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バンドマンに憧れて 第30話 アクセルのヘルニア奇譚

10年以上も前の記憶を辿りながらバンドマンに憧れた我が身を時系列に振り返っていたつもりでも、記憶は曖昧なもので、書き損じたトピックを後から後から思い出すものだから大変だ。

前回書いたバイクの事故をやらかす少し前に私に襲いかかった重大なアクシデントがもう一つあった。それは椎間板ヘルニアである。背骨を支えるクッションであるゼリー状の随核が何らかの事情で飛び出してしまい、それが神経の通り道に触れることで腰に激痛が生じたり、座骨神経痛や足の痺れなどが伴ったりする病気である。

大学卒業後、アルバイト生活に入る時に私が選んだ仕事は調理のバイトだった。キッチンの仕事というのは今考えるとかなりハードで、小さな店だろうが意外と縦社会の序列が厳しい世界だった。私は縦社会がことのほか苦手で、そのせいで1つの店であまり長続きせず職場を転々としていたのである。

第20話で書いた創作ダイニングのお店で働いていた時、事件は起きた。一斗缶といって業務用の油や醤油が18リットルほど入る薄い金属でできた缶に穴をこじ開け、漏斗を使って普段使い用に1.5Lのペットボトルに移し替える業務がある。いつも中腰の体勢でその作業にあたっていて、その時も同じように腰から体を折り曲げて、非力なため、身体をプルプル震わせながら踏ん張っていたら、腰がピキッとなって妙な痛みが走った。

ギックリ腰というヤツだろうか、とその時はまだ大したことない腰痛かと思っていたが、腰の痛みと違和感は治らず、病院に行ったらMRIを撮るという。MRIというのは身体を断面で透写する、大仰でお金もかかる検査なのだが、その結果私は「椎間板ヘルニアですね」と宣告されたのだ。

椎間板ヘルニアといえば、小学校の担任だった広瀬先生が手術した病気だ、とすぐに思い当たった私は、宣告を受けて、まるでガンの宣告を受けたかのように目の前が真っ暗になった。その頃は広瀬先生の他にヘルニアになった体験を聞いたことがなく、背椎の手術を伴う大変な病気だと思い込んでいたためだ(私は小学校の級友と広瀬先生のお見舞いに行って、相当な苦痛を耐える先生を見たことでそう印象づけられたらしい)。

ヘルニアを宣告した病院では、特に有効な治療法はないので痛み止めを出します、もっと酷くなったら手術です、と全く便りのないアドバイスしか貰えない。私の場合左足の痺れと足から腰にかけての痛みが常に伴う症状で、痛み止めを朝飲むと夕方くらいまで痛みが治まるので、それでなんとかランチのキッチンバイトをこなしていた。

しかし、私は憂鬱だった。ずっとこの、身体に悪そうな痛み止めを、これからずっと飲み続けないといけないのか、はたまた、私はもう2度と元気に野を走り回ったり、快活に運動したりはしゃいだりできない身体になってしまったのか…。そもそもあの重いギターを肩から下げて歌う。ロックスターに不可欠なその行為を続けられるのか…。

諦めのつかない私は、その頃根づきつつあったインターネットでヘルニアについて調べまくり、胃腸虚弱をきっかけに出会った東洋医療、および代替医療に救いを求めた。そして針、整体、といろんな治療院にあたってみたが、即応的手ごたえはなく、いかんせんそのような代替系治療には保険が適用されないためやたら高額で、手当たり次第という訳にもいかないのだった。

そんな中、知り合いの伝手にカリスマ整体師がいるという情報を入手し、私は護国寺のとあるマンションに向かっていた。1回診てもらうだけで2万取る、というので相当な覚悟が必要であったが、これでヘルニアが治るなら、と藁にもすがるつもりになっていた。ちょっと変わった先生だけど…、という不明瞭な前評判だけを頼りに門を叩いた。

なんてことない小さな間取りの一室で少し待たされた後呼ばれ、緊張しながら治療室に入ると突然、
「貴様!何しにここに来たっ!」
腹の底からの怒号に私は一瞬で凍りついた。強張る口唇を動かして、椎間板ヘルニアになってしまい云々と、漸く伝えると、
「この親不孝ものめ!!」
と、さらに大声で罵られ、私の意識は異次元に飛ばされてしまった。そしてその後も、音楽をやってるだと! とか、私のバックグラウンドを簡単に掻い摘んでは非情なまでに私を叱り飛ばした。彼は自分がどういう経緯でこの治療院を開業するに至ったか、艱難辛苦を乗り越えたやたら壮大なストーリー仕立てで語り始め、知り合いのミュージシャンが音楽を志したが故にどんな惨めな境遇に陥ったかなど、よく分からない脈絡で語り、時に大声を上げて私を圧倒するのだった。

先生は白いランニングから粒々の筋骨を覗かせ、口の周りには勇猛なヒゲを蓄えている。すぐに大声を張り上げるその様と言葉遣いとは、見方によってはカタギの人間には見えなかった。

