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土民、サンタさんになる

 土民を称しても一介の人の親。年末になると不安になる。クリスマスである。

 俗っぽいことを過剰に嫌悪する私が、日本は独立国ではなく、実はアメリカの属国だったのか、と気づいた時、何だよふざけんな、クリスマスもバレンタインもハロウィンもごめんだね。クリスチャンでもないのに、ポリシーなくなんでも取り入れて消費主義、資本主義のお客様になるのは癪に触る。子どもができるまでの私はそんな感じで西欧かぶれな日本人根性をことごとく軽蔑していた。

 ところが娘が産まれて幼児になると、クリスマスか、サンタにならねば! 触るもの皆傷つけそうだった20代の頃とは打って変わって、娘に喜んでもらうために私はおもちゃ売り場にいた。喜んでもらうため、というよりは、こと子の家にはサンタ来なかったんだって、などと周囲の子にバカにされるのは本意ではない。

 初めて買ったのは訳も分からず女の子のおもちゃ売り場に行って買ったリカちゃんだ。種類がいろいろありすぎて訳が分からない。しかし、適当に決めてレジで金を払う時は、うむ、オレもこれで一人前にペアレントしてるんだなぁ、としみじみ。

 その内娘がもう1人産まれる。今3歳になったから、そろそろ下の子のプレゼントもちゃんと用意しなきゃ…。便利なことにクリスマスが近づくと子らは、サンタさんに何もらおうかな、とか言い出したり、フライング気味に手紙なんかを書き始める。私はほほお、今年はすみっコウォーターかぁ(すみっコぐらしのゲーム)、などとスマホで情報を集めたりなどする。

 ところがクリスマスが近づくと家人から「こと子はすみっコウォーターじゃなくてすみっコのデジカメがいいんだって…」と言われ、デジカメ?高いんじゃないの?私は速攻で調べたが、どうやら生産終了でもう販売してない。これは面倒だな…。

 ほどなくこと子と風呂入るチャンスにことこの本意を聞いてみた。すると、
「うん、デジカメが欲しいの。高いものは親にお願いするの悪いからサンタさんにお願いすることにしたの」
「あ、そうなの、ふーん」
えっ…。私は動揺がバレないように平然と相槌を打ったが心中穏やかではなかった。

 クリスマスが近づいて私はすみっコウォーターを購入し、当日、「デジカメは探したけどなかったから」という手紙をサンタのフリでプレゼントに添えた。いやはやサンタも楽じゃねーや、と思いしっかりタスクを完了したつもりで寝ていると夜中3時に家人に起こされ、
「ちょっと!プレゼント置いてないじゃん!」と抑えた声で怒られる。ヤベっ、と飛び起きて隠しておいたプレゼントを2人の枕元に置いて危機一髪。今年は危うくサンタホントはいない説を小学校1年生女子に掴まれるところだった。クリスマスなんてなければいいのに。

ps. すみっコデジカメはメルカリで中古を見つけ、後日こと子にプレゼントしました。

「土民新聞第5号」より
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地区民体育祭

地区民体育祭のお知らせが回覧板で回ってきた。挟まれたプリントには競技名、その脇に参加表明を記名できるような表が刷られている。コロナ禍を経て4年ぶりの開催なのだそうだ。ところが、ウチの隣組(地元近隣で共同作業する際の区分け)では誰の参加表明もなく、新入りの我が家が勇んで参加を表明するのはいささか憚られた。私は極度の運動音痴で、小学校の時から運動会が苦痛だったため、軽度の運動会トラウマを持っていることもあり、我が家も参加表明を書かずに回覧を回した。

数日後、野良仕事をしているとお隣のIさんが声をかけてきた。Iさんが声をかけてくれるのは珍しいことではない。
「おう、長尾さん、地区民体育祭来るんだろ?」
おう、という一言に親しみが感じられる。私は回覧が回ってきたが、参加表明しなかったことを伝えると、
「いいんだよ、関係ないから」
そっか、(紙に参加表明しなくても)いいのか…。私は笑った。

ちなみにIさんはお隣さんだが、隣組の区域の境界線で分かれているので隣組自体は別になるのだ。Iさんはこの辺の地区の中でもとにかく社交的で愛嬌があって、しかも真面目だから、信頼されて地域の人にいろいろ頼りにされてるのを、私は最近少しずつ気づき始めていた。(きっと地区民体育祭を盛り上げるために頑張って人集めしてるんだろう…)そう思うと無下に断るのも申し訳なく、Iさんがいるなら安心だし、と参加することに決めた。

