東京チムレンガ vol.1
ジャポニクスのショーゴさんから、12月に来日するバンドの、
ツアーサポートを赤い疑惑やらないか、と仄めかされたのは3ヶ月ほど前であったか。
ショーゴさんには日頃、大変お世話になっているので、
これは、と思い、快諾し、久しぶりの赤い疑惑企画を立ち上げるに至った。
自主企画というものは現在、インディーバンドにとって必要不可欠な存在だ。
自分達にとって対バンしたら有意義だ、と思われるアーティストを集め、
お客さんに自分達の色や空気や友情を感じてもらい、
成功すれば確実にファンを増やすことに繋がる。
我ら赤い疑惑も過去に「夢よ!もう一度!」というシリーズ企画をやっていた。
社会に飛び出して、世間の荒波に揉まれて、バンドもパッとせず、
歯がゆい思いをしていた頃、誰かトモダチにもらった大阪土産かなにか、
タイガースグッズのジャンク菓子の包装紙に
「夢よ!もう一度!広沢克実」とあった。
オレは小学生の頃はヤクルトスワローズの大ファンで、
当時ヤクルトの2大スターだった池山と広沢は無条件に尊敬していた。
広沢は阪神の前はヤクルトにいたのだ。
ヤクルト時代の全盛期は池山とともにホームランをガンガン打っていた広沢だったが、
気づいたら人気も成績も低迷し始めて、その後オレの野球熱がロック熱に変わってからは、
オレも野球のことに一切興味がなくなって、
それからの広沢のことはあまり知らないが、
恐らくもう年だし往年のチカラを発揮するなんてことは
もうもはや不可能であることは百も承知であろうに、
「夢よ!もう一度!広沢克実」と決意表明をしてみせる広沢克実野手に、
必要以上な感情移入してしまったバカな私がいた。
別に広沢じゃなくてもいいけど、「夢よ!もう一度!」という、
単純純粋無垢で、前のめりにドリームを夢見ている(ドリームを夢見るとは変だが)
といったようなそのスローガンに、本能的にグッときてしまい、
丁度日本語ロックの抽象的歌詞表現に苛立ちを覚えていたオレは、
大変にこの言葉が気にいって、結局企画の名前にしてしまった。
「夢よ!もう一度!」は数回やった後、結局三日坊主でやらなくなってしまったが、
その記念すべき第一回「夢よ!もう一度!」に赤い疑惑が集めたメンツは、
二階堂和美、降神、spedial others、group_inouといった錚々たる顔ぶれだった、
今ではメジャーな存在になってしまったヤツらばかりだ。
企画をしたオレたちがメジャーな存在になっていないのはおかしなハナシで、
これは今でもバンドメンバーの間でも苦笑の種なのだ。
さて、話し戻って、今回ショーゴさんの言葉に触発されて改めて赤い疑惑企画を考えた時、
企画タイトルに「夢よ!もう一度!」はそぐわないゾ、と思った。
「夢よ!もう一度!」というコトバは今でも滑稽でいい名前だとは思うが、
その企画名を命名した時のオレがバンド活動に込めていた気持ちと、
今現在のオレがバンド活動に込めている気持ちにギャップがあると感じたからだ。
それで思いついたのが「東京チムレンガ」だ。
早速オレがシンパシーを寄せる数少ない東京のバンドとDJを集めた。
ディエゴのクボ君も、シャムキャッツのナツメ君も、
ブレイクファストのモリモト君も、RYO君もアメちゃんも、
「赤い疑惑の企画に出てくれないか」というオレの誘いに、
2つ返事でオーケーをくれた。
2つ返事でオーケーを出す、というのはレアなことであり、
みんな赤い疑惑のことを信頼してくれている、
ということが何だか伝わってくるようでオレはものすごく嬉しかった。
みんなホントに素晴らしい人間性をもった人々なんだ。
フライヤーを頼んだのは、
2008年にオレが衝撃を受けたDJクルー、未来世紀メキシコの
ビジュアルワークを担当しているアルイである。
アルイの作るフライヤーには今までに見たことないような
大胆な発想と絶妙なセンスが潜んでいた。
だから、赤い疑惑のフライヤーをいつか頼んでみよう、