ある程度の説教が終わると
「そこに寝てみろ!」
とまた怒鳴られて私はうつ伏せになった。そして私の下肢を何やら触っていたかと思うと
「これだな!」
とまた大声をあげ、ふくらはぎ辺りのツボのような部位をかなりの力で抑えるので私は悲鳴をあげた。そして、
「治ったぞ…」
と真面目な顔で言うのである…。私は半信半疑で治ったのかな、と思い、とりあえずお金を渡した。もう先生は大きな声も出さない。もういい、帰れ、と言うのである。

圧倒されっぱなしのまま私は鉄扉を開けて外に出た。そしてマンションの階段をフラフラと降りていく内にオロオロと涙が出てきて、遂にはヒイヒイと泣き崩れてしまった。そんなことは生まれて初めてだし、訳が分からない。先生の説教に感心した訳ではなかったが、「親不孝ものめ」というパンチラインだけは強く私の心を揺すぶっていた。

私は大学を卒業してから今までやりたいように楽しくやっていたつもりだが、親に反抗姿勢でバンド生活に突入したことに少なからず負い目を感じていたに違いない。何一つ不自由なくいい大学まで行って…、という世間からの見えない視線を気にしてなかった訳ではなかった。

「この親不孝ものめ!」私はマンションの階段を降りながら、涙を流して母や父のことを思った。このままでよいのだろうか…。後で考えるとその時の私は完全に催眠療法にかかっていた気がする…。

その日の午後、私はメンバーと会う予定になっていて、話さないと喉がつっかえたようでダメなので、ブレーキーに包み隠さず今日の出来事を伝えると、如何にも怪訝そうな顔をしながら、それで…、治ったの?腰は? と言うのである。問題はそこである。治療院にいた時はもう圧倒されて痛みの検証をする余裕もなく、出て来てからもあんまり痛みを感じていなかったのだが、ブレーキーと話している時は先生が強押ししたふくらはぎの裏のツボのような箇所の痛みとともに、またいつもの腰と左足の違和感が出て来てるように感じていた。私は「う〜ん」と首をかしげるのが精一杯だった。

結局、椎間板ヘルニアは治ってなかった。翌日からまたいつも通りの違和感と痛みが戻っていた。私は、あれは新手の詐欺施術師だ、と判断して、おっかなかったけど、すぐに治療院に電話をかけて治ってない旨を伝えた。
「それで何が言いたいんだオマエ?金を返して欲しいのか?」
と悪びれずに言うので、ハイ!、とはっきり言った。すると、取りに来いよ、と言うので私はまたぞろ護国寺まで行き、丁寧に2万円まるまる返してもらった。

アレは何だったのか、ハッキリとは未だに分からないが、極悪系自己啓発治療院だったのではないだろうか。精神的な不均衡が膝や関節の痛みとなって現れることもあるそうだから、あの極道先生の説教で催眠と共に身体が治るような人も世の中にはあるかもしれない…。

その後私はネットでみつけた大井町のカイロプラクティックにて、1発で劇的な痛みの軽減を体験し、その先生と相性が良かったのか、初めの1月は毎週、2ヶ月めからは月に1回5000円程の出費を忍んで通い、1、2年で通わなくても平気なところまで回復した。

カイロの先生曰く、私の腰痛は姿勢が原因。言われてみれば私は大学生の時に爆笑問題の太田が好きで、あのニヒリズムと一緒にあの猫背姿勢を敢えて真似ようとしていた経緯があった。その猫背が腰の負担をジワジワと高めていたに違いない。私はそのように反省し、以降できるだけ猫背にならぬよう努め、胸を張って生きていくんだ、とポジティブにこの腰痛体験を消化し、ヨガやストレッチで筋肉を緩める気持ち良さ、そして腰に負担のかからない身体の使い方を体得し、現在まで何とかやっている。

アクセルの意気地記 第17話 不細工な猫のぬいぐるみ

我が愛しのこと子は女の子だからだろうか、キャラクターや人形、ぬいぐるみに対しての反応が頗る強く、そしてまた不思議なことにこと子が可愛がるモノに対して、私も次第に次第に心が動いてしまうようだ。最初にそれを感じたのはこと子がまだ乳幼児の頃に着ていたミッフィーのロンパースである。

さすがに乳幼児のこと子がミッフィーに対して特別な愛情を表現していた訳ではないのだが、今まで一瞬足りとも思ったことのない「ミッフィー可愛い」という情動が私の中で巻き起こった。これは作者のディック・ブルーナの採用した色使いが私の好きな色彩感と似ていたこともあったかもしれない。しかし、それ以降ぬいぐるみを握ったりするようになってから、こと子が愛情表現を示したぬいぐるみやキャラクターに対して私の心は開かれ、次第にそういった対象への私の愛情が、いちいち芽生えていくのを禁じ得ないのだ。

プーさん、スヌーピー、ガーフィールド、羊のショーン、アンパンマン、ミッキー、キティーちゃん、その他名もなき人形やぬいぐるみたち。何しろ、幼児のそのような愛情表現は無垢でストレートであり、さらに母性をも感じさせるのである。私はそんな幼児が発動する母性というものに釣られているのではなかろうか…。