Iさんは我が家に隣接する国道の上に架かる高架の向こう側の家なので敷地が隣り合うわけではないが、移住当初挨拶回りした時、1番感じよく対応してくれた方で、必ずオヤジギャグを挟むサービス精神を忘れない、愉快なおじさんである。以来近隣のことではいろいろお世話になっている。

そもそも地区民体育祭がどういうものなのか知らなかったが、いざ本番を迎えて参加してみると、なるほどO町全域から各地区でチームを作り、リレー、障害物競走、借り物競走、綱引きなど、定番の種目で順位を争うものだった。往年はO町のすべての地区が参加していたそうだが、近所付き合い離れ(田舎でも起こっている)、コロナ禍などが障壁となって参加しない地区が増えたそうだ。「前はコースの周り全部が地区のテントで埋まってたんだけんど…」という声が聞こえたが、なるほど、会場となった小学校の校庭の、200mコースの周りには今回参加した地区のテントが歯抜けのように、またはシャッター商店街のように寂しくまばらに並んでいる。

来てみれば高齢化した田舎町のささやかな運動会である。競技の緊迫感は希薄で、高齢者が全力疾走するわけではなく、みんなほどほどにやっている。参加して、風通しよくして地域自治や地域コミュニティが活性すれば良いわけだ。運動会トラウマのことなど忘れ、私はO町のあらゆるところから集まってきた人達をただ眺めているだけで楽しく、ぼんやりまったり過ごした。私も妻も競技には参加しなかったが、子供の少ないこの町で、2人の娘が短距離走に出てくれたおかげで新入りとしての気まずさは薄れたし、子どもつながりで新たな知り合いができたりもした。

初めは参加表明しなかったものの、私は外から移住してきた人間として、地域のコミュニティにうまく溶け込みたかったし、そういうきっかけを欲していた。それが今回少しできたかもしれない、と体育祭が終わる頃には参加してよかった、という気持ちになっていた。

「おう、長尾さん、16時から打ち上げやるから来いよ!」
とIさんが声をかけてくれたので、私達はこれはまたさらに打ち解けるチャンスだな、と家族で参加することにした。場所は近くの集落センター。私は野暮用があったので、妻子に先に参加しててもらい、私は後から行くことにした。

野暮用を済ませ、一度帰宅して身支度を整え外に出た。雨がパラパラ降ってきている。さっきまで平気だったのに、いや、そもそも雨の予報で体育祭の開催も怪しかったのだ。体育祭で降らなかっただけよかったのだ。

私は傘はささないつもりでカッパを着た。集落センターは国道から見て私の家と同じ側にあるが、小山に阻まれて直接繋がる道が存在しない。なので例の高架を渡りIさん宅前を通り過ぎ、道沿いにグルっと左に回って再度出た国道を注意して渡らないと辿り着けない。しかし、裏の小山の藪をかき分けていけば多少短縮できる。しかもその小山は私が買った裏山なのだ。

裏山から集落センターまでの道のりは途中から篠藪をかき分けなければならず、私は鎌を手に道なき斜面を歩いた。藪の開拓は初めてではないが、こっちの方だよな、と思い進もうとしても篠竹の密生具合が思いの外はげしく、なかなか進めない。大した距離じゃないのに、陽も落ちかけてきて私は少し動揺した。

まあ、最悪戻れば家に着くわけでと思い、進むか戻るか迷ったが、暗くなってきているので迷ってる暇もない。戻ろうと思い振り向くと戻る方角が分からなくなってしまった。動揺が焦りに変わり、チクショウと鎌を使わずにガツガツ進もうとしたらコケた。ヤバい。私は自分ちの裏山で遭難するのか…。雨は激しくなるし泣きそうになりながら右往左往してると、人の騒ぐ声が聞こえた。「あそこだっ!」集落センターが視界に現れ、テンパった自分が恥ずかしく、冷静さを装い直し、いそいそとセンターに突入した。しかし、ずぶ濡れのカッパに篠の葉がかしこにくっついていたので、みなが驚いたような顔で私を見た。
「どうしたん?」
「いや裏山から近道できないかと思ったんですが、遭難しかけて…」

