インターネット症候群
オレの生活はもはやインターネットに基づいている。
というよりパソコンそのものに基づいているともいえそうなのだ。
何しろ仕事の間はほぼずっとパソコンをいじるし、
帰宅してからも1、2時間は大体パソコンの前だ。
休日はそんなにいじるものではないが、それにしてもトモダチ以上コイビト以上。
何を言ってやがるんだ。
仕事から草臥れて帰ってきて、いつも大体同じ時間帯に帰ってくる姉貴と、
ささやかな晩ごはんを食べて━━オヤジの噂などをして━━談笑をした後は、
必ず決まってオレはパソコンを起動させる。
あまり遅い時間に帰ってきた時や、オヤジが早めに就寝してしまった夜は、
パソコンは起ち上げないで諦めて寝ることもあるが、余裕がある時は欠かさない。
オヤジが早めに寝てしまって困るのは、オレのパソコンがオヤジの部屋にあるからだ。
無線ランというものを使って自分の部屋にパソコンを置こうと企み画策したのだが、
立地条件または建造上のいたずらなのか、オレの部屋に電波は届かないようだった。
細かいことを言ったら、実際は電波は届いたり届かなかったりしていたのだったが、
「時々つながらない」というストレスは、オレにもう一度パソコンを
オヤジの部屋まで運び直すという行動へと誘った。
ちなみに今オヤジは隣の居間で酒を飲みつつテレビを観ている。
呑気なヤツめ。
パソコンを起ち上げてから終了を指令して電源を落とすまでの間の行動は決まっている。
行動、といってもパソコンの中で行動しているだけで身体は動かさないので安易である。
まずメーラーを起動してメールをチェックする。オレは寂しがりやなんだ。
いいライブの誘いが来てないかな、人生を変えそうなライブのお誘いはないかね、
なんてことを思いながらサーバーへの接続まで数秒を楽しむ。とことん楽しむ。
ティロリン、という音がしてメールが届く。
メールが来てない、という寂しい夜はほとんどないが、
アマゾンやヤフーや登録した記憶もないような不躾な広告メールなんかのせめぎ合いだけで終わる夜もあるのでそんな時はとことん落ち込む。
こんなことで一喜一憂していちゃオトコは務まらないのだ。
メールのチェックが終わったらいよいよインターネット症候群の本領発揮であります。
まず自分のブログをチェックして拍手が増えていないかどうか確認。
増えてないことを確認して軽く落ち込んだら次はミクシにログインしてみる。
メッセージが来ていないかなとか、コミュニティーのニュースは更新されてるかなとか、
誰かが面白いレスを立てていないかな、ということをチェックするのだが、
最近はミクシも盛り上がりに欠けてきていないかな、あんまり面白くない。
それで次はマイスペースにログインする訳である。
しかしながらマイスペースも最近は飽きてきてしまっているのだから人間は恐ろしい。
マイスペースは画像とか映像がベタベタ貼付けてあるから重くてストレスだね。
いや面白いんだけどねー。どっちなんだ。
それでお次は最近巷で評判のツイッター。
初めは(また新しいのが出たな)と思って警戒していた。
(そういえばフェイスブックなんてのも最近じゃ)などとも考えながら警戒していた訳だが、
同僚のカネコ君がツイッターのハナシをことあるごとにしていて、
(ツイッターか、オレはやらないけどね)と思っていつつも
(でもカネコ君が面白いって言うくらいだから面白いのかも)とも思えてきていたのだ。
そんなある日会社でツイッターを始めよう、みたいなノリになっちゃって、
つまりウチの会社は小さな音楽レーベルなんだけど、
そういう業種だったらツイッターが広報活動としてバカにならないんじゃないか、
ってことになって会社でツイッターのアカウントを取ることになったんだ。
それで実際オレも使ってみたら、なるほどこれは面白いかもしれない、
と思い至り、結局自分もアカウントを作って参加することになり、
それでかれこれ一週間くらいになるのかな。