さて、我家の生活圏は、長年生活をしている田無界隈ということになるが、自宅から駅までの道はこと子を連れて、時にはバギーで、時にはよちよち歩きに合わせて何度も往復してることになる。

私がいない時、ピーとこと子でお出かけの時、その行き帰りの道すがら、住宅街の軒先や、植え込みに置かれてある小人の人形や、タヌキの陶器や、子どもの視線がなければ気にも留めなかったような動物の置物などに、こと子が逐一反応して歩みを止め、なかなか前に進まなくて大変だ、とピーから聞かされていた。私もその話を聞いてからこと子と散歩すると、ワンワンだ、とか、ニャンニャンだ、と口走ってはしばらくしゃがみ込んでそれらの人形やら置物を観察するようになったのを知って愛らしく思っていた。

そんな行き帰りの途上、我家のある北原住宅街の入り口に慎ましやかに営業している寿司屋があり、表に以前から、使われなくなったのか置き去りにされた冷蔵ショーケースがひっそり。そしてその中にクマと猫のぬいぐるみが、お供え物のようにぽつねんと並んで置かれているのを発見したこと子が、その前を通るたびに、クマさん! とかニャンニャ! とか興奮して愛でているらしいことを、これまたピーから聞かされていた。それで実際その寿司屋の前をこと子と歩いた時に評判通りの反応を示して喜ぶのを知った。

そんなある日、大分夜遅くなって、どこかから帰ってきて、ピーとこと子と寿司屋の前まで来て、一通りこと子がぬいぐるみを愛で、さあ、行こうか、となった時、(恐らく)寿司屋の隣のお宅の、年増の夫妻が車を自宅の前に横付けしており、彼らが我々に声をかけた。
「そのぬいぐるみ、よかったら持って行きませんか? それね、お寿司屋さんも知らないうちに誰かがそこに置いて行っちゃったの…」
それを聞いて、家に余計なものを増やしたくない私は嫌な予感がしたのだが、
「ええっ! いいんですか!」
隣で、どれだけそのぬいぐるみのことをこと子が愛しているかを熟知していたピーが、私の意志とは反対に喜びの声をあげた。こと子も何か察したらしく目が輝き始めた。
「お寿司屋さんもね、困ってるみたいだから、どうぞ、是非もらっていってあげて。」
そこまで言われ、ピーとこと子の反応を見るにつけ、私はもう反対意見を表明することはできなくなっていた。ショーケースから取り出されたクマと猫のぬいぐるみはこと子に大事に抱かれ、そしてそれから彼らは我家の一員となった。

そのクマのぬいぐるみと猫のぬいぐるみは並んで置かれていただけで、対の組み合わせになってるわけでもなく、その風合いも大分違っていた。が、背丈がほぼ同じだっため、こと子の中では仲良しのペアとして可愛がられることになった。持って帰ってすぐに、明らかにそれらが対の商品でないことがわかったのは、猫の人形の底に電池を入れる部位があったからだが、そのスイッチを入れると、猫のぬいぐるみは素っ頓狂な声音で、聞こえた音声をおうむ返しする仕組みになっていて私とピーは驚いた。驚いたというよりは喧しくて我慢ならず、すぐに電池を取り出したため、それからはただの猫のぬいぐるみになった。

最初の頃は毎日のように2つのぬいぐるみを可愛がって遊んでいて、その遊び方はままごとの要領に近づいていた。それまで我家でこと子に愛されていたプーさんやスヌーピーやガーフィールドは、いずれもこと子と大して変わらない大きなぬいぐるみだったから、こと子はそれに、ギューと抱きついたりしてゴロゴロ一緒に転がったり、一緒に眠りに就いたり、そういう愛され方だったのだ。ところが、ふと気づくとクマさんとニャンニャが向かい合わせで見つめ合っているように置かれていたり、仲良くご飯を与えられていたり、明らかに魂を吹き込まれ、生命を与えられたかのような遊び方に変わっていたのだ。ちょっとした変化だが育てている側からするとビックリするし、ジーンとする。まだまだ思うようにいかないとすぐに泣き出すこと子が、ぬいぐるみに母性を発揮し始めたのである。

クマさんとニャンニャは家で遊ぶだけでは飽き足らず、最初の頃は、お出かけのたびにかならずこと子が「一緒に行く!」と言い張って、2人(匹)を連れて行かないと納得しない時期もあった。ピーさんが、落とすから気をつけて、と何度も何度も注意していたのを思い出すが、こと子は時には片手で誰かの手を握り、反対の手を肘から曲げて、2人を並べて、胸と腕で器用に挟みながら慎重に歩いたりしていて可笑しかった。

その白いクマのぬいぐるみはお腹のあたりに、綿の入った赤いハートのクッションを両手で抱えている。ハートには「LOVE」と刺繍されており、顔もまたいかにも子どもが可愛がりそうな愛らしいそれを備えている。