私が裏山でもたもたしたせいか、到着した頃には打ち上げがひと段落していて、帰る人は帰るような時間になっていた。家族も、もう帰る、というので、(裏山からくるんじゃなかったかもな)、と反省したが、飲んべえチームはまだ残りそうな雰囲気だったので、Iさんのテーブルに、この土地の新入りらしく控えめに座った。
「おい、長尾さんだよ、移住してきて植木屋で働いてるんだ」
飲んべえチームに私は紹介された。その中にキューちゃんと呼ばれてるジイさんがいた。私と同じ隣組なので知っている方で、しかもこの辺の庭仕事をちょこちょこ頼まれてこなしている植木屋さんだということも知っていたのだが
…、
「おお、植木屋なんだってな、だけどコイツはオレんとこに挨拶にもきねえんだ」
と冗談ぽいが、嫌味に棘がある。私は、確かに挨拶しに行ってないが、そこまでする筋合いじゃないと思っていたので、特にそれには答えずに受け流した。Iさんとキューちゃんが中心になって酒が進んでいる。2人ともビールだが大分酔って口調が普段よりべらんめえだ。
「でもよぉ、何だよキューちゃん、Xさんが、ええっ、アイツが何て言ってたんだよ。オレに直接言えばいいじゃねえか」
Iさんは怒ってるようだ。Iさんとキューちゃんは幼馴染なんだろう、へべれけの応酬に腐れ縁を感じさせる勢いがある。どうやら地区のことで何だか食い違いがあるらしい。私は分からないことだが、その2人の酔ったやり取りを脇で聞いていたら、ふとオヤジの酒の飲み方を思い出した。

オヤジが田舎の実家に帰省した時に幼馴染と飲む時の、あけすけな、あの雑な感じだ。オヤジが死んでしばらく経ち、私はこういう酒の飲み方を、ペース配分といい、久しぶりに見た。Iさんは怒っているらしいが、「何だよ」と怒りながらも相手のコップにビールを注いでる。2人の話しを注意深く聞いているような顔のTさんは下戸らしいが、2人のビールが減るとすぐにビールを注いでいる。酒を飲まないのに、しかもほぼ喋らないのに先に帰らずに最後まで付き合う、こういうタイプの人、いるよな、などと私は可笑しかった。

私が輪に入って1時間ほどして、じゃあ、お開きだな、となった。長尾さん、これからも頼むぜ、などとふらつくIさんに言われた私は、飲んだ後千鳥足で家路に着くオヤジの姿を思い出した。中肉中背の具合もIさんと重なった。

田舎暮らしを堪能し、移住仲間が増え、楽しく暮らしていたが、今一歩地区に溶け込めずにいる気がしていた。コロナ禍で地区の飲み会が途絶えたらしかった。だが、体育祭から打ち上げまで終わって私は、少しだけこの地区の住人になれたのかもしれない、と思った。

土民新聞のせいだ

ブログの更新久しぶりである。これはひとえに「土民新聞」のせいだ。

本年6月の末にフリーペーパー「土民新聞」第一号を発行した。これは都心から緑あふれる田舎に移住し、土に、樹木に、自然に、山に目覚めたとある男の生きた証として、不定期刊で刷られるA4裏表の新聞である。とある男とは不肖私のことである。

土人じゃない。土民である。土人だと人権問題に触れてしまいかねないが、土民とは土とともにある民のことを指す。私がこの言葉に惹かれたのは、石川三四郎というアナキストが「民主主義」を「土民生活」と訳したことから拝借したものだ。石川三四郎は大杉栄などが虐殺された大逆事件の後に渡欧し、農耕生活に従事し、その中で上記「土民生活」という訳語を掲げることになるのだが、アナキストに限らず左翼活動家などが、最終的に農の生活に落ち着くパターンは少なくない。

私は里山アナキストを自称し、自分はアナキストであるぞ、と私に誓ったのであるが、移住して田舎暮らしに没入した私の、思想的、農耕的、野良的なアレコレを真面目に、また不真面目に、書き殴る媒体があれば自己満足できるのではないのか、と考え始めた。

私がフリーペーパーなるものを作るのは、実は初めてではない。高校生の頃、ロックと古着に夢中だった私は、吉祥寺や下北沢など、若者文化発信の町に足繁く通い、中古CDや古着を漁った。そしてそういう店の片隅に、ライブやイベントのチラシに混ざってフリーペーパーなるものが陳列してあるのに気づき、何となく持ち帰っては読むのが習わしとなった。

