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合縁奇縁 ある友人との交歓

縁は異なもの味なもの、ということわざがあることを、こと子が保育園から支給されたカルタで遊んでる時に知った。縁は不思議である、という意味であると思ったが、どうもこのことわざは男女間の縁のみを指す表現だそうた。

検索すると、他に縁は奇なり、合縁奇縁なぞという表現が出てくる。まあ、どれでもよいのだが、縁は不思議である、という事実は、歳を取れば取るほどに明らかになってくる。皆さんもそうじゃないだろうか。私はまだ40代だが、この先50、60と積み重ねていくほどにその思いは確信へと膨らんでいくのだろう。

私が父と母の子として生まれてきたこと、赤い疑惑という3ピースのバンドを組んだこと、結婚して子どもが生まれたこと、今小川町に移住して田舎暮らしを堪能していること。辿ってゆけば沢山の人との出会いと縁から出来上がっている。

先日、私が20代の頃に命懸けで取り組んでいたロックバンド、赤い疑惑のワンマンライブが、移住してきた小川町で開催された。小川町に来てから3年弱、その間に多くの友人ができたが、その友人の多くは私が謎のロックバンドのボーカルの人であるとは、私がそのライブのチラシを渡すまで知らなかった。だから私は、(ついにオレのもう一つの顔を見せる時が来たのだ)と、意気揚々と当日を迎えたんだ。

私は、普段告知に利用しているSNSで、今回のライブ告知は済ませていたが、カルトバンド赤い疑惑が小川町でライブをやったとして、東京など遠方からお客さんが来るとは思っていなかった(茨城から来た、不思議な縁で繋がったキャプテン家族以外は)。

17時に会場がオープンし、お客さんが押し寄せてきたらどうしよう、という不安は杞憂に終わり、1番に来たニシカワくんが1人退屈そうに開演を待つような状態で、私はハラハラし始めた。しかし開演10分前くらいからボチボチと、直前になると続々と入り始め、次の瞬間、数年ぶりの顔が3人、エントランスに現れたではないか。

合縁奇縁、彼らは赤い疑惑のメンバーが出会った大学時代の、私が創設した文化系サークルの友人である。まさか東京からわざわざやってくるとは思わない訳で、マジかよ、と驚く私に、したり顔の腐れ縁の面々。
「何だよ、来るなら言ってよ!」
「言わねーよ!言わねー方が盛り上がるだろ」
あの頃の、戯れるような、バカバカしい会話のノリが一瞬にして蘇る。

そして彼らと久闊を叙しているところにまた数年ぶりの2人がエントランスに現れたではないか。いつも通り派手な色使いの服を身にまとった2人は、さも来て当然でしょ、というような済ました顔で、来たよ、と言ってくれる。アサくんとヒトミちゃん。2人と仲良くなったのはもう15年以上前だ。

アサくんと初めて話したのは、新宿のライブハウスで彼が当時やっていたバンドと対バンした時だ。20代前半で生意気ざかりだった頃の当時の私は、自分のバンドのクオリティーのことは棚に上げて、周囲のバンドを見下しがちだった。アサくんのバンドを、「大したことないな」と思って、このバンドとは縁がないだろう、くらいに思っていたのに、バンドリーダー然とした彼の方から話しかけてきたのだ。

「赤い疑惑、ナメてたけど、ライブ見てすげーよかったよ」
後でアサくんが少し歳上なのを知ったが、どこか上から目線で、だけど親しみを込めて私に伝えてくるのだ。雰囲気的にミーハーで軽い印象の彼だったが、自分のバンドのことを褒められると急に私も相好を崩し、またその軽い、テキトーそうな彼のキャラクターのポジティブな明るさに、自然と私の心が開いていくのが分かった。

最初の出会いはそんな感じだったのだが、彼は当時ディスクユニオンのパンク部門で働いていたので、その後、赤い疑惑がCDをリリースする運びになった時は販促の協力を申し出てくれた。赤い疑惑がライブのオープニングでやっているお囃子(という名のアカペラ行進)を、ディスクユニオンの各店舗で披露しながらCDを売ろう、というのである。

目立ちたがり屋だった私は、面白いと思って快諾し、吉祥寺、浦和、池袋、立川、関内などなど、東京近郊に散らばったディスクユニオン各店舗を1日のリミットで電車を乗り継いで歌って回った。決して楽な道中ではなく、むしろ罰ゲーム的なしんどささえ感じてしまったし、その思いつきの企画でCDが沢山売れたか、というとどうも怪しいが、そんなバカな下らない企画を遊び感覚で本気で提案してくれて、一緒にドサ周りしてくれた彼に、私は次第に好感を抱くようになり、それから会うたびに親近感が深まっていった。