一方、電池式の猫のぬいぐるみは茶トラ模様で、右目と左目の位置が対象じゃない。対象じゃなくても可愛いものは可愛いかもしれないが、この猫は大目に見ても可愛いとは言い難い。むしろ不細工、という言葉がぴったりのような気がする。

しかししかし、それでもこと子がその猫のぬいぐるみを執拗に可愛がるので私は段々とその猫の不細工なぬいぐるみに愛着が湧いてきてしまった。そして今では単純な愛情へと変わり、不細工なだけに余計に積もってしまったかのようなその猫のぬいぐるみへの愛情に自分自身がハッとしてしまう今日この頃である。

バンドマンに憧れて 第29話 アクセル飲酒運転で骨折

赤い疑惑が「東京サバンナ」をリリースした当時、数少ない友達バンドとして親交を深めていたのがWE ARE(後にWE ARE!と名前を改める)というバンドだった。彼らのライブを武蔵境のSTATTOというライブハウスで観た時、ボーカルの周平はminutemenという私が最も好きだったUSHCのバンドTシャツを着ていた。当時交流のあった同世代のHC系バンドの中でも、minutemenの話で盛り上がれるバンドは他にほとんどいなかった。

彼らのライブは完成度も高く、また彼らにしか出せないであろう抒情的な雰囲気もあって私は気に入ってすぐに話しかけたのだ。話してみると彼らは東村山の高校の同級生で結成されていて、私の地元田無とも近く、育った環境が近かったこと、またレスザンTVやSSTなど音楽の趣味も、また映画や文学の趣味なんかも近くてすぐに仲良くなった。

WE AREの楽曲は日本語の文学的薫りを多分に孕んで、またメロディーもキャッチーだったので、私も周りの連中も彼らはブッチャーズのようなビッグなバンドになるんじゃないか、という期待と羨望の眼差しを向けていた(実際数年後ブッチャーズの吉村さんにひどく気に入られたのだ)。WE AREとは数カ所のライブハウスやスタジオで共同企画イベントをやったり、後年discharming manのエビナさんの企画で、一緒に北海道にツアーに行ったりもした。当時圧倒的な文学センスとグルーヴセンスでイースタン・ユースにフックアップされて人気を博していたfOULというバンドに心酔していた点も赤い疑惑とWE AREは共通していた。

その頃まで仲良くしていたHC界隈のバンドでWE AREのように、曲調は捻っていても日本語詞で勝負してるバンドは他になかったので、私は周平はきっと売れたい願望があるのだろうと思い、同士をみつけたという気持ちで1度腹を割って話してみようと渋谷のマックでサシで話をした。

私はストレートに「WE AREは売れたくないの?」と聞いたのだ。これはパンクスの間で「売れたい」ということを表明するのはダサいことだ、という共通認識があったため、私はあまり表に「売れたい」ということを漏らしてこなかったが、彼なら分かってもらえるんじゃないか、と思って聞いたのだ。すると周平はきっぱり「いや、そういうのはないですね…」と迷いなくそう答えるので私は調子が狂った。何故みんな商業的成功を目標にしないのか…。

私は期待していた答えが導き出せず困惑したが、周平とはそれ以降そういう野暮な話しはしたことがなく、WE AREとも以降音楽スタイルの変遷もあり、少しずつ距離ができていった(WE AREのベーシストOJとはその後深い付き合いになるのだが…)。

その頃、対バンで知り合ったバンドでドブロクという、これも日本語詞ロック(恐らく英語で歌うインディーズバンドが多かった当時の状況から生まれた言葉だろう。当時サンボマスターというバンドがその形容で爆発的人気を得てメジャーになった)のバンドがいた。彼らはパンクHC界隈とは無縁だったこともあり、いい曲作って売れたい、という欲望が見え隠れしていたし、むしろ、それはバンドマンにとって真っ当な姿にも見えて、頑張ってる姿が健気で素敵にみえたし、人懐こい連中だった。

そのドブロクが赤い疑惑のこと、そして私たちのパーソナリティーのことをエラく気に入ってくれて、以降何度かライブに誘ってくれた。そして、そういう流れで一緒に関西ツアーに行こう、というお誘いをもらうにいたった。我々はアメリカのパンクやインディーシーンの影響を強く受けてたので、バンドの成功には必ずツアーが欠かせないと思っていたが、ツテがなくてそれまでツアーとは無縁だったのだ。

しかし、このツアーの直前に事件が起きた。いや、正確に言うと事件ではなく、事故。いや事故というよりただの自爆なのだ…。

ツアーを数週間前にしたとある日、私は当時付き合ってた彼女を誘って大井町に原付きで出かけた。大井町に変な酒屋があって、そこでは店頭で酒が飲めて、面白い雰囲気なんだ、と私は彼女に説明していた。私はそういう店を角打ちというのだと、当時は知らなかった。