フリーペーパー、今ではジンという方がヒップなのかもしれないが、要は新聞や雑誌など、法人が発行する読み物とは一線を画す、個人の、超ニッチな内容の読み物であり、手書きの殴り書きのものもあれば、ちゃんと活字で刷られ、レイアウトもしっかりしたものまで、バリエーションは豊富だった。

丁度その頃、クイックジャパンというマニアックな雑誌にハマっていた私は、この形態でクイックジャパン的なニッチな記事を書いてフリーペーパーを作ってみよう、と意気込んだ。まだネットも普及する前のそんな時代の話しである。

それから私は20代中頃まで、タイトルを幾度か変えて、そのようなフリーペーパーを作った。大学を出てバンド、赤い疑惑一筋でがむしゃらになっていた頃作っていた「わくわく赤い疑惑」というフリーペーパーが最後だ。

そしてその頃からネットの普及と共にブログの隆盛が始まった。これは大事件で、承認欲求を満たすためにわざわざ紙という媒体に印字したフリーペーパーを、お店などに頭を下げて置かせてもらったり、直接友人知人に配ったりする労力を要さずにネットの向こう側の人に、自分の文章を読んでもらえる、という魔法のようなことが現実になったのだった。

私は早速ブログを立ち上げて拙い駄文をせっせとアップするようになった。紙と違って文字数制限のないブログの特性に合わせて、3,000字以上の長い、日記のような記事を沢山書いた。それがカタチを変えたりしながら、こうやって未だに続いているのである。

ところが、このブログの記事を書くことだってずっとやっていれば飽きたり、疲れたりする。アップしてからもらえる幾通かの「いいね」が唯一の喜びとなり、そしてその繰り返しだ。仕事じゃないからお金が貰えるわけではない。家族に喜ばれる訳でもない。

子育てが始まり、バンド活動も自然と緩慢になって、当然ブログに記事を書くのに割ける時間も限られてくる。それでも健気なもので、活字に捉えられた人間というのは、定期的に文章が書きたくなってしまうものである。不思議だ。

先にも書いたが、東京から埼玉の田舎に移住したことは私にとってとても大きな出来事だった。バンドマンとして大成したかったが失敗し、それでも前向きに生きることに希望を持って健気に生きていた私にとって、移住後の暮らしは、そのような、夢を諦めて余生をなんとなく過ごす、という慎ましいニュアンスからは大きく飛躍し、この素晴らしい自然の中で新たな夢を希求し、充実した日々を土と共に暮らす、という極めてポジティブな、若干前のめりな方向へと私を誘っていく。

そしてそんな生活と、その中で感じることを書き殴り、新聞を作りたい、という新たな思惑が脳裏をよぎる。ブログから紙に逆戻り、活字から手書きに逆戻り。頭の中でイメージが膨らみ、「土民新聞」という言葉が出てくる。里山アナキストという言葉が舞い降りてくる。気がつくと第一号が完成していた。

これを、会った人や奥さんがやっているピンポン飯店で配ったり、友人のお店に置かせてもらったり、そんなことしていたら、コレは面白いじゃないですか、長尾さん!なんて喜んでくれる人が現れる。

その土民新聞第一号に書いたのだが、私の父は私が小学校の頃から、長尾家家族新聞なるものをほぼ月一で発行し続けた奇人である。父亡き後、その家族新聞が420号くらいまで発行されていたことを改めて認識し、リスペクトの念を禁じ得なかったのだが、どうせなら土民新聞も「目指せ420号」と負けん気が持ち上がる。ギター弾いて歌うのも、文章書くのも、結局父の血なんだな、と今は認めざるを得ない。

しかし、420号作るとなると、月一だとどうかと計算してみたら35年かかる。年齢だと79歳までである。死んだらどうにもならんが、無理な数字ではないとも思える。そんなことを考えながら3号まで作ったのだが、おかげで田舎暮らしの忙しさに拍車がかかり、ブログの方はなおざりになってしまった。

しかし、土民新聞は手書きのため、表裏でざっと2000字ほどしか書けない。短文にぎゅっと言いたいことを凝縮するのに慣れてない私には、文字数制限があることがハードルであり、逆に言えば、言いたいことをいかに少ない文字数で伝えることができるのか、という挑戦にもなるのでそれはそれでやり甲斐がある。けど長文も書きたい。