と企んでいたので、やってくれないかな、と頼んだら、
これまた2つ返事でオーケーだったので、
オレはまたまた嬉しくなってしまった。
協力してくれる人間がいっぱいいることが奇跡のようだ。
アルイとは実際に会ってハナシをして、
オレがこの企画に込めている想いと、チムレンガの意味を直接伝えた。
アルイは質問を交えながら真剣にオレのハナシを聞いてくれた。
それで数日後できたのがあのフライヤーで、
アルイがイメージした「東京チムレンガ」は、
オレのイメージと見事にリンクするところがあったので、
嬉しくて印刷サイズをフライヤーとしては些かデカいA4サイズにして刷った。
インパクトを出したかったのだが、デカ過ぎたかもしれない。
フライヤーができて嬉しいのでいろんな人に配り始めたら、
貰ったトモダチは「チムレンガ」って何、と口々にするようだった。
オレはいちいち、それは、と言って説明を始めるのだが、
大体話し終わるとみんな「へえ~」と嘆息をもらして感心していた。
トウキョウチムレンガ、って響きがいいね、と褒めてくれる人もいて、
オレも何だかワクワクした。
チムレンガというのはジンバブエの言葉だ。
「蜂起」という意味合いのショナ語(ジンバブエの言葉)だそうで、
白人の支配や独立後の独裁政治に対する民衆の「蜂起」をチムレンガと呼んだ。
ジンバブエの英雄(でありオレの英雄)トーマス・マプフーモは
そういった民衆の権利や悪政を歌い続けた闘争の士であり、
彼が作り出した独特の音楽(それはしばしばチムレンガを支持した)は
チムレンガ・ミュージック(闘争の唄)と呼ばれるようになり、
そういう一連の事実とマプフーモの音楽、それにチムレンガという言葉を知ってからというもの、
それらの存在はオレの頭から離れず、レベルミュージックという言葉と併行して、
オレが音楽を作る時の拠り所になっていった。
オレは昭和、平成をまたいで、生を受けてから30年という歳月を東京で過ごした。
東京には、今思うと、何でもあった。
モノが、ありすぎる、という程あった。
安定した治安もあった。
「夢を持って自由に生きろよ」というスローガンは当り前だった。
オレはそんな日本で、夢を持って自由に生きようとしていた。
だけど年を重ねる毎に「夢と自由」という言葉を疑い、
恵まれた国、先進国日本、資本主義日本を疑うようになった。
母親がガンになって死んだ時、オレの中で何かが決定的に変わった。
確かに日本、そして東京には不満を漏らせないほどの文明と情報があり、
衣食住ですら、大きな不運に恵まれないかぎりは保証されているようだった。
だけど、オレが過ごした20代と、その10年間、オレの眼に映った東京は、
なかなかシビアでグレーだった。
しかし「不満は漏らしてはいけない」というような社会体制ができ、
漫然と保たれているかにみえた日本の平和と
その裏で常に不安定であり続けた日本の因習政治は、
若者に「何をやってもムダだ」というような意識を洗脳的に植え付けた。
オレも「何をやってもムダだ」という虚無主義にとりつかれていた。
しかし、そんな刹那的虚無主義のオレでも、バンドをやり、
歌を唄うという行為には、なにか象徴的な運命的なモノを感じるようになっていた。
トーマス・マプフーモの唄声に触発されたオレは、
その意味と運命をさぐりつつ、東京における闘争の唄を模索した。
こんな曖昧な自分自身を何とか前向きに鼓舞する歌を歌ってみたい。
そしてそれが、それこそがオレが社会に果たす小さな貢献になれないものだろうか。
オレを、みんなを、過保護に包み込んでいるかのようにみえる社会に対する、
何らかの意志表明になれないものだろうか。
時は年の瀬12月26日土曜日。
オレが中高生の頃から慣れ親しんだ街吉祥寺。
北口風俗街をくぐり抜けた路地にWARPがある。
クリスマスをモノともせずオレたちは
オレたちのチムレンガ・ミュージックを鳴らすのである。
みんなの参加を心より待つ。