ヒトミちゃんはアサくんと私が知り合った頃からの彼のパートナーで、サバサバした、男子っぽい話し方など気の置けない感じで、仲睦まじい2人はいつも大体一緒だったので自然と2人セットで仲良くなっていった。2人ともいつも色彩溢れた洋服を着こなしていて目立つ存在なので、遠くからでもすぐに分かるのだった。

ヒトミちゃんは旅好きで、国内でも海外でも、お得なチケットを見つけるのを特技としており、ある時期から2人はしょっちゅう旅行に出ているのがSNSを見ていると分かった。アサくんが東南アジアの旅先で、現地の人達の屈託のない笑顔や、元気さを目の当たりにして感動していた。赤い疑惑の曲で、私が東南アジアの貧乏旅行をしていた時に感じた、似たような心境を歌った曲があるのだが、彼はアクセル(私の芸名)の歌ってたことが分かったよ、と言ってくれて嬉しかった。

彼とは311以降の自民政治に対しての反対運動においても気持ちを共感できる友達だったが、話してみると左翼的な気概が親から自然に受け継がれているようだった。原発事故以降、私は作る曲の大半が反体制的な内容になってしまったが、アサくんが当時やっていたバンドでも政府を揶揄する表現を使っていて、彼に対する信頼度は増した。

とはいえアサくんは持ち前の人柄で、常に愉快なお友達に囲まれている。私と特別に仲がいいわけじゃなく、どんな友人とでもあのキャラクターでよろしくやっている。

私が移住してから東京の友人との交流はほとんどなくなり、当然、赤い疑惑のワンマンライブに東京から友人が来るとは思わなかったところへ彼らが来てくれたのだから、どれだけ嬉しかったか、何となく分かってもらえるかな。

でここからが合縁奇縁、そうそう、縁とは不思議について、数ある例の中から今回はこのことを書きたかったんだ。

当日のライブのMCで、私は、田舎に移住して、その暮らしぶりがどれだけ私を幸せにしてくれているかを語っていた。移住後はそのことばかり考えていて、お客さんの前で何を語るか、となったとしてもそれ以外考えられないくらい私は田舎暮らしに没頭し、今や愛している。

それで、実は私は、今住んでいる中古家の裏手に聳える竹藪の山を買おうとしていて、そのことについてMCで話したんだ。私の夢は竹林に所狭しと生えた竹を間引きして風通しを改善し、徐々に落葉広葉樹を植えてその山全体を美しい森に変えたい、というものだ。

当夜のライブは、娘たちのお友達も沢山来てくれて、半分保育室の様相を呈し、温かい雰囲気の中、大盛況のうちに終えることができた。そしてライブ後にアサくんと話しているこんなことを言うのだった。
「前にも話したかもしれないんだけど、オレの義父が隣のときがわの土地を買って広葉樹を植えようとしてるんだよ。タイミングあったら今度会わせたいな」

ときがわというのは小川町に隣接した町で小川町に負けず劣らず、美しい里山が魅力で移住者も数多く住んでいる田舎町だ。車でも15分くらいで行けてしまう場所で親近感すら持っている。そんな場所にアサくんの親戚が山買って山小屋建てて、さらに広葉樹を植樹しようとしている…。

ライブで田舎暮らしのことを話しても関心を持たれることは今までほとんどなかったので、今回のアサくんからの縁は刺激的だった。私が落葉広葉樹、というフレーズを発しなかったら、アサくんは私にそんなことは言わなかっただろう。この縁が次にどんな展開をもたらすのか、もたらさないのか、私には分からないが、とにかく繋がりの不思議さに身を委ねながら私は今日も生きているのである。

脱サラリーマン物語(後後編)

30になるまでフリーターとして東京砂漠を徘徊し、30代に突入し、アルバイト、派遣社員、正社員と、労働形態を選びながら家庭を持つことに四苦八苦。そして40歳を越えて都心部から埼玉の片田舎に移住。会社員を辞め、植木屋の見習いとして新たな道に立った私は、奥さんの希望とタイミングが相乗して木造キッチンカー制作に着手することとなっていった。

中学生の時に父から教わった日用大工は私に木工への興味を駆り立てた。それは大人になり社会生活を送る中でも持続して、たまに生活空間に合う棚を作るくらいのことはやっていた。ただ東京の手狭な住環境の中での日用大工は、作業スペース確保の面でも、電動工具使用時の近隣に対する騒音問題の面でもハードルがかなり高いもので、木材の裁断はホームセンターでやってもらうのが基本だった。

ところが、私の買った田舎家は隣家まで2、30mは離れているので、電動工具をバリバリ鳴らしても何の問題もなかった。私はすかさず電動ドライバー、丸ノコ、サンダーなど、安い中古品で買い揃えた。おかげで中古家のリフォームで大活躍したそれらを頼りに、私の木製キッチンカー造りが始まった。