そういう訳で最近はツイッターにログインして、
っていうメニューがオレのPCサーフィンのメニューに新しく追加されちゃった。
ツイッターは社交場みたいな場所になっていてみんなのつぶやきを閲覧できる。
やってない人はあんまりピンとこないと思うけど、
要はコミュニケーションツールなんであって、そういう点でいったら
ミクシともマイスペースとも同じ目的のツールなんだけど、
そのシンプルな仕様が「異様に今っぽい」のであり、
実際に「無料の告知」としては非常に有効なのであり、
例えば集団で親睦を深めるにはもってこいの道具なのであった。
だからツイッターはオレのパソコンサーフィンコースにレギュラー入りを果たした。
さて、そういうコミュニケーションを堪能して、
後はホームページの更新とか他もろもろパソコンでできる事務を済ませたら、
肩や首や眼の疲労何かを十分に感じながら自分の部屋に戻り、
後はギターを弾くか、本を読むかして眠りに就く。
そんな風にしてオレの一日はパソコン漬けだ。
こんなに一緒に居ていいのだろうか。トモダチ以上コイビト以上ってのは
さっき思いつきで書いちゃったけど、じゃあなんでこんなに一緒なのでしょう。
少し前のことだが、仲のいいトモダチがパソコン漬けになる自分を憂慮し、
「オレ、インターネットつないでないんだ。よくないよ、あれ」
と気焔をあげていたのをオレは今でも時々思い出す。
結局気分屋のそのトモダチはいつの間にかインターネットを再開して、
自分のホームページなんかもせっせと作って、といった風に、
簡単にネット生活に舞い戻ってきたのであったが、
インターネットに対して「よくないよ、あれ」と言ってのけたトモダチと、
同じような気持ちはオレも持ち合わせていて、
でもパソコンと仲良くなればなるほどその気持ちは
意識の底の、奥の奥の、底のほうへとおいやられてしまう。
しかしながらインターネット症候群になってしまった日本人のことを考えると、
いつだって可笑しい気分になる。
サムライ魂とか、いざカマクラとか、名を名乗れとか、神風特攻隊とか、
日本男児とか、そういうのはいったいどうなっちゃうんだろうか。
名を名乗れ、といっても相手はハンドルネームのままだぜ。
いざカマクラじゃなくて、いざログイン。
ツイットっていうのは「つぶやく」ということだそうだけど、
「つぶやく」という日本語は「人には聞かれないことが前提の」心境の発動のことを指すのじゃないかなと思うんだけど、
ツイッターに書き込まれる言葉は不特定多数に読まれることが前提なのだから、
もうつぶやきではないんじゃないか、という余計なことを考えたりする。
ツイッターやらそういったパソコンのコミュニケーションが増えていくと、
人と人が対面してコミュニケーションを図ることが減ってしまうんじゃないだろうか。
楽観的な人は、パソコンのコミュニケーションが
より多くの対面コミュニケーションを生み出すと考えるかもしれず、
オレもそういう風に考えなくもない。だけど反対の公算もある得る筈だ。
昨日メキシコのクルーと集まって畳の部屋に車座になって音楽を聞きながら話しをした。
オレはこうして畳の部屋で車座になってトモダチと話すのが好きだった、
ということを久しぶりに感じさせた。
一人暮しをしていた頃やコイビトと同棲していた頃は
トモダチが集まってはその「畳の部屋で車座」をよくやっていた。
特に西荻線路沿い風呂なし家賃4.1万円の時は頻繁に
大学時代のトモダチが2、3人、多い時は5、6人集まってその車座をよくやった。
こういう寄り合いみたいな集まりがどんどん減っていく日本社会のあり方は寂しい。
結婚したり、年取ったりするだけでトモダチと遊ばなくなるのは寂しい。
インターネットへ依存してもそれは解決しない。
けれども使い方によってはコミュニケーションを円滑にもするんだろう。
どうでもいいことと感じる人も多いかもしれないけど、
どうでもいいことではないかもしれないぜ。