ツアーサポートを赤い疑惑やらないか、と仄めかされたのは3ヶ月ほど前であったか。
ショーゴさんには日頃、大変お世話になっているので、
これは、と思い、快諾し、久しぶりの赤い疑惑企画を立ち上げるに至った。
自主企画というものは現在、インディーバンドにとって必要不可欠な存在だ。
自分達にとって対バンしたら有意義だ、と思われるアーティストを集め、
お客さんに自分達の色や空気や友情を感じてもらい、
成功すれば確実にファンを増やすことに繋がる。
我ら赤い疑惑も過去に「夢よ!もう一度!」というシリーズ企画をやっていた。
社会に飛び出して、世間の荒波に揉まれて、バンドもパッとせず、
歯がゆい思いをしていた頃、誰かトモダチにもらった大阪土産かなにか、
タイガースグッズのジャンク菓子の包装紙に
「夢よ!もう一度!広沢克実」とあった。
オレは小学生の頃はヤクルトスワローズの大ファンで、
当時ヤクルトの2大スターだった池山と広沢は無条件に尊敬していた。
広沢は阪神の前はヤクルトにいたのだ。
ヤクルト時代の全盛期は池山とともにホームランをガンガン打っていた広沢だったが、
気づいたら人気も成績も低迷し始めて、その後オレの野球熱がロック熱に変わってからは、
オレも野球のことに一切興味がなくなって、
それからの広沢のことはあまり知らないが、
恐らくもう年だし往年のチカラを発揮するなんてことは
もうもはや不可能であることは百も承知であろうに、
「夢よ!もう一度!広沢克実」と決意表明をしてみせる広沢克実野手に、
必要以上な感情移入してしまったバカな私がいた。
別に広沢じゃなくてもいいけど、「夢よ!もう一度!」という、
単純純粋無垢で、前のめりにドリームを夢見ている(ドリームを夢見るとは変だが)
といったようなそのスローガンに、本能的にグッときてしまい、
丁度日本語ロックの抽象的歌詞表現に苛立ちを覚えていたオレは、
大変にこの言葉が気にいって、結局企画の名前にしてしまった。
「夢よ!もう一度!」は数回やった後、結局三日坊主でやらなくなってしまったが、
その記念すべき第一回「夢よ!もう一度!」に赤い疑惑が集めたメンツは、
二階堂和美、降神、spedial others、group_inouといった錚々たる顔ぶれだった、
今ではメジャーな存在になってしまったヤツらばかりだ。
企画をしたオレたちがメジャーな存在になっていないのはおかしなハナシで、
これは今でもバンドメンバーの間でも苦笑の種なのだ。
さて、話し戻って、今回ショーゴさんの言葉に触発されて改めて赤い疑惑企画を考えた時、
企画タイトルに「夢よ!もう一度!」はそぐわないゾ、と思った。
「夢よ!もう一度!」というコトバは今でも滑稽でいい名前だとは思うが、
その企画名を命名した時のオレがバンド活動に込めていた気持ちと、
今現在のオレがバンド活動に込めている気持ちにギャップがあると感じたからだ。
それで思いついたのが「東京チムレンガ」だ。
早速オレがシンパシーを寄せる数少ない東京のバンドとDJを集めた。
ディエゴのクボ君も、シャムキャッツのナツメ君も、
ブレイクファストのモリモト君も、RYO君もアメちゃんも、
「赤い疑惑の企画に出てくれないか」というオレの誘いに、
2つ返事でオーケーをくれた。
2つ返事でオーケーを出す、というのはレアなことであり、
みんな赤い疑惑のことを信頼してくれている、
ということが何だか伝わってくるようでオレはものすごく嬉しかった。
みんなホントに素晴らしい人間性をもった人々なんだ。
フライヤーを頼んだのは、
2008年にオレが衝撃を受けたDJクルー、未来世紀メキシコの
ビジュアルワークを担当しているアルイである。
アルイの作るフライヤーには今までに見たことないような
大胆な発想と絶妙なセンスが潜んでいた。
だから、赤い疑惑のフライヤーをいつか頼んでみよう、
と企んでいたので、やってくれないかな、と頼んだら、
これまた2つ返事でオーケーだったので、