キッチンカー制作の素人DIYのお手本は、ネットで見つけた軽トラキャンパーによるブログがメインとなった。角材を組み立てることで四方上下の小屋の骨組みを作り、骨の隙間に断熱材を押し込む。骨組みを両側から合板で挟めばキッチンの箱ができる。ピーさんの指定したスケッチをもとに作業を進め、初めてながら戸を作り、窓の桟を作り、彼女が拘ってヤフオクでゲットしたらしい昭和レトロな建具が引き戸として開閉できるようにした。

作業は週に一度か二度の休日か、仕事から帰ってきて夕飯、風呂、寝かしつけを済ませた後の夜半に取り組むしかなかった。マイペースながら少し完成形が見えてきたところで、保健所に行き、営業許可に必要な設備要項などを確認した。そこでたまたま「5月中に営業許可を取らないと6月以降は、許可要項が厳しくなります」と、親切にも5月中に営業許可を取ることが吉であると教えてもらった。

5月中に、となるとあと1ヶ月しかない。今のペースだと甘く見積もっても完成は間に合わなさそうだ。その上植木屋の仕事はほとんど休みがない状況だった。仮に営業許可申請が6月以降になると、キッチンに搭載が義務付けられる上下水道タンクの容量を、倍の80Lずつにしなければならず、それは木工作業をする上で非常に面倒が増えることになる…。

その頃、半年以上見習いとしてくっついていたM親方の仕事の進め方ややり方に少なからぬ疑問や違和感を持ち始めていた。休みは少ないし、このまま植木屋やってたらキッチンカーを5月中に完成させるのは無理だ。どうなるか分からぬが、私は親方に正直な気持ちを伝えたところ、結果的に私は植木屋仕事から離れることになってしまった。

しかし、私の頭は何とかキッチンカーの営業許可を5月中に取る、ということに支配されていたので、これからやってくる経済的不安定はうっちゃって、とにかくキッチンカー造りに全勢力を注ぎ込んだ。後半のトタン板の屋根造りや上下水道設備、虫除けのための網戸設置などにかなり難航はしたものの、何とかカタチにして5月末に保健所に完成したものを持ち込むところまで漕ぎ着けた。

しかし、保健所の担当職員に、私の作った上水道があまりに水圧が弱すぎると無情にも判定され出直しを食らった。泣きそうになりながらもう一踏ん張り。ようやく営業許可を出してもらったのは5/31であった…。そして今度は個人事業主としてデビューするために税務署に事業者登録に行った。屋号はピンポン商会。不思議な気持ちだったが私の肩書きはこの時より憧れの「自営業者」となったのだった。つまり、気付いたら私は脱サラを果たしていた。

それからピンポン飯店と名乗る風変わりなキッチンカーの営業が実際に始まるまで1ヶ月。その間私は、右も左も分かってない飲食業(もちろんフリーター時代の飲食経験値はあったが…)でこの先どれほどの利益が出せるのか出せないのか、ハッキリ言って自信はゼロだったので、すかさず日雇いバイトの会社に登録をした。

植木屋は離れたものの、私は植木屋の仕事自体に不満はほとんどなかったし、むしろやり甲斐と爽快感を等しく味わっていたので、できることなら植木屋に戻りたい気持ちもあったのだが、植木屋求人はほぼ週6出勤の厳しい条件が前提だった。自然派とはいえ土木建設業の一端でもある職人仕事に変わりなく、それが当然だとも思えた。とはいえ、人情のほとんど介在しない日雇い労働を続ける気持ちも持てなかったので、私は友人知人に無職アピールをし、何か仕事を融通してもらう必要があった。

7月からキッチンカーでの出店業が始まると生活スタイルがそれに合わせたものに変わらざるを得ず、常にバタバタと落ち着きのない雰囲気に突入していった。私達夫婦の出店スタイルは利益追求型をそもそも見据えていなかったため、例え2人で働いて、私が日雇いで稼ぐ薄給より少なかったとしても気にせず続けた。そのため絶望的な時も度々あったが、ピーさんのアジア料理への飽くなき探求熱が実を結んで、段々と固定客や常連が現れ始め、移住した小川町内でも、特に移住者コミュニティーの間ではすぐに浸透したようだった。

そんな状況を受けて、私もピンポン飯店を生業に…、ということを考えなかった訳ではないが、植木屋として1日働いて得られるお金と、あーだこーだ言いながら出店して1日頑張って得られるお金とを天秤にかけると、キッチンカー一本で生きることは現実的じゃない、という結論は早いウチに私の中で固まっていた。ピンポン飯店はピーさんの情熱が注げる仕事として、彼女の満足につながれば私はよかった。と同時に自分は自分で何か収入源を確保する必要性を感じていた。

ピンポン飯店の開業と並行して、私は登録制の日雇い労働、知人のリフォーム屋さんのお手伝い、知的障害者のお泊まり介助、酒蔵での蔵人仕事、などなど、オレは百姓なんだ、と嘯きながらいろんな仕事を掛け持ちして、心の奥に潜むサバイバル欲を満たしていた。しかし、逆に忙しくなってしまい、家族から不満が出てきたので、拘束時間の長いお泊まり介助の仕事は間もなく止した。酒蔵の蔵人仕事も年末約2ヶ月の期間限定だった。