というよりパソコンそのものに基づいているともいえそうなのだ。
何しろ仕事の間はほぼずっとパソコンをいじるし、
帰宅してからも1、2時間は大体パソコンの前だ。
休日はそんなにいじるものではないが、それにしてもトモダチ以上コイビト以上。
何を言ってやがるんだ。
仕事から草臥れて帰ってきて、いつも大体同じ時間帯に帰ってくる姉貴と、
ささやかな晩ごはんを食べて━━オヤジの噂などをして━━談笑をした後は、
必ず決まってオレはパソコンを起動させる。
あまり遅い時間に帰ってきた時や、オヤジが早めに就寝してしまった夜は、
パソコンは起ち上げないで諦めて寝ることもあるが、余裕がある時は欠かさない。
オヤジが早めに寝てしまって困るのは、オレのパソコンがオヤジの部屋にあるからだ。
無線ランというものを使って自分の部屋にパソコンを置こうと企み画策したのだが、
立地条件または建造上のいたずらなのか、オレの部屋に電波は届かないようだった。
細かいことを言ったら、実際は電波は届いたり届かなかったりしていたのだったが、
「時々つながらない」というストレスは、オレにもう一度パソコンを
オヤジの部屋まで運び直すという行動へと誘った。
ちなみに今オヤジは隣の居間で酒を飲みつつテレビを観ている。
呑気なヤツめ。
パソコンを起ち上げてから終了を指令して電源を落とすまでの間の行動は決まっている。
行動、といってもパソコンの中で行動しているだけで身体は動かさないので安易である。
まずメーラーを起動してメールをチェックする。オレは寂しがりやなんだ。
いいライブの誘いが来てないかな、人生を変えそうなライブのお誘いはないかね、
なんてことを思いながらサーバーへの接続まで数秒を楽しむ。とことん楽しむ。
ティロリン、という音がしてメールが届く。
メールが来てない、という寂しい夜はほとんどないが、
アマゾンやヤフーや登録した記憶もないような不躾な広告メールなんかのせめぎ合いだけで終わる夜もあるのでそんな時はとことん落ち込む。
こんなことで一喜一憂していちゃオトコは務まらないのだ。
メールのチェックが終わったらいよいよインターネット症候群の本領発揮であります。
まず自分のブログをチェックして拍手が増えていないかどうか確認。
増えてないことを確認して軽く落ち込んだら次はミクシにログインしてみる。
メッセージが来ていないかなとか、コミュニティーのニュースは更新されてるかなとか、
誰かが面白いレスを立てていないかな、ということをチェックするのだが、
最近はミクシも盛り上がりに欠けてきていないかな、あんまり面白くない。
それで次はマイスペースにログインする訳である。
しかしながらマイスペースも最近は飽きてきてしまっているのだから人間は恐ろしい。
マイスペースは画像とか映像がベタベタ貼付けてあるから重くてストレスだね。
いや面白いんだけどねー。どっちなんだ。
それでお次は最近巷で評判のツイッター。
初めは(また新しいのが出たな)と思って警戒していた。
(そういえばフェイスブックなんてのも最近じゃ)などとも考えながら警戒していた訳だが、
同僚のカネコ君がツイッターのハナシをことあるごとにしていて、
(ツイッターか、オレはやらないけどね)と思っていつつも
(でもカネコ君が面白いって言うくらいだから面白いのかも)とも思えてきていたのだ。
そんなある日会社でツイッターを始めよう、みたいなノリになっちゃって、
つまりウチの会社は小さな音楽レーベルなんだけど、
そういう業種だったらツイッターが広報活動としてバカにならないんじゃないか、
ってことになって会社でツイッターのアカウントを取ることになったんだ。
それで実際オレも使ってみたら、なるほどこれは面白いかもしれない、
と思い至り、結局自分もアカウントを作って参加することになり、
それでかれこれ一週間くらいになるのかな。
そういう訳で最近はツイッターにログインして、
っていうメニューがオレのPCサーフィンのメニューに新しく追加されちゃった。