土民新聞を読んでもらうには私が手渡するか、リクエストさえあれば郵送という選択肢もやぶさかではないが、そういうわけで、気軽にオンラインで長い文章を掲載できるこの赤い通信も変わらぬお引き立てのほどを。

第一回キラナ里山祭り

そこは小川町の外れ、飯田集落から山間に入るドンつきの広場である。奥には石尊山が控え、広葉樹が朗らかに伸びている。ここは先人たちが丁寧に維持管理してきた雑木の空間だ。先人たちというのは里山クラブの先輩たちで、もっと言うとここはそのクラブの佐藤会長の土地なのだった。

その広場には大きなコナラの樹冠が覆う板張りのステージが一部に設られ、その脇にはツリーハウスがある(今は要改修で立ち入り禁止だが)。ステージの下には武骨な炭焼き窯がドンと構えていて、その存在は広場の雰囲気を味のあるものにしている。

移住して、田舎のことを知りたい、と前のめりになっていた私は里山クラブのことを知り、体験でお邪魔したその日に入会を決意した。クラブを構成するメンバーたちの平均年齢は60から70くらいだろうか、最年長者は80を越えていた。私は地元の爺さん達と仲良くなっていろんなことを教えてもらいたい、と移住を決めてから密かに企んでいたので、これはかっこうの学び舎じゃないか、と合点したのだ。高校生以来のクラブ活動だ。

ジュンさんと知り合ったのはそれから間もない頃。小川町への移住者で、何と坐禅会を主催してる人がいるとの噂を聞いた。そんなマニアックなイベントを開催してる人がいるのか、と私は興味を持った。この小さな町では、移住者同士というのは不思議なもので、そこまで気合を入れなくても、何となく暮らしているだけで自然と知り合うことができる。そんな訳でジュンさんとも、どうやって知り合ったのだか思い出せないが、いつのまにかお友達になっていた。

長髪で、エスニックな召し物に身を包んだジュンさんが、現役のバックパッカーであろう、と勝手に判じた私は、気づいたらジュンさんと旅の話に花を咲かせていた。特にジュンさんがジャマイカでギャングに囲まれて危ない目に遭った話は抱腹絶倒のストーリーで、夢中になり胸が熱くなった。いいアニキを見つけた、そんな気持ちでジュンさんとの付き合いが始まった。ジュンさんは私より一回り以上上だが、存在に上下をつけないようなピースオーラを身につけていて、知り合ったばかりとは思えないほどの親しみを私は覚えていた。

即興ミュージシャンでもあるジュンさんは、埼玉の都心部から移住してきたのだが、小川町でイベントをやる場所を探しているというのだ。それまでにもジリミリというイベントを主催している彼が、小川町内で自然に囲まれ、人が集まれる場所をさがしているというので、いいとこがありますよ、と私は言い、里山クラブの活動広場にジュンさんを連れて行った。

ジュンさんはすぐにそこを気に入ってくれて、いいでしょいいでしょ、なんて言って帰ろうとした折、土地の主人、佐藤会長と出くわした。ジュンさんにざっと会長を紹介すると、会長は現役時代の旅の話を持ち出し、ジュンさんとの間で旅人同士の話しが盛り上がり、私も横でニヤニヤしていた。そうなのだ。佐藤会長は教師をやっていた現役時代に、世界五大陸の巨峰をことごとく踏破。世界歩きの達人でもあるのだ。

その帰り際、ジュンさんと、あの会長、あそこの広場で毎朝ヨガやってるらしいんですよ、ヤバくないですか、えっ、そうなの、ヤバいよね、ヤバいヤバい、と盛り上がった。ジュンさんは会長にも惹かれたのだろうか、ほどなくして里山クラブに加入を決めたのだった。

小川町の里山クラブが他の里山愛護団体と一味変わっている、と私が感心したのが、里山祭りという毎年11月に行われる会のお祭りで、ステージにPAを持ち出して、メンバーの出し物披露が行われるのだが、その中にバンドの演奏も取り入れていることだった。そういうカルチャーを取り入れていたのが、会の中では「若手」であるカノウさんで、彼はそれでも私よりいくつか歳上なのだが、自身もベースを弾くバンドマンでもある。