翌年の1月からの収入をどうしよう。いろんな仕事をやるのもいいけど、でもやっぱり植木屋仕事が面白かったなぁ…。考えた挙句、草刈りとか簡単な剪定ならある程度できるようになったし、よし、勢いで名刺作っちゃえ、ということで身の程知らずにピンポン飯店のお客さんや、知り合った人になりふり構わず配ってみた。すると、その名刺を見たあるお客さんが、ウチに来てくれる植木屋の親方さんが手伝いできる人探してたわよ、と情報をくださった。

ほどなくその親方から着信があった。私はキャリア一年足らずなのに名刺を作って喧伝してたことが途端に恥ずかしくなったが、時間あるならウチで働くか、と提案してくださった。私としては不安なまま名刺営業して必死で自分の仕事を取るより、テクニックも教えてもらえるだろう親方の下でお手伝いで働かせてもらえた方が断然よかった。一つ懸念していたことは、キッチンカーをやってることもあるし、できても週に3日ほどだろう、ということだったが、親方は、それでもいいよ、やってみるか、という有難いお言葉。私は渡に船だ、と頭を下げて弟子入りのようなカタチになった。

それから週に3日は植木屋さん、2日はキッチンカー、ご縁があれば個人でいただいた庭仕事をやる、そんなスタイルでどうにか必要最低限の稼ぎを生み出すことができるようになった。今までのアルバイトや正社員とは違い、私は被雇用者ではない、という満足感に包まれるようになった。自営業やフリーで働いている人はこんなに自由な気分なのか…。40歳を過ぎて私の新しい人生が始まったのだ。風は爽やかに、陽は温かに。私はいつまでも生きている興奮を隠せないのだった。(完)

脱サラリーマン物語(後前編)

急展開で田舎の中古家をローンで購入した直後、2022年4月1日、政府がコロナウィルス蔓延を受けて「緊急事態宣言」なるものを発表し、日本国内の移動が極度に制限され、外出時のマスク着用などが厳格に呼びかけられた。

政府による、そんなヘンテコな行動制限を受けたことは生まれて初めてのことだったが、この宣言を受けて国内の会社組織は、社員の通勤を規制して減らす、または自宅勤務を励行していくようになった。そしてこのような政府による規制は世界規模で同時多発的に進められ、当然飛行機による出入国もシャットアウトされた。

私が勤めていたシェアハウス管理会社はインバウンド、つまり外国人を相手にした商売だったので、かなりの被害を被ることになった。海外への行き来ができなくなったことで新規のお客さんはゼロとなり、その時まで滞在していたお客さんは逆に日本から出られなくなった。会社の売上げは日本から出られなくなったお客さんの宿泊費だけとなり、先行きは霧の中だった。

そして会社は、お客が減って仕事も減ったので、ちょうどいい、世間並に正社員の勤務日数を半分ほどに減らした。緊急事態宣言が発令されていたので、政府は、喫緊の用事以外ステイホーム、つまり、家で静かにしてろ、と警告していたが、バカヤロウ、と私はそんなことを無視して、ボーナス的に発生した休日は、移住先の小川町に通って、新居のリフォーム作業にあてられたので、緊急事態宣言は私にはかえってラッキーだったのかもしれない。

購入した家での滞在時間は、むき出しの自然と家を買った高揚感で常に楽しかったが、会社出勤日の勤務中は常に不穏な空気感に苛まれた。経営陣はイライラしている。いつも通り外回りに出ると都内の電車はガラガラ。すれ違う全ての人がマスクをしている。何だか人の視線が今までと違う気がする。みんながそれぞれ警戒感を携えているような…。

そしてトラブルが発生した。グループ会社の会長、つまり1番偉い人、利益至上主義で守銭奴のクソおじいさんのパワハラが炸裂したのだ。その、クソおじいさんのパワハラは有名で、そのせいで彼のグループ会社社員は常に激しい入れ替わりを繰り返していたほどだ。

勤めていた会社の中でも、私が所属していたメンテナンス部は比較的、その会長から目をつけられ辛い部署だった(標的にされるのは大体営業部だった)ので、私なども油断していたほどなのだが、コロナショックで頭に血が昇った会長に突如呼び出され、理不尽な因縁で激しく罵られた。私はそこでプツっと何かが弾けるのが分かった。もうこんな感じなら、いっそこの会社を辞めてしまおうかな…。

そこから私の胸中は激しく揺れ始めていた。実際、小川町から新宿までの通勤時間は2時間弱とタフなものだった。これじゃ子育てもピーさんにストレスかけるしな…、田舎暮らしが期待した以上に最高だから、思い切って地元でできる仕事を探すか…。そうは言ってもな、さて、薄給だけど何とか生活できる収入を得ていたサラリーマンを辞めたところで、オレに何ができるか…。ホントに家族を養っていけるのかおまえさん…。

