第一回キラナ里山祭り
そこは小川町の外れ、飯田集落から山間に入るドンつきの広場である。奥には石尊山が控え、広葉樹が朗らかに伸びている。ここは先人たちが丁寧に維持管理してきた雑木の空間だ。先人たちというのは里山クラブの先輩たちで、もっと言うとここはそのクラブの佐藤会長の土地なのだった。
その広場には大きなコナラの樹冠が覆う板張りのステージが一部に設られ、その脇にはツリーハウスがある(今は要改修で立ち入り禁止だが)。ステージの下には武骨な炭焼き窯がドンと構えていて、その存在は広場の雰囲気を味のあるものにしている。
移住して、田舎のことを知りたい、と前のめりになっていた私は里山クラブのことを知り、体験でお邪魔したその日に入会を決意した。クラブを構成するメンバーたちの平均年齢は60から70くらいだろうか、最年長者は80を越えていた。私は地元の爺さん達と仲良くなっていろんなことを教えてもらいたい、と移住を決めてから密かに企んでいたので、これはかっこうの学び舎じゃないか、と合点したのだ。高校生以来のクラブ活動だ。
ジュンさんと知り合ったのはそれから間もない頃。小川町への移住者で、何と坐禅会を主催してる人がいるとの噂を聞いた。そんなマニアックなイベントを開催してる人がいるのか、と私は興味を持った。この小さな町では、移住者同士というのは不思議なもので、そこまで気合を入れなくても、何となく暮らしているだけで自然と知り合うことができる。そんな訳でジュンさんとも、どうやって知り合ったのだか思い出せないが、いつのまにかお友達になっていた。
長髪で、エスニックな召し物に身を包んだジュンさんが、現役のバックパッカーであろう、と勝手に判じた私は、気づいたらジュンさんと旅の話に花を咲かせていた。特にジュンさんがジャマイカでギャングに囲まれて危ない目に遭った話は抱腹絶倒のストーリーで、夢中になり胸が熱くなった。いいアニキを見つけた、そんな気持ちでジュンさんとの付き合いが始まった。ジュンさんは私より一回り以上上だが、存在に上下をつけないようなピースオーラを身につけていて、知り合ったばかりとは思えないほどの親しみを私は覚えていた。
即興ミュージシャンでもあるジュンさんは、埼玉の都心部から移住してきたのだが、小川町でイベントをやる場所を探しているというのだ。それまでにもジリミリというイベントを主催している彼が、小川町内で自然に囲まれ、人が集まれる場所をさがしているというので、いいとこがありますよ、と私は言い、里山クラブの活動広場にジュンさんを連れて行った。
ジュンさんはすぐにそこを気に入ってくれて、いいでしょいいでしょ、なんて言って帰ろうとした折、土地の主人、佐藤会長と出くわした。ジュンさんにざっと会長を紹介すると、会長は現役時代の旅の話を持ち出し、ジュンさんとの間で旅人同士の話しが盛り上がり、私も横でニヤニヤしていた。そうなのだ。佐藤会長は教師をやっていた現役時代に、世界五大陸の巨峰をことごとく踏破。世界歩きの達人でもあるのだ。
その帰り際、ジュンさんと、あの会長、あそこの広場で毎朝ヨガやってるらしいんですよ、ヤバくないですか、えっ、そうなの、ヤバいよね、ヤバいヤバい、と盛り上がった。ジュンさんは会長にも惹かれたのだろうか、ほどなくして里山クラブに加入を決めたのだった。
小川町の里山クラブが他の里山愛護団体と一味変わっている、と私が感心したのが、里山祭りという毎年11月に行われる会のお祭りで、ステージにPAを持ち出して、メンバーの出し物披露が行われるのだが、その中にバンドの演奏も取り入れていることだった。そういうカルチャーを取り入れていたのが、会の中では「若手」であるカノウさんで、彼はそれでも私よりいくつか歳上なのだが、自身もベースを弾くバンドマンでもある。
彼は私のようなバンドをやってる「若者」が、高齢化しつつあった里山クラブに入ってきて、ホントによかったです、と何度も私に伝えてきた。私は恐縮するばかりだが、逆にカノウさんの存在は、私が、その高齢化したコミュニティに馴染むのにもとても心強かった。