オレはまたまた嬉しくなってしまった。
協力してくれる人間がいっぱいいることが奇跡のようだ。
アルイとは実際に会ってハナシをして、
オレがこの企画に込めている想いと、チムレンガの意味を直接伝えた。
アルイは質問を交えながら真剣にオレのハナシを聞いてくれた。
それで数日後できたのがあのフライヤーで、
アルイがイメージした「東京チムレンガ」は、
オレのイメージと見事にリンクするところがあったので、
嬉しくて印刷サイズをフライヤーとしては些かデカいA4サイズにして刷った。
インパクトを出したかったのだが、デカ過ぎたかもしれない。
フライヤーができて嬉しいのでいろんな人に配り始めたら、
貰ったトモダチは「チムレンガ」って何、と口々にするようだった。
オレはいちいち、それは、と言って説明を始めるのだが、
大体話し終わるとみんな「へえ~」と嘆息をもらして感心していた。
トウキョウチムレンガ、って響きがいいね、と褒めてくれる人もいて、
オレも何だかワクワクした。
チムレンガというのはジンバブエの言葉だ。
「蜂起」という意味合いのショナ語(ジンバブエの言葉)だそうで、
白人の支配や独立後の独裁政治に対する民衆の「蜂起」をチムレンガと呼んだ。
ジンバブエの英雄(でありオレの英雄)トーマス・マプフーモは
そういった民衆の権利や悪政を歌い続けた闘争の士であり、
彼が作り出した独特の音楽(それはしばしばチムレンガを支持した)は
チムレンガ・ミュージック(闘争の唄)と呼ばれるようになり、
そういう一連の事実とマプフーモの音楽、それにチムレンガという言葉を知ってからというもの、
それらの存在はオレの頭から離れず、レベルミュージックという言葉と併行して、
オレが音楽を作る時の拠り所になっていった。
オレは昭和、平成をまたいで、生を受けてから30年という歳月を東京で過ごした。
東京には、今思うと、何でもあった。
モノが、ありすぎる、という程あった。
安定した治安もあった。
「夢を持って自由に生きろよ」というスローガンは当り前だった。
オレはそんな日本で、夢を持って自由に生きようとしていた。
だけど年を重ねる毎に「夢と自由」という言葉を疑い、
恵まれた国、先進国日本、資本主義日本を疑うようになった。
母親がガンになって死んだ時、オレの中で何かが決定的に変わった。
確かに日本、そして東京には不満を漏らせないほどの文明と情報があり、
衣食住ですら、大きな不運に恵まれないかぎりは保証されているようだった。
だけど、オレが過ごした20代と、その10年間、オレの眼に映った東京は、
なかなかシビアでグレーだった。
しかし「不満は漏らしてはいけない」というような社会体制ができ、
漫然と保たれているかにみえた日本の平和と
その裏で常に不安定であり続けた日本の因習政治は、
若者に「何をやってもムダだ」というような意識を洗脳的に植え付けた。
オレも「何をやってもムダだ」という虚無主義にとりつかれていた。
しかし、そんな刹那的虚無主義のオレでも、バンドをやり、
歌を唄うという行為には、なにか象徴的な運命的なモノを感じるようになっていた。
トーマス・マプフーモの唄声に触発されたオレは、
その意味と運命をさぐりつつ、東京における闘争の唄を模索した。
こんな曖昧な自分自身を何とか前向きに鼓舞する歌を歌ってみたい。
そしてそれが、それこそがオレが社会に果たす小さな貢献になれないものだろうか。
オレを、みんなを、過保護に包み込んでいるかのようにみえる社会に対する、
何らかの意志表明になれないものだろうか。
時は年の瀬12月26日土曜日。
オレが中高生の頃から慣れ親しんだ街吉祥寺。
北口風俗街をくぐり抜けた路地にWARPがある。
クリスマスをモノともせずオレたちは
オレたちのチムレンガ・ミュージックを鳴らすのである。
みんなの参加を心より待つ。

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