ピーさんに、思い切って今の仕事辞めようと思う、と伝えたところ、案外あっさり、いいんじゃない、という感じだった。私は不安ではあったが、行け、行け、という天の声に従って会社に退職願いを提出した。

遂に退勤日も決まった。私はこの時はまだ、正社員という生活スタイルを諦めていなかったので、小川町の正社員の求人に応募したり、車で通えそうなエリアの求人もチェックしていたが、断られたりうまくいかなかった。

そんな中、東京時代のとある友人が移住したなら植木屋がいいよ、とSNSでアドバイスをくれた。そうか、植木屋か。植木屋さん、それまでは、その職業のことはもちろん知っていたが、まさか、自分がやるなどということは考えもしなかった職業だ。しかし、私がその頃親しくなった先輩バンドマンにもラスタの植木屋さんがいて、私は彼の野良仕事ぶりを自分の目で見る機会があったのだが、それがとてもかっこよかった。軽トラ1台で1人親方として自営で働いているようだった。

どうせ、脱サラするのだから…。植木屋に興味を持ったのはそれだけではなかった。中古で購入した私の古民家の敷地は約200坪と結構デカく、こまめに管理しないとボウボウの藪になってしまうことが素人目にも予想できた。敷地内には梅、栗、柿、ユスラウメなどの実を食べられる木や、桜、楓、ツバキ、桃など、愛で甲斐のある植木も結構植っている。

せっかく田舎暮らしを堪能するなら庭木の管理も自分でできたら…。私の植木屋転職熱はジワジワと高まっていき、遂に小川町で募集をかけている植木屋に応募してみた。植木屋なら髭なんかも文句は言われないだろう…。

初心者歓迎、というコピーを頼りにネットで応募すると、すぐに電話がかかってきて、一度会えますか、ということになった。驚いたのは履歴書は要らないです、と言われたことと、私がオタクまで行きますから、と先方に言われたことだ。知り合いのツテでバイトした時以来、履歴書なし、などという面接は初めてで、私はかなり興奮した。何しろ長いフリーター時代や、転職を繰り返していた私にとって履歴書を、ましてや職務経歴書など、そういった自己PRのための書類を書くのが心底嫌いだったのだ。

私が面接地に赴かず、向こうでこちらに来てくれるという面接も初めてだったが、Mさんという親方は軽トラでやってきて、仕事の面接は、家の前の路上で行われた。何を聞かれて何を答えたかも覚えてない。とにかく、じゃあとりあえずまずやってみましょうか、ということになり、私はその日から植木屋見習いとなった。

初出勤の現場は隣町のとある空き地の草刈りだった。草刈り機は田舎暮らしに必須、と聞いていたので既に持っているものがあった。しかし、草刈りと言ってもその空き地の草は、おそらく一年以上放置していたのだろう、自分の背丈よりデカい雑草が所狭しと生えていて、草刈りというより開拓という感じだ。

私は都会から来たヘタレと思われたくない一心で無我夢中で草刈り機を振り回していたが、何と藪蚊の数が物凄く、グローブと長袖の間にささやかに顔を出した腕の皮膚や、グローブの上からも、ヤツらの集中放火にあい、かゆいの何の、初日じゃなければ耐えられなかったかもしれない。秋口であったが汗だくで働いた。大変といえばむちゃくちゃ大変な仕事だが、終わった後の達成感にどこかときめくところがあった。

今までこんなにフルで身体を動かす仕事をしたことがなかったが、仕事後の疲労感はデスクワークの疲労感とは別の次元で私はかえって元気になっていくような気がした。

頑張っているうちにいろんなお宅の庭木を刈り込んだり剪定するようになり、チェーンソーを使った伐採なんかも覚えて面白みも出てきた。木を切ることがこんなに楽しいことなのか…。私は日々汗を流し新たな境地にいる自分を発見した。

植木屋の仕事の面白みを確かめていた頃、ピーさん(奥さん)のキッチンカーの話しが浮上した。軽トラの荷台に木造のキッチンを乗せてたこ焼き屋をやっていたおっちゃんからヒントを得た。軽トラを買えば植木屋でも使えるし…。

移住をして、脱サラして、というような新たな世界への足どりが、私を変に鼓舞し、新たなチャレンジを更に促してくるようだった。そしてボロボロの軽トラを15万円でゲットし、移住後に勢いづいたDIYのモチベーションを元に、夢のキッチンカー作りに舵を切ったのだった。(後後編に続く)

脱サラリーマン物語(中編)