ジュンさんが里山クラブに入ってきて、カノウさんと仲良くなり、「一緒に音楽イベントやりましょう」と盛り上がるまでに時間はかからなかった。そして、今度は2人から私に、イベント実行委員として協力してくれないか、と声がかかったのである。
企画するイベントはキラナ(サンスクリット語で太陽の光の筋という意味の言葉)里山祭り、と題され、里山クラブの主催する里山祭りとは切り離す、という体裁だったが、佐藤会長と里山クラブの聖地を使わせてもらうので、実質小川町里山クラブの後援、といっても過言ではない。カノウさんは会長と会員にイベントの趣旨を説明し、賛同を得る任をこなしてくれた。
声をかけられた私は、一も二もなく請け合ったのだが、少し落ち着いてから、そうか、オレは野外音楽イベントを主催するのか、と改めて思った時、まだ20代後半の頃──私が最初に移住に興味を持ち始めた頃だが、「いつか田舎に移住したら、その移住した先で野外音楽イベントを主催できたらいいだろうなぁ」とそんなことをぼんやり思っていたことをふと思い出した。そして、そのぼんやりした夢はその後、時々思い出したりしては、まだ都心から離れてもいないし、やっぱり無理だよな〜、と引き出しの奥の方に仕舞い込んでいた。そして遂に移住を決めた時には、"田舎に住む"ということだけにとにかく興奮していたためその夢のことは忘れていたのだ。
気がついた時に、何となく以前願っていたことが叶っている。そんなことを40年も生きてきて、幾度か経験してきた。山の見える田舎に移住することだってそうだ。難しいかな、と思えることでも頭の中でイメージするだけでいいのだ。人生は素晴らしい。
それから、私たちは何度かのミーティングを重ねてイベントの骨子を練っていった。はっきり言って、主導してくれたのはジュンさんとカノウさん。私は会議に出て、時々意見を言ったり、いいですね、それでいきましょう、などと相槌を入れたりするばっかり。SNSの宣伝は買って出たが、私がいろいろ動かない間に、ジュンさんの奥さんや、お手伝いさせてと名乗り出てきたシュウちゃん、ヤギちゃんがいろいろ動いてくれて準備は着々と進んでいった。
私は大学生の頃、インディーズのバンドを何組も呼んで学園祭で賑やかなライブイベントを企画したことを思い出した。あの時も、私が作ったサークルの仲間たちが、気づいたら何やかやと動いてくれていた。その時は私も自ら寝る間を惜しんで飛び回ったが、今回は私が飛び回る前にみんなが積極的に動いてくれていた。私はただ主催者の1人です、然としていればよさそうだった。
100人集まれば赤字は免れるだろう、と思って当日を迎えると、概算で150人以上お客さんが集まり、大盛況のお祭りとなった。私が長年温め続けてきたロックバンド赤い疑惑がトリで演奏すると盛り上がりは最高潮だった。
移住して3年、親しくなった人達が、私がステージで豹変してロックスターに変身したことに口を揃えて驚きを示し、目を丸くして、皆、よかったよー、と絶賛してくれ、私は例えようのないほど嬉しかった。自分が20代まで人生をかけて取り組んでいたヘンテコなロックバンドのリーダー、という一面を知ってもらうことができて嬉しかったのだ。一移住者としてマジメに頑張ってるフリをして実はとんでもないロックンローラーだったことを伝えられたのだ。
第一回里山祭りはそのような経緯で偶然のように出現し、気づいたら、もの凄いお祭りでしたね、という定評と、駐車場問題、ご近隣問題という幾許かの課題を残して締め括られた。
当日片付け撤収が終わりお客さんが三々五々散った後、私は打ち上げ会場に向かう前にもう一度駐車場から会場までの「里山」を歩き、ホタルが飛んでいるのを確認した。
移住する前、「里山」という言葉だけを認識した時は「人の手によって管理された山間のこと」、とその文字通りをイメージするしかなかった。初めて里山クラブのその活動広場に足を踏み入れた時も、そこが正に里山の象徴的な場所であることを意識しなかった。ただ、なんて気持ちのいいところだろう、と感じたことだけは覚えている。
