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ボーッとしていられない

ボーッとしているうちに人生は過ぎていく。オレはよくボーッとしている顔をしているらしく、度々人に笑われる。昔はそのようなことを言われると不当な気がして腐っていたが、もうそんなことで腐ることもなくなった。

ボーッとしているのかもしれないけど前付き合ってた人に言わせるとオレは頭を使い過ぎらしい。たまにはボーッとしたら、くらいのことを言われていた気がする。そう言われてみると頭を使い過ぎのような気もするし、最近もまた霊気という気功を勉強している人に「緩めよ」というようなことを言われた。整体の世界では「緩める」という感覚があって、これは身体のいうことに耳を傾けて、緊張しているところ、疲労がたまっているところを「緩める」ということなのだ。頭を使い過ぎの人は頭に両掌を乗せるといいらしい。気の世界は面白い。オレはきっかけがあって気の世界を信用している訳だけど、その「緩める」ってのがなかなか容易なことじゃないんだね。

数年前、勤務中に重大な交通事故を起こしたことがあった。居眠り運転で赤信号で停車中の車に真っ直ぐ突撃したのである。「ボン」という鈍い爆発音で気がついたら車の中が白煙と妙な臭いで充満していて、オレの眼の間にはエアバックが膨らんでいた。それで唇が切れて眼鏡が中央から真二つに割れて足下に転がっていた。オレに突撃された車の運転手は「少し首が…」というので、その事件の後、保険屋さんやポリス屋さんなどの手を一通り煩わせたその後で、一度見舞いに行って、そうしたら首はなんともなかったようで、やっと胸をなで下ろすことができた。

その醜態は己の生活態度を見つめ直す大きな契機となり、それまではがむしゃらに(アルバイトとバンド活動と交友活動を)やって、寝る時間を極端に切り詰める、という生活を自分に無理強いさせていたのだが━━ある人の助言もありそうすることで夢に少しでも近付けると思っていたのだが、その事件をきっかけに睡眠時間を改めてやっと生活スタイルがまともになった。何しろその頃のアルバイトは配達の仕事もあって車に乗る機会が多かったのだが、毎回のように睡魔と闘いつつ、という危なっかしい状態だった。それが少し平均睡眠時間を増やしただけで改善されたのだから身体を休めるということがどれだけ重要か痛感した次第。

しかしどうもオレは根がせっかちなのか、ボーッとしてるような顔をしているだけで、ボーッとしていることが苦手なのかもしれなかった。いや、以前よりはいくらか改善されて、公園に行って寝転んだり、そのまま眠ったりする心地よさなんかを肯定的に捉えつつはあるのだが、それでも、(自分の)ブログが更新されていないと気になるし、バンドがうまく進行しないと焦るし、結局時間に追われていることが多い。

「緩める」ということは大変贅沢なことで、猫が日向ぼっこしている心境は驚異的に羨望を感じる。猫のように人間も日向ぼっこしている気持ちで生きていてもいいのだ。ただ生きているだけなのだ。ただ生きているだけなのに、何か意味づけをしたり、意義づけをしてないと気が済まない。人間は非常にやっかいであり、それが分かっているから身体の神秘のことも考えるのだ。どっちに転んだとしても「達観しているヤツ」は信用ならん。諦めの美学も夢を追いかける美学をも、オレはどちらも信奉しているのであり、それ故なかなかボーッとしていられないらしい。困ったものだ。
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