さて、私のロックンローラーとしての奮闘は、アルバイトを転々としながらも続けられた。時給制の貧乏な一人暮らしは、私の貧乏好奇心のせいで逞しく楽しく続いた(フリーターでも生き生き楽しく生きられる、という姿を私は身体を張って証明せねばならなかった…)。しかし、20代に付き合っていた女性とのあれこれで、私がフリーターで居続けることに外的圧力がかかった。

母を早く亡くした私は、俄に家族や子どもというものに憧れを抱き始めた。人生は一度きり、家族を持つことは私の新たな将来の夢となった。が、その夢を実現するべく相手の女性と生きるには安定収入やその他のことが必要条件として提示された。

私はフリーター路線から脱するのが悔しかったが、その時はじめて就職活動なるものにトライする気になったのだ。生まれて初めてハローワークに赴き、学歴など関係ないような仕事を探してみた。大卒の証は新卒じゃないと無力だと聞いていたからだ。もちろん、いわゆるビジネススキルなど持ち合わせているわけでなし、できそうな仕事といえばかなり限られていた。が、文系の私にとって、親近感を抱かせるのはその中でも印刷業界くらいだと思えた。

印刷業界とはいえ、武蔵野の場末にあったその会社はエンボス加工したシールの印刷などを得意とする工業用印刷工場で、私は3ヶ月の試用期間を与えられ、そこで働くことになった。3ヶ月後に双方の合意があれば晴れて正社員という訳である。

しかし、現実はクソだった。その印刷工場の経営スタイルは古臭く、ブルドッグのような面構えの社長はじめ、その工場には陰鬱な空気が澱んでいた。同僚になるだろう先輩方もどこか暗く、通い始めてすぐに私の心はグングンと縮み上がって、この会社に骨を埋めるなんて無理、と動揺激しく、試用期間でやめよう、という決意が確かなものとなった。

彼女には失望されたが、まだ正社員というものに一縷の希望を抱いていた私は、ハローワークじゃなく、流行りの派遣社員というのをやってみよう、と派遣会社に登録したのだった。少し興味のあったHTMLやCSSなんていうwebプログラムの勉強なんてのもやった。

そして私は2社、派遣社員として働いてみた。働いてみたが、私にとってそれらのオフィスワークや、会社という組織に対する嫌悪感は拭えないばかりか、日に日に募っていくばかりだった。そうこうしているうちに私は恋人を失い、行く当てもなく父に頭を下げて実家に戻り、失意の時期を過ごした。

もちろんバンドが売れるようなことはなく、せめて何か好きになれる仕事を探さないと、と右往左往した挙句、私は当時ハマっていたワールドミュージック関係のアルバイトを見つけた。家族経営の小さな会社であったが、その仕事のおかげでワールドミュージックのあれこれを堪能することができ、またマニアックな音楽シーンに携わっているという誇りも持つことができ、そしてまた単純に好きな音楽を楽しむことができたので満足していた。

するとすぐに正社員にならない?と声をかけられ、私は思わぬ形で初めて正社員という肩書きを得た。私がイメージするような、ヒゲを剃ってスーツ着て、というステレオタイプなルールもなく、私は顎髭を蓄え、普段着のままでワールドミュージックのレビューを書いたり、輸入したCDを小売店に営業して卸すような仕事を面白がっていた。

しかし、ワールドミュージック業界は、その時すでに下火で、サブスクなんてのが流行り始めたり、どんどんCDが売れなくなっていく時期だった。90年代をピークに、業界は衰退の途を突き進んでいた。当然、会社の経営は厳しい状況で、家族経営ならではの、小さな会社で起こりがちなパワハラ問題に私はぶちあたってしまったのだ。

当時は、父が暮らしていた田無のマンションに出戻りで居候していたので生活費に困窮するほどではなかった。この会社にずっといられないな、と本能的に察知した私は3年足らずでその会社も辞めてしまった。

正社員というステータスをやけくそで捨てたはいいが、さて、これからどうすんべ、と途方に暮れていたところ、10年来のバンド仲間に、シェアハウスのクリーニングのバイトを勧められ、またアルバイトに逆戻りかぁ、と大分逡巡した挙句、ろくな当ても見つけられずに彼の誘いに乗ってみたのだった。「きっと、玄ちゃんならハマると思うよ」という彼は、とにかく同僚が面白いいい人ばっかだから、と繰り返し言うのだった。

掃除の仕事に対して、やる前は何となしに下流な仕事、という偏見を抱いていたので、ホントに耐えられるだろうか、と不安にかられた。ところが、入社してみると実際に個性的な同僚達の人情にまず感動してしまった。外国人向けのシェアハウス管理会社だったのでお客さんは外国人だけ。私は会社が管理する都内各所の物件に行き、キッチン、浴室、居間などの掃除をして回る。物件に行くと外国人しかいない。何だかそれだけで面白い。

外国人相手ということもあり、その職場には旅好きな人が多く、また音楽好きの人も多かったので、私はすぐに職場に馴染んでしまった。掃除の仕事も意外と私の性格にハマって、面白い同僚たちとのやり取りも楽しく、これは天職かもしれない、とまで思った。