彼は私のようなバンドをやってる「若者」が、高齢化しつつあった里山クラブに入ってきて、ホントによかったです、と何度も私に伝えてきた。私は恐縮するばかりだが、逆にカノウさんの存在は、私が、その高齢化したコミュニティに馴染むのにもとても心強かった。

ジュンさんが里山クラブに入ってきて、カノウさんと仲良くなり、「一緒に音楽イベントやりましょう」と盛り上がるまでに時間はかからなかった。そして、今度は2人から私に、イベント実行委員として協力してくれないか、と声がかかったのである。

企画するイベントはキラナ(サンスクリット語で太陽の光の筋という意味の言葉)里山祭り、と題され、里山クラブの主催する里山祭りとは切り離す、という体裁だったが、佐藤会長と里山クラブの聖地を使わせてもらうので、実質小川町里山クラブの後援、といっても過言ではない。カノウさんは会長と会員にイベントの趣旨を説明し、賛同を得る任をこなしてくれた。

声をかけられた私は、一も二もなく請け合ったのだが、少し落ち着いてから、そうか、オレは野外音楽イベントを主催するのか、と改めて思った時、まだ20代後半の頃‪‪──‬私が最初に移住に興味を持ち始めた頃だが、「いつか田舎に移住したら、その移住した先で野外音楽イベントを主催できたらいいだろうなぁ」とそんなことをぼんやり思っていたことをふと思い出した。そして、そのぼんやりした夢はその後、時々思い出したりしては、まだ都心から離れてもいないし、やっぱり無理だよな〜、と引き出しの奥の方に仕舞い込んでいた。そして遂に移住を決めた時には、"田舎に住む"ということだけにとにかく興奮していたためその夢のことは忘れていたのだ。

気がついた時に、何となく以前願っていたことが叶っている。そんなことを40年も生きてきて、幾度か経験してきた。山の見える田舎に移住することだってそうだ。難しいかな、と思えることでも頭の中でイメージするだけでいいのだ。人生は素晴らしい。

それから、私たちは何度かのミーティングを重ねてイベントの骨子を練っていった。はっきり言って、主導してくれたのはジュンさんとカノウさん。私は会議に出て、時々意見を言ったり、いいですね、それでいきましょう、などと相槌を入れたりするばっかり。SNSの宣伝は買って出たが、私がいろいろ動かない間に、ジュンさんの奥さんや、お手伝いさせてと名乗り出てきたシュウちゃん、ヤギちゃんがいろいろ動いてくれて準備は着々と進んでいった。

私は大学生の頃、インディーズのバンドを何組も呼んで学園祭で賑やかなライブイベントを企画したことを思い出した。あの時も、私が作ったサークルの仲間たちが、気づいたら何やかやと動いてくれていた。その時は私も自ら寝る間を惜しんで飛び回ったが、今回は私が飛び回る前にみんなが積極的に動いてくれていた。私はただ主催者の1人です、然としていればよさそうだった。

100人集まれば赤字は免れるだろう、と思って当日を迎えると、概算で150人以上お客さんが集まり、大盛況のお祭りとなった。私が長年温め続けてきたロックバンド赤い疑惑がトリで演奏すると盛り上がりは最高潮だった。

移住して3年、親しくなった人達が、私がステージで豹変してロックスターに変身したことに口を揃えて驚きを示し、目を丸くして、皆、よかったよー、と絶賛してくれ、私は例えようのないほど嬉しかった。自分が20代まで人生をかけて取り組んでいたヘンテコなロックバンドのリーダー、という一面を知ってもらうことができて嬉しかったのだ。一移住者としてマジメに頑張ってるフリをして実はとんでもないロックンローラーだったことを伝えられたのだ。

第一回里山祭りはそのような経緯で偶然のように出現し、気づいたら、もの凄いお祭りでしたね、という定評と、駐車場問題、ご近隣問題という幾許かの課題を残して締め括られた。

当日片付け撤収が終わりお客さんが三々五々散った後、私は打ち上げ会場に向かう前にもう一度駐車場から会場までの「里山」を歩き、ホタルが飛んでいるのを確認した。

移住する前、「里山」という言葉だけを認識した時は「人の手によって管理された山間のこと」、とその文字通りをイメージするしかなかった。初めて里山クラブのその活動広場に足を踏み入れた時も、そこが正に里山の象徴的な場所であることを意識しなかった。ただ、なんて気持ちのいいところだろう、と感じたことだけは覚えている。