そもそも酒を飲みに原付きで繰り出してるという時点で大バカ者であるが、私と彼女はその店でビールを飲み、そこに屯する酩酊オヤジ達と楽しく語らった。

もともと酒が飲めるクチではないから、飲んだといってもビール1、2本だったはずで、時刻は夕刻、私と彼女はまた原付きにまたがって途中で別れた。確か彼女は松陰神社前の自宅に帰ったか用事があったかで別々の道だった。別れる時彼女が、眠そうにして運転してる私に「ちょっと、しっかり運転してよ!」と言ってたのを覚えている。

私は酒が弱いだけでなく、ちょっと飲んだだけで眠くなってしまうのであるが、そういうことを理性的に判断せずにその日は飲酒運転で環七を北上していた。案の定、睡魔に襲われていた。コンビニでもどこでも停車して休めばいいものの、私は運転を続けた。次の瞬間、ふと眼を開けると三車線1番左レーンを走っていた私の目の前に、路肩寄せで紺のワゴン車が停まっていた。認識した時既に遅く、突撃しそうになるのを何とかかわそうとハンドルを右に切ったがバランスを取ろうとしたと思われる左足のスネをしたたかにワゴン車の右後方部角にぶつけてしまった…。

ゴンッ、と鈍い音がしたのと同時に左足の激痛を感じて私は原付きを左の路肩の方に寄せて停めた。ハンパじゃない痛みに全身をよじらせながらも、私は車に人が乗っているかどうかを確認したが誰も乗っていなかった。そして自分のスネを強打したであろう車体の右後方部を軽く確認し、目立ったキズがないことが分かるとすぐさま原付きに跨り、その場を去った。社会的自覚というものがほとんどなかった私は事故をなかったことにしなければならなかった。

西荻の自宅まで帰る道すがら激痛はなかなか治らなかった。家に戻って改めて患部を見ると早くも大きく膨れ上がっていた。しかし、それでも一応歩けるのだから骨は折れてない、ただの打撲だろうと思いこませた。病院嫌いの萌芽をみせていたこの時期、私は「病院に行くほどじゃない」と思い込む必要があった。

2日、3日と経っても、腫れは治らず、強打したスネ部分を中心に、膝から下が全体的に膨れているように見えて妙な気分になった。しかし歩けるのでバイトに通い続けたが4日、5日と経るウチに今度は晴れ上がった部位が内出血で赤紫色になり始め、その色はどんどん足の甲の方へ広がっていった。そして遂に歩くと膝の下から足の甲にかけて、チャポチャポと皮下が蠕動するように感じられるようになり、さすがに怖くなってきた。

ちょうどそのタイミングで赤い疑惑のスタジオがあり、夏だったので短パンでスタジオに行くと、クラッチとブレーキーが私の足の異変に気付いて、
「ちょっと、それヤバくない?今すぐ病院行った方がいいよ」
どちらからともなくそう言うのだ。私は言われた途端に不安が爆発したような気持ちになって、
「やっぱ、コレヤバいよね?だよね…」
練習は中止。すぐさまタクシーで、救急に駆け込んだ。対応してくれた女医は私の足を見て、決まり文句のように、何でもっと早く病院に来なかったんですか、と言った。そして、レントゲンを撮って、
「スネを複雑骨折していて、そのキズが内出血になり、血が止まらずにスネから下に血の膿が足の甲にかけて流れていって溜まってしまってます。少し遅ければ壊疽していたかもしれません。」
と叱りつけるように私に言った。
「でも今から手術して血の膿を管から吸い上げれば大丈夫ですから…」

壊疽?壊疽って足が腐って切断しなきゃいけないヤツでは…?一瞬気が遠くなりそうだったが、もしスタジオ練習の予定がなく、もう何日か放っておいたら私は足をなくしてしまっていたのかもしれない…。すぐに病院に行けと言ってくれたメンバーに感謝してもしきれぬ気持ちと、何とも間抜けな自分に呆れる気持ちで頭がクラクラした。

それから私は1週間ほど入院しなければならず、楽しみにしていた関西ツアーは出演キャンセルせざるを得なくなった。更に入院費用が払えず、強がって独立をアピールしていた親に借金しなければならなくなった。もちろん、飲酒運転して怪我した経緯は伏せて、病院や親や保険屋には、運転ミスでスネを電柱にぶつけた供述をしたりしなければならず、なんとも不甲斐ない気持ちでいっぱいだった。

ちなみにこの顛末の中で作ったのが「バカに塗り薬」という初期の名曲である(自分で言うな)。自分のバカさ加減に辟易し、親に対して潰れた面目と、鬱屈した気持ちを2ビートのハードコア風な曲調にぶち込んだ。ちなみに居眠り運転で事故ったのはこの時が最後ではないのだが…。その辺のことはまた後記に譲りたいと思う。

アクセルの意気地記 第16話 こと子2歳になる

こと子は先日2歳になった。生まれてからこれまでの時間を10回繰り返したらもう20歳になると思うと恐ろしい。

ともあれ、こと子の身体は単純に生まれた時の2倍くらいの大きさになっている気がする。ピーさんとの間にちょこんと寝ていた時の大きさを思い出すとほぼ倍になってしまったようだ。