そのアルバイトを始めた頃に、何と私は結婚したのだった。もはやメシの種にはならぬと弁えていたバンド活動も、頻度を落としながらも続けていて、貧乏生活が続いていたが、そういう部分にあんまり頓着しない女性だったので、「結婚するなら正社員になって」なんてことも言われなかったことをいいことに。

フリーターで何が悪い?なんてことを20代に真剣に訴えていた私は、30代になっても、フリーターが結婚しちゃダメなの?なんてことを考えており、そういう固い社会通念を打ち破る実践者として、アルバイトの身のままプロポーズしたのだった。何とも恥ずかしいことである。

話しを戻すと、その職場で楽しく働き出して、結婚して、あっという間に4年の歳月が経って…。そして、何と子どもが生まれたのだ。貧乏生活を耐え抜き、清貧を謳歌するのはいいが、子育てとなるとこのままのアルバイト収入でホントに大丈夫か? 私は急に弱気になってきた。

慣れ親しんだ職場、経営に責任感のいらないアルバイトは気楽だったが、社員はどうだろう。先輩の社員もいい人ばっかだし、会社組織は利益至上主義でいけすかないが、そこだけ目を瞑れば…。私は部署の長に正社員で働きたい意志を伝えると、難なく社員になることができた。

社員になると、仕事の内容も飛躍的に増えた。単調な掃除の仕事以外にも、ハイエースを運転して各所を回り、DIY補修やリフォーム業務、エアコンや水道など設備のメンテナンス等々、退屈しない内容だった。お客さんとのトラブルや、会社の方針での無茶ぶりやパワハラなど、嫌な面もいくらかあったが、スーツなど着る必要もなく、ここも普段着で顎髭を蓄えたまま働ける。外国人との日常的なやり取りの連続で、貧乏旅行では全然喋れなかった英会話も、日常会話ならできるようになってきたし、糧にもなってる。その上、多くはないけどボーナスなんてものまでもらえるようになって…。

このままこの会社で働き続けるのかなぁ、そんなことまで考え始めていた。そしてアルバイトから正社員になって、また4年ほど経った頃だった。私に2人目の子どもができたのだ。

当時、2DKの典型的な間取りのアパートに住んでいたが、子どもが2人、となると、すぐに手狭になるだろう、いずれ引っ越さなきゃならぬだろう、というのは夫婦の共通認識だった。そして、東北震災以降、いずれは田舎に移住して、という方針も同様だった。ただ具体的な場所の検討ときっかけがなかったのだ。

2人目が生まれることになり、いよいよ住居探しも真剣に、と感じていた頃、ひょんなきっかけで遊びに行った、埼玉県小川町に惚れ込み、トントン拍子で移住することが決まった。私は正社員という身分であったことをいいことに15年の住宅ローンを組んで古民家風の中古屋を購入したのだ。

水回りやキッチンなどリフォーム必須な部分もあったが、仕事で見てきた、あるいはやってきたリフォームの知識や経験を生かしてDIYを推し進めた。こんなカタチで仕事の経験が生活に生かせるのはラッキーだった。そしてワクワクドキドキ、楽しい田舎暮らしを堪能していこう、と高揚していた時期に世界がコロナショックに突入したのだった。(後前編に続く)

脱サラリーマン物語(前編)

私の小さな頃の将来の夢、後で見返して1番古い記録は幼稚園児の時のもので、「消防士」であった。動機はまったく思い出せず、私も世間並みの男の子同様、初めは働く乗り物や公務員に憧れたのかもしれない。

動機まで思い出せる小さい頃の将来の夢は「ゴミ屋さん」である。決まった時間に可燃ゴミをマンションのゴミ捨て場に持って行くと、大体収集の時間と重なって、パッカー車でお兄さん達がやってくる。ゴミを集めてはパッカー車の中に投げ入れる、その姿を幼い私はワクワクした気持ちで眺めていた。ボンボン放り込んで溜まってくると、後部の羽を回転させて溜まったゴミを車内にギュウギュウ押し込んだ。この一連の作業行程が面白い。そして、作業が終わると作業員のお兄さんたちは収集車のお尻に飛び乗って、鉄のバーか何か掴んで、次の回収場所へと流れていく。

さすがに道路交通法の関係か、収集車の後部に飛び乗って移動することは禁止になったのだろう、いつからか、そのアクロバチックな作業員の活躍は見られなくなってしまったが、とにかく、私はゴミ収集の仕事に並々ならぬ関心を寄せたものだ。

しかし、将来の夢がゴミ収集員という、いたいけで無欲恬淡な私の信条は、野球との出会いですぐに何処かへ消失してしまった。いや、野球に引き込まれたのはホントだが、野球を始めるに至った直接の要因は、当時無理矢理習わされていた剣道のせいであった。