そして今、無論ここが、こんな場所が、まさにこういう場所こそが「里山」なんだと確信し、私の里山ライフがこれから楽しく続いていくだろうことを予感した。

山を買った男の物語(後編)

裏山を所有者から買いたい、という腹づもりになった私は、山林相場の聞き取り調査の結果に納得がいかず、もう直接交渉で進めようと腹を決めた。100万、200万、300万という周囲の人間の鑑定はうっちゃって、T婆さんに、50万円までなら出します、と宣言するのはどうだろう、と考えがまとまってきた。向こうは持て余して困ってるのだからそれで話が決まるんじゃないか…。

山林の購入に関して、誰もはっきりとした知識を持っていないようだったが、役場に行ってみたら、というアドバイスを思い出し、私は久しぶりにT婆さんに連絡し、山のことで一緒に役場に行ってもらえないか、と頼んだ。婆さんも売却に前向きなのだろう、すぐに了承してくれ、旦那さんも一緒になって3人で役場に行った。

担当課に行き、山林の売買について質問すると、やはり役場の人たちでも正解を知らないようだった。いやむしろこの手の個人間の取引に正解などないようだ。が、法務局に行けば「公図」というものを発行できて、登記されている土地の大体の地図を取得できるから行ってみるといい、ということを教えてもらった。

私は法務局などという機関に世話になったことがない。どんなところかも知らないが、もしかしたら法務局の人にもアドバイスしてもらえるかも…。私とT老夫妻は日を改めて今度は東松山の法務局まで出向いた。婆さんは固定資産税の納付証明と土地の権利証を持参し、私が車に2人を乗せて。

法務局で手数料を払うと確かに公図という地図を発行してもらえた。普通の地図と似てはいるが、何だか独特なものに見えた。測量された土地じゃないのでこの地図も必ずしも正確なものではないが、大体合っているらしい。私は山の向こう側の境界線がどの辺で隣接地の所有者がどれくらいなのか気になっていたが、その公図を見ると反対側の境界の隣接地は1区画2区画などではなく、幾つもの区画に分かれていた。つまり、もしこの先、隣地との境界を判明させたいなら、複数の地権者に連絡して、もし先方が境目を把握していれば、教えてもらう訳だが、それが何区画もあると思うと気が遠くなった。

法務局では売買についてのアドバイスは大して聞けなかったが、固定資産税の納付書を見て、「まあ、土地の価格が決まってるわけではありませんが1つの目安としてこの評価額を参考にしてもいいと思います」というのだった。土地の価格の判定には複数の目安があって、評価額もその一つだというのは知っていた。

私と婆さんは職員と納付書を覗き込んだ。納付書の評価額欄にはなんと約20万という、想定より大分安い金額が記されている。私が、あれ、予想より安い、50万出しますと早めに言わなくてよかった、20万じゃ安過ぎるよなぁ、と嬉しくなったが隣りでT婆さんは、えっ、と言ったまましばらく絶句して、20万にしかならないの、あの山は!と悲痛な表情になった。私も何だか気まずいような済まないような気持ちになってきた。婆さんは、「あたしゃ、にさんびゃく万くらいはするもんだと思ってたのに…」と肩を落としている。

婆さんはオレがにさんびゃく万くらい出してくれると思っていたのだろうか、そう考えると何だか本当に哀れに思えてきて、例の50万までなら出します宣言は一旦引っ込めた。そして帰りしなに今度は、婆さんがその土地を先代から相続した時に世話になったという司法書士事務所にも行ってみた。司法書士事務所の担当もやはり、「そうですね、この評価額を1つの目安になるでしょうね」と言っている。T婆さんはダメ押しを受けてやはり哀切を深めている様子である。

「もし、双方で納得できる売買金額が決まったら、こちらで権利書の書き換えをしますから。」
その際、手数料はいくらいくらで、Tさんの必要書類は何々、私は印鑑だけでいい、というようなことを司法書士は付け加えて言った。

私は老夫妻をご自宅に送り届け、ちょっとお茶でも、と言われたのでT夫妻宅にお邪魔した。南向きの庭に面した応接間は片付いていて、お2人の趣味などがまったく想像できないような、特に何も飾り気のない部屋だった。