大きくなってくれて嬉しいが、大きくなってくれたおかげで私やピーが寝るスペースが徐々に削られていくのはなかなか恐ろしい。そのうち布団を分けなければならなくなるんだろうが、今のところ2枚の敷布団に川の字で寝ている。

川の字で寝る家族を私はどこかで憧れていたようなところがあって、これは未だに面白い。赤ちゃんの頃は赤ちゃん専用の布団に乗せて私とピーの布団がその両脇に並んでいたのだが、部屋も狭いし、こと子が人間らしくなって、もう親の寝返りくらいじゃ潰れないようになってからは、また赤ちゃん専用の布団を退けて私とピーの並べた布団にどうにかして3人で寝るようになった。

何が面白いのかよく分からないけど、1番最後に寝る私が寝室に入ると、こと子が真横になっていることがよくあって、私はどの隙間に寝ようかな、と思う。この辺が面白いような気がするのだが、あまりに酷い時はこと子の背中と首あたりにサッと手を差し込んで持ち上げ、すかさず川の字になるようにこと子を動かし、そして寝る。先日は私が寝る時には川の字が三の字になっていて、というか、私が最後の線になって三が完成するのであるが、それも面白い。そもそも三の字も違う方向から見たら川の字になってしまうのも面白い。

川とか三とかになっていれば平和であるが、ちょっと前までこと子の寝相は奔放で、気づくと布団からはみ出ていることがしょっちゅうだった。だから川にも三にもならないことがほとんどだったが、当のこと子はまるで確固たる意志のもと布団からはみ出ているように見えるので可笑しかった。

我が家は畳なので布団からはみ出て、畳に頭を擦り付けるようにして寝てることが多かったが、それが気持ちいいのだろうか。布団と押入れの間の狭い空間に落ち込んで寝てることもよくあった。整体的観点では幼児は寝相が悪いのが普通で、どんどん上へ上へ、要するに枕の方に向かって登っていくのは健康の証だそうで、私はそういうことを知っていたから何の心配もしないが、あまりにはみ出て哀れな時は、またサッと手を入れてこと子を布団に戻した。

そんなこんなで大きくなっていくこと子には最近流行りの遊びがいくつかあって、一緒に遊ぶ時は大体それらのパターンを繰り返すのである。その内の1つがブランである。これはこと子がそう命名したので私も同様にそう呼んでいるが、ブランブランとぶら下がるからブランである。

そもそもの始まりは近所の小さな公園にある鉄棒だったと私は睨んでいる。近所の公園の隅に3段に高さが異なる鉄棒があって、こと子を遊びに行かせると、ブランコ、滑り台と順に遊具で戯れ、最後に鉄棒のところへ向かう。初めは1番低い鉄棒でも手が届かなかったこと子だが、最近ようやく棒を掴めるようになった。そうすると、当然ぶら下がることになるのだが、こと子の場合、このぶら下がる行為に恐らく他の子ども以上にアツい何かを感じたらしく、以来この公園に来ると張り切って鉄棒にぶら下がりに行くことになり、ブランする〜、と言いながら実に楽しそうだ。

このブランは鉄棒を契機に、街中のあらゆるぶら下がれそうな高さの手すりなどに応用されるようになった。駅近のショッピングモールの階段の手すりや、駅の階段やエスカレーターの手すりを見つけると駆け寄ってぶら下がる。ぶら下がっている間は自由になった両の足を揃え、腹筋を使って前方に持ち上げてみせたり、大腿筋を使って後ろに反らせてみたり、体操選手のように自分の身体を試して遊んでいる。

何でこと子はぶら下がりにこれほど夢中になるのだろう、と考えていたら変なことを思い出した。私が小学生の頃のことだが、近所の市民グラウンドでスポーツ大会があり、私はおよそスポーツ大会のような類は嫌いなのだが、どうしてか、その時は参加していて、競技としては大変地味なぶら下がりに挑戦した。その時はどうにか出来るだけぶら下がってみたに過ぎないのだが、後で私の記録がその大会で1番になったのだ。

後にも先にもスポーツに類することで抜きん出た結果を残したのはこの時だけで、私は運動音痴で、短距離に関していえば学年でお尻を争う方だったし、陸上系のスピードを要するものは特に苦手で競わされるのは苦痛だった。球技や身体を動かすことはそれなりに好きだったのに、競わされることで私は体育が嫌いだ。

脱線したが、こと子のぶら下がり好きは私のぶら下がり実績と何か関係があるのかもしれない、と思っただけでそれ以上のことはない。ただスポーツ大会のぶら下がりで優勝したことをふと思い出したことが可笑しい。

また手すりがなくても、私に「ブランする〜」と言って万歳してくることがあるが、これは手を握ってこと子を持ち上げればいいのだ。よいしょー、よいしょーと、大体3回くらい繰り返すと私の上腕筋がどうかしてくるので、「もう疲れたよ!」とわざとらしく私はこと子に弱音を垂れる。