生まれ故郷が八幡宮であった父は子供の頃は剣道をやらされていた。私がやらされたのもそのせいである、と思っている。進んで剣道やりたい、というような武士道精神を幼児の私が持つはずはなかったから。

剣道の稽古は田無警察の地下にある道場で行われていた。裸足がひんやりとした床に冷たく、防具は汗臭く、小手を打たれるのが痛くて嫌で嫌で仕方なかった。武道が健全な身体の維持に役立つ、などという視点はもちろんなかったし、私はどうにかして剣道をやめたかった。

そんな時少し興味を持ち始めたのが野球で、リトルリーグに入れば心身鍛錬の名目で剣道を辞めさせてもらえるかもしれない…。ガキながらに叩き出した私の目論見は功を奏し、剣道はそれっきり、私はそこから実際野球にのめり込んでいった。

同時にその頃から、将来の夢欄には「プロ野球選手」という文字列が並ぶこととなった。壁当て(昔流行った遊びで軟式ボールを壁に投げあてて、跳ね返ったボールを拾うだけの遊び。当時は真横に車が置いてある駐車場なんかでも平気でやって、誤って車にぶつけても咎められた記憶がない…)に興じては自分がプロ野球の投手になった設定で、脳内で熾烈な試合を乗り越える投手である妄想、または甲子園の決勝で、打者を封じ込めて優勝する妄想、などで私は満足していた。

ところが大きな問題が野球好きの私を常に不安にさせていた。つまり、私の運動神経が一般から著しく離れて、とにかく鈍い、という事実だった。徒競走なんかで言うと、太ってもおらず痩せぎすな体型のくせに、学年で下から数え上げるような成績で、ある年、運動会の徒競走が、体育のデータに基づいて速い順に競わせるスタイルをとって行われたことがあったが、私は最終レースに組み込まれ、並んだ男子生徒は私以外軒並み肥満児だった。

小学生の残酷の一つに、小学生女子の熱視線の対象は運動神経のいい男子、と相場が決まっていたことがある。運動神経が人より遥かに低いことを自覚した私は体育が恨めしく、上記のような経験から運動会や、体育祭の類はトラウマへと変わった。

運動神経がそんな体たらくで、体格も痩せて力のない私が、野球で活躍できるはずもなく、プロ野球の投手として活躍する妄想は続いたものの、結果的に私はリトルリーグのベンチを温め続け、懲りずに中学で入った野球部のベンチも温め続けることになった。健気だなと今でも思うのは、その頃もまだプロ野球選手、というカードを捨てきれずにいたことだ。

その現実乖離した将来の夢がガラリと塗り替えられたのが中学1年生の冬に友人と観に行ったロックコンサートだった。80年代後半から90年代初頭に人気を博し、TVCMでもしばしば楽曲が使われたジュンスカイウォーカーズというバンドのライブだった。

ダフ屋さんが周囲を徘徊していた。チケットない人あるよー、余ってる人買うよー、と不穏な雰囲気のオジサンが、コンサート会場である武道館のまわりに蝟集するファンの間を彷徨っていたことを覚えている。

目当てのジュンスカのライブは最高だった。ステージに立ってロックンロールを奏でる4人のメンバーを、遠く2階席から私は眩しく眺めて心を震わせていた。エレキギターとドラムスの爆音が心臓を震わせ、ミヤタカズヤのポジティブな歌詞が私の心を躍動させた。

その日から将来の夢がめでたく「プロ野球選手」から「ロックンローラー」となったのである。初めて受験というものに臨んだ時も軽音楽部のある高校に拘り、中学校の卒業式では、卒業証書授受の際に、全校生徒の前で1人一言、想いを発表する決まりになっていたので、愚かな私は恥ずかしげもなく「ロックンローラーになりたい!」と豪語したのである。

運動音痴の私がプロ野球選手を目指す、という痛々しい夢が、ロックンローラーに変わったのはいいが、ミュージシャンになるほどの音楽的才能があるとはいえず(当時は自分を音楽的天才だと思い込んでいたが…)、その頃母が頭を抱えたのもむべなるかな。

この「ロックンローラー」への道はその後、20代後半まで引き摺ることとなり、つまり、その道すじに就職活動というものは入る余地はなく、私は大学生を終えると、粛々とフリーターへと転身。家族の反対が煩わしいので実家を出て一人暮らしが始まった。

かように、私の歴史の中でサラリーマンという概念が理想として登場することはなく、むしろ、スーツ着て満員電車に揺られ、会社のために嫌なことでもなんでもやる、というイメージのサラリーマンは、絶対に避けるべき職業だと思い込んでいた。そしてそれは大学卒業前に経験した海外旅行で確信へと変わった。そう、あの草臥れたスーツ姿のサラリーマン達は日本にだけ特有の民族だと分かったのだ…。(中編へつづく)
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