけで、私は裏山を自分のものにできたらどんなだろう、と妄想し始めた。また例えば、私は移住して間も無く里山クラブという、山好きおじさん達の激渋サークルに入会したこともあって、「山の管理」という概念が同じ時期に脳内を去来していた。また例えば、植木屋で新しく世話になっているセキネの親方は「誰かオレに山1つくれねえかな、くれたらオレが管理してやるけどなァ」などと嘯いているのを私は「いいですね〜」と聞き流していたが、そんなことやあんなことが、「山は管理するものなのか…」という今まで知らなかった事実に私を惹きつけていくのだった。タケノコも獲れるし、何だか静謐な雰囲気の竹藪に惹かれつつあった妻のピーさんもふとした時に「裏山買えないのかなぁ」などと言い出した。私の心が動揺し始める。
しかも、父の遺産相続で、10年以上の労苦を覚悟の上で決めたローンが完済できてしまった。金額次第じゃ実際に山林を購入するのも夢じゃなさそうな感じがしてきた。
T婆さんは山を、売れるモノなら売りたいと思っている。一方、田舎暮らしに目覚めた私はその山を、買えるモノなら買いたいと思っている。問題は素人同士の売買取引である。どうやって金額を決める?
ヒーさんが買った家は山付きで500万…。しかもその山も広大な面積だったはず。ウチの裏山は確か4200平米(T婆さんが固定資産税の払い込み用紙を見せてくれた時があった)…。まず100万を越えることはないだろう…。
私はこの町で知り合った不動産屋の社長のMさんに相談に行った。Mさんは、普通の不動産屋は山林は扱わないからはっきり言えないけど、と前置きして、ツボ1,000円くらいかなぁ、と曖昧に結論した。それで計算すると130万くらいである。そうですかぁ、と納得するふりをしながらも、私は腹の底で、いや、もっと安いはずだ、と心を燃やした。
また近所のNさん(私が越してきた年の隣組の班長で、ぶっきらぼうな地元民が多い中では話しやすいタイプの方だ)とそんな話しをしてたら、私も山を持ってるけど、管理が大変でほったらかしだ、という。Nさんが指差した山林は私の裏山の何区画か先のあたりで、地価もそんなに変わらなさそうにみえる。Nさんに、「あの、私の家の裏の山だと幾らくらいですかね…」と聞くと「さあねぇ、200〜300万くらい?」という。いやいや、それじゃ高すぎる。私はまた「そんなもんですかねぇ…」と相槌を打ちながら、そんなはずはない、そんなはずはない、と己れを鼓舞するような気概がみなぎってくるのを感じるのだった。(つづく)
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