すると今度はこと子が手を引っ張ったまま後ろに倒れようとする。ともすると後頭部が地面につくくらいまで後ろに倒れる。腕を引っ張ってそれを支えてる私は倒れたこと子を引っ張り上げて元の立ち位置まで起き上がらせる。これが楽しいらしく、また後ろに倒れようとする。これを何回も繰り返すのだが、今度はヘルニア歴のある貧弱な私の腰が悲鳴をあげるので私は何回かやったら「もうダメだ〜」と逃げ出す。

ブランの他にこと子が最近ハマっているのがアルルである。ブランにしてもアルルにしても言葉の響きがいかにも幼児らしくて可愛い。

アルルは、男女が一緒に踊る時、男性が優しく掴んだ女性の手を挙げてクルっと回すヤツなんだけど、何ていうのかね。呼び方もルーツも分からないけどみんな知ってるあれね。こと子がそれをどこで覚えたかというと、数ヶ月前に連れて行った、父の友人が経営するメキシコ料理屋。そこではディナーに合わせてマリアチ楽団が、陽気で優雅なメキシコ民謡を披露することになってて、その演奏中に興が乗った客席の外国人カップルが立ち上がって急に踊り出した。

こと子は音楽に合わせてよく身体を動かすのだけど、その時も身体を動かしながら、こと子の視線はそのカップルの踊りに釘付けになってた。楽しそうに見てるな、と思ってたけど、たまたまそれを携帯でピーが撮影してたので、後になってこと子がその動画を選んで何度も見てた。何でアルルと言いだしたのか、恐らくその演奏か歌か、はたまたそのカップルの奇声だったのか、こと子にはアルルーという響きが一緒に記憶されたんだろう。

そういう経緯で「アルルする〜」と手を挙げてこと子が近寄ってくると私はこと子の両手を取り(こと子バージョンは両手を繋ぐ)、そのままクルッと右に回したり左に回したりしてやる。されるがまま回ること子はキャッキャと声を上げて喜んでいる。

バンドマンに憧れて 第28話 フリースタイルラップあるいは即興

私にヒップホップを教えてくれた友人のDは、私やクラッチがラップに興味を示し始めたのを察知すると、私達の前で自分で書いた詩をラップするようになっていた。インストの曲をステレオから流して彼は自作のリリックをビートに合わせてラップした。彼は読書家でボキャブラリーも多く、言葉選びのセンスもよかったので、私達は感心した。CDで漠然と聞くラップと違い、目の前の友達が書いた詩がその場でヒップホップになったので、おお、これがヒップホップかあ、と興奮した。そして私は一計を案じ、Dのラップを赤い疑惑の3人で伴奏する、ということにトライすることになった。

本場アメリカでは生バンドでラップするthe rootsというグループがいることもその時には知っていたので、これはかなりクールなことになるんじゃないか、と何度かスタジオに入った。しかしながらDはその後ラップを辞めてしまった。自分は表現者にはなれない、ということを言い残してラップを辞めてしまったのだ。詩がよかっただけに残念だったが、そのことをきっかけに今度は私もラップに挑戦してみようと思い始めたのだ。

頭韻、脚韻、頭やお尻やとにかくリズムに合わせた一定の箇所で母音を揃えればラップになる。私の感覚では、オヤジが家族の中でウケ狙いでかますサムい駄洒落と、韻を踏むのが本丸であるラップは大して違わなかった。ラップの場合重要なのはその駄洒落を音楽の中に落とし込むタイミングに尽きた。上手い下手は分からないが私はDとフリースタイルごっこのようなことをして遊んだりするようになっていた。

フリースタイルというのを知ったのもMSCや降神を教えてもらうのと同時だった。即興で、その時の思いつきでラップを組み立てていく、素人から見れば曲芸のようなものだが、これを仲間と集まって輪になってやるのがサイファーで、相手を決めてラップで対決するのがMCバトル、ということも同時に知った。今ではこのサイファーもMCバトルも市民権を得て高校生や中学生にも広まっているのは驚きである。あの頃はまだヒップホップは若干マニアックな音楽の一ジャンルだったのに。

丁度その頃、アメリカ映画の「フリースタイル」という、ヒップホップのフリースタイルにフォーカスをあてた作品が日本で上映されていて、私とクラッチはブリブリになって観に行ったものだ。映画に出てきた本場のMCバトルがかっこよすぎて、映画を見終わった後クラッチと2人で、これからはコレだな、とか言い合って、クラッチも珍しく興奮して、オレもフリースタイルやるよ、と私に宣言したりして…。

クラッチのフリースタイルはその後すぐに封印されることになったが、私はこのフリースタイル、いわゆる即興の世界に非常にインスパイアされた。とはいえヒップホップに縁がなかった私にサイファーをする友人が他にいたわけではなく、いつも通勤の往き帰りとか、当時勤めていたバイト先の配送のドライブ中なんかにフリースタイルラップの練習をしていた。

実は即興に興味を持った経緯には下地があった。学生時代に仲良くしてもらった鉄割アルバトロスケットのパンクユニットのライブに、赤い疑惑の前身バンドGUTSPOSEが呼ばれたことがあった。その時対バンで出ていたバンドが、素晴らしく美しい大人の音楽を演奏していて、私はそのバンドでギターを弾いていた小沢あきさんに心酔してしまった。