まあ、どうぞ、と言われて急須から注がれたお茶はほんのり薄緑色に色づく程度で、私は、アレっ、と思った。飲んでみると、ほぼ白湯に近く、茶の味はしなかった。婆さんが、
「それで、どうですか、オタクいくら出してくれるのかね?」
あまりに単刀直入だが、もうお互い、売買を成立させるためにこうして動いているのだ。
「そーですね…。…あの、40万でいかがでしょうか?」
私は評価額が20万だと判明したことを受け、予定の50万から10万ケチって、婆さんの様子を伺った。20万でも30万でもなく40万と評価額の倍額を張ったのは、私の婆さんに対する気持ちだった。20万と聞いて落胆していた婆さんがどうも哀れだった。
「40万円?…ねえ、100万円出してくんないかね?ねェ?」
婆さんは私の眼をジッと覗き込んで懇願するような感じなのだ。私は動揺した。まさか、そんな具体的な、しかも評価額よりうんと高い金額を提示されるとは思ってなかった。
「あ、いや、あー、そうですね…、…でも40万までしか出せないです」
私は、私の気持ちが20万乗っていることに婆さんは特別何も感じていないだろうか、と心配になった。
「ねえ、そう言わないでさァ、100万出してくれないかね?」
婆さんの悲哀の表情に私の心が揺さぶられる。婆さんも爺さんも恐らく80代後半くらいに見える。この先長くないのかもしれない…。いや、でも、40万という金額は悪い提案じゃないんじゃないか、ここでブレてはダメだぞ、と勇気を出した。
「ごめんなさい。…40万までしか出せません。」
なるべくきっぱりお伝えしたつもりだった。
「ダメかねェ、ねェ?」
畳み掛ける婆さんに
「ばあさん、もうよせよ、困っているよ、20万円の価値ってことなんだ。それに結論を急がなくてもいいじゃないか」
横で苦々しい表情で傍観していた爺さんが口を挟んだ。というか私にとっては有難い助け舟であった。

結局、結論は今日分かったことや私とのやり取りを、家を出て都心に住んでいる倅さんと共有して決める、ということに落ち着いた。私は、この田舎を捨てて出て行った息子さんが、あのボウボウの竹藪を欲しがるとは思えなかったが、万が一売るのはもったいない、などと言い出したらどうしよう、と少し不安になった。

数日後、早速倅さんから電話があり、母から話しを聞いたが、長尾さんが折角欲しいと言ってくださっているのだから私はお譲りしたいつもりでおります、という内容で私を安心させた。が、勤務先の不動産部署に一応あの場所がどれくらいの価値なのか、本当に20万程度なのかどうか確認してみますので、少しお待ちください、とのことだった。倅さんは大手の会社に勤めていて、社内に不動産関係の部署があるようだったが、結局更に数日後、「調べてもらいましたがせいぜい30万くらいでしょうとの返事でしたので、長尾さんご提案の40万でお売りしたいと思います」という電話があった。私は小躍りした。

後日また倅さん同席の下、Tさん宅に私が赴いた。倅さんと挨拶を交わすと、「長尾さんはあの山、どうされるおつもりなんですか、単純に知りたいのですが?」と倅さんが不思議そうに私を見た。確かに今時分、山林を買いたい、などという発想は理解不能かもしれない、田舎を離れ都心部に移った人には余計。
「私はあの山を管理したいのです。竹を間伐して、うまくいけば広葉樹を植えて雑木の森のようにできたらと思っていて…」
倅さんは非常に感心した眼差しで私を見て、そうですか、と納得して、どこか嬉しそうですらあった。

後日40万円を振り込んで、確認してもらった後、また例の司法書士事務所に同行して権利書の書き換えをしてもらう手筈をとった。息子さんと話し合って売買が成立してしまってからは、婆さんの、あの鬼気迫る哀願のムードは霧消していて、私は気持ちよく取引ができてとても安心していた。そして、婆さんが子どもに幾らかでも多く財産を残したかったのだろう気持ちを想像もした。まさか、自分の今後の暮らしの羽振りを考えてあのように訴えたとは思えなかったからだ。

数日後、権利書の書き換えが済んだから取りに来て、と司法書士から連絡が入った。車に乗る前に古屋の真裏に迫る竹藪の山を眺め、ついにこれが私の所有になったのだ、とこの山の未来の表情を想像し、よし、と独りごちて車に乗り込むのだった。(完)
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