そして今、無論ここが、こんな場所が、まさにこういう場所こそが「里山」なんだと確信し、私の里山ライフがこれから楽しく続いていくだろうことを予感した。
その広場には大きなコナラの樹冠が覆う板張りのステージが一部に設られ、その脇にはツリーハウスがある(今は要改修で立ち入り禁止だが)。ステージの下には武骨な炭焼き窯がドンと構えていて、その存在は広場の雰囲気を味のあるものにしている。
移住して、田舎のことを知りたい、と前のめりになっていた私は里山クラブのことを知り、体験でお邪魔したその日に入会を決意した。クラブを構成するメンバーたちの平均年齢は60から70くらいだろうか、最年長者は80を越えていた。私は地元の爺さん達と仲良くなっていろんなことを教えてもらいたい、と移住を決めてから密かに企んでいたので、これはかっこうの学び舎じゃないか、と合点したのだ。高校生以来のクラブ活動だ。
ジュンさんと知り合ったのはそれから間もない頃。小川町への移住者で、何と坐禅会を主催してる人がいるとの噂を聞いた。そんなマニアックなイベントを開催してる人がいるのか、と私は興味を持った。この小さな町では、移住者同士というのは不思議なもので、そこまで気合を入れなくても、何となく暮らしているだけで自然と知り合うことができる。そんな訳でジュンさんとも、どうやって知り合ったのだか思い出せないが、いつのまにかお友達になっていた。
長髪で、エスニックな召し物に身を包んだジュンさんが、現役のバックパッカーであろう、と勝手に判じた私は、気づいたらジュンさんと旅の話に花を咲かせていた。特にジュンさんがジャマイカでギャングに囲まれて危ない目に遭った話は抱腹絶倒のストーリーで、夢中になり胸が熱くなった。いいアニキを見つけた、そんな気持ちでジュンさんとの付き合いが始まった。ジュンさんは私より一回り以上上だが、存在に上下をつけないようなピースオーラを身につけていて、知り合ったばかりとは思えないほどの親しみを私は覚えていた。
即興ミュージシャンでもあるジュンさんは、埼玉の都心部から移住してきたのだが、小川町でイベントをやる場所を探しているというのだ。それまでにもジリミリというイベントを主催している彼が、小川町内で自然に囲まれ、人が集まれる場所をさがしているというので、いいとこがありますよ、と私は言い、里山クラブの活動広場にジュンさんを連れて行った。
ジュンさんはすぐにそこを気に入ってくれて、いいでしょいいでしょ、なんて言って帰ろうとした折、土地の主人、佐藤会長と出くわした。ジュンさんにざっと会長を紹介すると、会長は現役時代の旅の話を持ち出し、ジュンさんとの間で旅人同士の話しが盛り上がり、私も横でニヤニヤしていた。そうなのだ。佐藤会長は教師をやっていた現役時代に、世界五大陸の巨峰をことごとく踏破。世界歩きの達人でもあるのだ。
その帰り際、ジュンさんと、あの会長、あそこの広場で毎朝ヨガやってるらしいんですよ、ヤバくないですか、えっ、そうなの、ヤバいよね、ヤバいヤバい、と盛り上がった。ジュンさんは会長にも惹かれたのだろうか、ほどなくして里山クラブに加入を決めたのだった。
小川町の里山クラブが他の里山愛護団体と一味変わっている、と私が感心したのが、里山祭りという毎年11月に行われる会のお祭りで、ステージにPAを持ち出して、メンバーの出し物披露が行われるのだが、その中にバンドの演奏も取り入れていることだった。そういうカルチャーを取り入れていたのが、会の中では「若手」であるカノウさんで、彼はそれでも私よりいくつか歳上なのだが、自身もベースを弾くバンドマンでもある。
彼は私のようなバンドをやってる「若者」が、高齢化しつつあった里山クラブに入ってきて、ホントによかったです、と何度も私に伝えてきた。私は恐縮するばかりだが、逆にカノウさんの存在は、私が、その高齢化したコミュニティに馴染むのにもとても心強かった。
ジュンさんが里山クラブに入ってきて、カノウさんと仲良くなり、「一緒に音楽イベントやりましょう」と盛り上がるまでに時間はかからなかった。そして、今度は2人から私に、イベント実行委員として協力してくれないか、と声がかかったのである。