小沢あきさんのギターはクラシック、ジャズ、フラメンコ、現代音楽なんかを通過していて、即興でどんな音楽にも瞬時に伴奏をつけられるようなテクニックを伴っていた。しかもあきさんが演奏していたのはクラシックギターで、私の父が家で弾いていたものと同じ、ナイロン弦のギターで響きが懐かしく、丸くて気持ちよかった。一方対バンで出たGUTSPOSEはローファイパンクだったので私は何となく恥ずかしかったのだが、我々の演奏を当の小沢あきさんがエラく気に入ってくださったのだ。演奏が終わった私にあきさんは「お前らの曲、オリジナルなんだよな?」と質した。私が首肯すると、あきさんは私の手を強く握ってくれたのだった。

それ以来私はあきさんのギターのファンになり、あきさんの参加しているアフロオーケストラのようなバンドや、ソロや、即興のライブに足繁く通った。私はあきさんにギターを教えてもらったのではないが、あきさんのギターを聴き続けていれば即興ギター演奏ができるようになるんじゃないかと思い込んでいた。しかし、絶対音感もない、その上ある程度に音痴で、しかもギターの練習が嫌い、という私に即興演奏の道は険しく、結局諦めてしまった。

たまに、あきさんの即興音楽仲間の飲み会に呼んでもらって遊びに行ったこともあった。集まっているミュージシャンの中には音楽で喰っている敏腕の人もいたし、かなり世代が上の人も多く、彼女や奥さんも集まってきていた。その雰囲気は、野郎ばかりでいつも集まって飲んだり吸ったりしてダベっていた私の交流とは次元の違う温かさがあった。

そういう席で、依頼仕事に柔軟に対応できる人や、それが嫌でできない人、楽器がバカみたいに上手くても、喰える人、喰えない人がいる現実を知ったし、「いいよな、お前は演奏でメシが喰えてんだから」と僻みなのか嫌味なのか冗談なのか、そういう会話があったりして、「音楽で喰えること」を至上の目標としていた当時の私には刺激が大きかった。

また、ある時、私は酒の席であきさんに悩みを打ち明けたことがあった。私がやっている赤い疑惑に関して、自分はバイトでチャンスを掴むまで頑張るつもりだが、メンバーをその道連れにしていいのだろうか、という弱気で情けない相談だ。私は根拠のない自信で、いつか音楽でどうにかできるようになるだろう、と考えていたが、もしそれがうまく行かなかった場合、メンバーの人生はどうなんだろう…。

バイトでバンドをやっているのは楽しさとスリルが伴うことだが、そのまま歳を重ねていって音楽による報酬がなかった時、メンバーの人生を保障するものは何もない、ということも私は分かっていた。しかし、そんなことを心配していても解決策などない。怖いならバンドをやめればいいだけだ。あきさんもそんな相談をされて困ったことだろう。ただ、私は音楽で喰う喰わない問題が、身近にシリアスな問題として存在しているようだったあきさんに、その辺のことを聞いてもらいたかっただけだったと思う。

いくら音楽が死ぬほど好きでも、ミュージシャンシップの違いで喰えるか喰えないかは変わってくる…。その中でも小沢あきさんは拘りが強く、金銭よりも自分の音楽をひたすら追い求めているピュアさに溢れていて私はそんなあきさんの姿にかっこよさを見出していた。

あきさん周りの飲み会で、みんなで酒を飲んで興が乗ってくると、楽器を持つ人、太鼓やらその辺のものを叩く人が出てきて、俄かに即興大演奏会が始まる。私も何か叩いたりして混ざっていたが、こんな時に自分も存在感のある即興ができればいいのに、と密かに考えて、地団駄踏んでいた。

そんな時に出会ったのがフリースタイルラップだった。これなら自分の個性を生かせる即興ができるのかもしれない、と考えていた。

その頃、MSCが始めたMCバトルがヒップホップ界隈で注目を集め始めていた。私がラップを始めたことを知った友人が、MCバトルへの挑戦を薦めてくれたこともあったが、大して自信もなかったし、逡巡して結局やらなかった。しかし、その後しばらくライブMCの時、気分次第でフリースタイルラップに挑戦することは何度もあった。韻が踏めなくて噛んでしまうことばかりだったが、予定調和じゃないスリルが生まれて面白かった。

結局、現在に至るまでフリースタイルラップをやり続けたわけでもなく、ヒップホップを聴き続けたわけでもないのだが、この時期にラップの練習をした経験は後にワールドミュージックのDJ業をやり出した頃に、手持ち無沙汰でやり始めたDJのサイドMCの時なんかにも生かされた。何の生産性も残さない無駄な努力は多いものだが、気づいたら武器になっていた、という努力も必ず存在する。ラップは私にとって無駄にならなかった努力であり遊びのひとつである。
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アクセル長尾

Author:アクセル長尾
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