ツイッターは社交場みたいな場所になっていてみんなのつぶやきを閲覧できる。
やってない人はあんまりピンとこないと思うけど、
要はコミュニケーションツールなんであって、そういう点でいったら
ミクシともマイスペースとも同じ目的のツールなんだけど、
そのシンプルな仕様が「異様に今っぽい」のであり、
実際に「無料の告知」としては非常に有効なのであり、
例えば集団で親睦を深めるにはもってこいの道具なのであった。
だからツイッターはオレのパソコンサーフィンコースにレギュラー入りを果たした。
さて、そういうコミュニケーションを堪能して、
後はホームページの更新とか他もろもろパソコンでできる事務を済ませたら、
肩や首や眼の疲労何かを十分に感じながら自分の部屋に戻り、
後はギターを弾くか、本を読むかして眠りに就く。
そんな風にしてオレの一日はパソコン漬けだ。
こんなに一緒に居ていいのだろうか。トモダチ以上コイビト以上ってのは
さっき思いつきで書いちゃったけど、じゃあなんでこんなに一緒なのでしょう。
少し前のことだが、仲のいいトモダチがパソコン漬けになる自分を憂慮し、
「オレ、インターネットつないでないんだ。よくないよ、あれ」
と気焔をあげていたのをオレは今でも時々思い出す。
結局気分屋のそのトモダチはいつの間にかインターネットを再開して、
自分のホームページなんかもせっせと作って、といった風に、
簡単にネット生活に舞い戻ってきたのであったが、
インターネットに対して「よくないよ、あれ」と言ってのけたトモダチと、
同じような気持ちはオレも持ち合わせていて、
でもパソコンと仲良くなればなるほどその気持ちは
意識の底の、奥の奥の、底のほうへとおいやられてしまう。
しかしながらインターネット症候群になってしまった日本人のことを考えると、
いつだって可笑しい気分になる。
サムライ魂とか、いざカマクラとか、名を名乗れとか、神風特攻隊とか、
日本男児とか、そういうのはいったいどうなっちゃうんだろうか。
名を名乗れ、といっても相手はハンドルネームのままだぜ。
いざカマクラじゃなくて、いざログイン。
ツイットっていうのは「つぶやく」ということだそうだけど、
「つぶやく」という日本語は「人には聞かれないことが前提の」心境の発動のことを指すのじゃないかなと思うんだけど、
ツイッターに書き込まれる言葉は不特定多数に読まれることが前提なのだから、
もうつぶやきではないんじゃないか、という余計なことを考えたりする。
ツイッターやらそういったパソコンのコミュニケーションが増えていくと、
人と人が対面してコミュニケーションを図ることが減ってしまうんじゃないだろうか。
楽観的な人は、パソコンのコミュニケーションが
より多くの対面コミュニケーションを生み出すと考えるかもしれず、
オレもそういう風に考えなくもない。だけど反対の公算もある得る筈だ。
昨日メキシコのクルーと集まって畳の部屋に車座になって音楽を聞きながら話しをした。
オレはこうして畳の部屋で車座になってトモダチと話すのが好きだった、
ということを久しぶりに感じさせた。
一人暮しをしていた頃やコイビトと同棲していた頃は
トモダチが集まってはその「畳の部屋で車座」をよくやっていた。
特に西荻線路沿い風呂なし家賃4.1万円の時は頻繁に
大学時代のトモダチが2、3人、多い時は5、6人集まってその車座をよくやった。
こういう寄り合いみたいな集まりがどんどん減っていく日本社会のあり方は寂しい。
結婚したり、年取ったりするだけでトモダチと遊ばなくなるのは寂しい。
インターネットへ依存してもそれは解決しない。
けれども使い方によってはコミュニケーションを円滑にもするんだろう。
どうでもいいことと感じる人も多いかもしれないけど、
どうでもいいことではないかもしれないぜ。
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