企画するイベントはキラナ(サンスクリット語で太陽の光の筋という意味の言葉)里山祭り、と題され、里山クラブの主催する里山祭りとは切り離す、という体裁だったが、佐藤会長と里山クラブの聖地を使わせてもらうので、実質小川町里山クラブの後援、といっても過言ではない。カノウさんは会長と会員にイベントの趣旨を説明し、賛同を得る任をこなしてくれた。
声をかけられた私は、一も二もなく請け合ったのだが、少し落ち着いてから、そうか、オレは野外音楽イベントを主催するのか、と改めて思った時、まだ20代後半の頃──私が最初に移住に興味を持ち始めた頃だが、「いつか田舎に移住したら、その移住した先で野外音楽イベントを主催できたらいいだろうなぁ」とそんなことをぼんやり思っていたことをふと思い出した。そして、そのぼんやりした夢はその後、時々思い出したりしては、まだ都心から離れてもいないし、やっぱり無理だよな〜、と引き出しの奥の方に仕舞い込んでいた。そして遂に移住を決めた時には、"田舎に住む"ということだけにとにかく興奮していたためその夢のことは忘れていたのだ。
気がついた時に、何となく以前願っていたことが叶っている。そんなことを40年も生きてきて、幾度か経験してきた。山の見える田舎に移住することだってそうだ。難しいかな、と思えることでも頭の中でイメージするだけでいいのだ。人生は素晴らしい。
それから、私たちは何度かのミーティングを重ねてイベントの骨子を練っていった。はっきり言って、主導してくれたのはジュンさんとカノウさん。私は会議に出て、時々意見を言ったり、いいですね、それでいきましょう、などと相槌を入れたりするばっかり。SNSの宣伝は買って出たが、私がいろいろ動かない間に、ジュンさんの奥さんや、お手伝いさせてと名乗り出てきたシュウちゃん、ヤギちゃんがいろいろ動いてくれて準備は着々と進んでいった。
私は大学生の頃、インディーズのバンドを何組も呼んで学園祭で賑やかなライブイベントを企画したことを思い出した。あの時も、私が作ったサークルの仲間たちが、気づいたら何やかやと動いてくれていた。その時は私も自ら寝る間を惜しんで飛び回ったが、今回は私が飛び回る前にみんなが積極的に動いてくれていた。私はただ主催者の1人です、然としていればよさそうだった。
100人集まれば赤字は免れるだろう、と思って当日を迎えると、概算で150人以上お客さんが集まり、大盛況のお祭りとなった。私が長年温め続けてきたロックバンド赤い疑惑がトリで演奏すると盛り上がりは最高潮だった。
移住して3年、親しくなった人達が、私がステージで豹変してロックスターに変身したことに口を揃えて驚きを示し、目を丸くして、皆、よかったよー、と絶賛してくれ、私は例えようのないほど嬉しかった。自分が20代まで人生をかけて取り組んでいたヘンテコなロックバンドのリーダー、という一面を知ってもらうことができて嬉しかったのだ。一移住者としてマジメに頑張ってるフリをして実はとんでもないロックンローラーだったことを伝えられたのだ。
第一回里山祭りはそのような経緯で偶然のように出現し、気づいたら、もの凄いお祭りでしたね、という定評と、駐車場問題、ご近隣問題という幾許かの課題を残して締め括られた。
当日片付け撤収が終わりお客さんが三々五々散った後、私は打ち上げ会場に向かう前にもう一度駐車場から会場までの「里山」を歩き、ホタルが飛んでいるのを確認した。
移住する前、「里山」という言葉だけを認識した時は「人の手によって管理された山間のこと」、とその文字通りをイメージするしかなかった。初めて里山クラブのその活動広場に足を踏み入れた時も、そこが正に里山の象徴的な場所であることを意識しなかった。ただ、なんて気持ちのいいところだろう、と感じたことだけは覚えている。
そして今、無論ここが、こんな場所が、まさにこういう場所こそが「里山」なんだと確信し、私の里山ライフがこれから楽しく続いていくだろうことを予感した。
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